NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

似鳥昭雄

Akio Nitori

営業で一件も契約を取れず、23歳で家具店を開く。接客を支えた妻、借金で行った米国視察、問屋との対立を経て、工場と物流まで自ら抱えるニトリを築いた。年間売上9,122億円の企業となった今も、商品と海外事業の立て直しへ挑み続ける。

1944年生まれ / 日本出身 / 日本の家具・生活用品小売

物語を読む
似鳥昭雄の人物イメージ(AI生成)。実際に撮影された写真ではありません。
似鳥昭雄の人物イメージ(AI生成)。実際に撮影された写真ではありません。

運は創るもの。

Luck is something you create.

本人の代表的な著書『運は創るもの 私の履歴書』の題名。 原文 · 英語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

推計個人資産

31億ドル

約4,885億円

主な保有資産

  • ニトリホールディングス

ニトリホールディングス

創業者・代表取締役会長

家具、寝具、カーテン、食器・生活用品を企画・販売。グループで製造・貿易・物流も担う。島忠などを含む連結。

年間売上

9,122億円

出典・詳しい補足

売上はニトリHDグループの年間収益であり、本人の収入や資産ではない。島忠は連結に含まれるため、二重に足していない。

個人資産はForbes推計。保有株の直接割合と、資産管理会社・配偶者・財団の財産を区別。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • ニトリホールディングス — 年間売上 / 2026年3月期(2025年4月〜2026年3月) / 連結・IFRS公表実績

主な保有資産・持分の出典

本人の直接保有割合。同じ報告書のニトリ商事18.17%や妻の0.35%は別主体で、本人の2.98%へ合算しない。資産管理会社への出資比率を確認できないため、その法人の保有株を本人持分へ換算しない。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +66 / 100

1944年の樺太で生まれ、終戦・占領・1947年の引揚げと住み替えを経験した。幼児期から戦争を避け、安全で安定した土地に暮らせた人々と比べ、出発点は明確に不利だった。現在の札幌や日本の高い生活基盤を出生時へ遡って採点しない。

一方、出生〜24歳のすべてが戦時だったわけではない。札幌で小中高校と大学へ進む道があり、戦後の教育・医療と生活基盤が回復した。1947年から1960年にかけ全国の平均寿命は大きく改善し、1961年には皆保険が実現した。成人後は全国の消費市場、道路・港湾・金融制度、国外調達へアクセスする条件が整う。本人の売上や資産を場所の加点へ戻さず、個人の家庭事情とも分ける。

詳しい評価方法はこちら →
親・環境ガチャなぜこの点数? +59 / 100

親から大企業や巨額資産を継いだ出発ではないが、「何もない状態」でもなかった。父は土木会社を営み、創業では父の会社の土地建物を使え、親や親戚から開店資金を集めた。米国視察でも親戚から旅費を借りることができた。同時代の世界で中等教育や高等教育・事業の借入に届かなかった家庭と比べ、支えは大きい。ただし学費が全額親払いだった、自由に使える巨額資金があった、という未確認の前提は置かない。

その資源の有利さだけで養育環境まで上位に置かない。本人が語る両親からの反復した体罰、家庭で意思を伝えにくかった経験、学校のいじめと早くからの家の労働は、幼少期の安全や安心を大きく損なっていた。安全の軸を低く置き、大学へ行けたことと相殺して消さない。親個人の人格や道徳を採点する意味ではない。

24歳ごろから妻の百百代が接客と配達、家族間の意思疎通を直接支え、25歳以降も立ち上がりの実務を担った。継続的な師である渥美との関係は助言の軸で評価する。一方、ニトリが後年生んだ財産・有給従業員全体・通常の商取引の人脈を家族支援へ読み替えない。親族間訴訟の未確認の責任判断は点数へ織り込まない。

詳しい評価方法はこちら →

THE STORY

似鳥昭雄の物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01借金のある男が40万円の旅へ出る

家具屋を救うため海を渡る

客が来ない。1971年に広げた店の近くへ、自分たちの5倍ほどの家具店が現れた。似鳥昭雄は借金で250坪の売り場を用意したばかりだった。広くすれば売れると思っていたのに、相手はもっと広い。支払いは残り、売上は落ちていった。[1][2][3]

そこへ、アメリカの家具店を回る視察旅行の誘いが来る。旅費は40万円。いま必要なのは、店を続ける金だ。その金を使って、遠い国の店を見に行く。昭雄は親戚から資金を借り、1972年のツアーへ加わった。[2][3]

海の向こうにあったのは、大きなタンスをたくさん並べた売り場ではなかった。ソファの隣にカーテンがあり、カーペットがあり、食卓まで色がそろっている。家具を1品選ぶ場所の中に、暮らしてみたい部屋ができていた。しかも、本人が驚いた価格は日本の3分の1ほどだった。[4]

昭雄は北海道で、もっと大きい家具店と争っていた。こちらでは、普通の家庭が部屋全体を整えられる。大きさを競うだけでは届かない商売が、目の前にあった。借金を抱えて出た旅で、彼は自分の店に何をさせたいのかを初めてはっきりつかむ。その店主は、客と話すことさえ苦手な男だった。[5][1]

02自分の名前が書けなかった少年

樺太から来た少年

1944年3月5日、似鳥昭雄は北海道の北に横たわる島、樺太に生まれた。現在のサハリンに当たる。島の南部が日本の統治下にあった時代だった。[6][7]

樺太に生まれ、札幌で育つ。全体図と拡大図。
樺太に生まれ、札幌で育つ。出生都市は未確認のため点を置かず、出生地域と、育った札幌を区別しています。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。

終戦後の1947年、昭雄は母たちと北海道へ引き揚げた。母方の親戚を頼って道内を移り、札幌に落ち着く。父はシベリアに抑留されており、家へ戻ったのは昭雄が小学校へ上がる頃だった。引き揚げ船で頭からDDTをかけられ、逃げ回った記憶を、本人は長く覚えていた。[2]

母はヤミ米を扱った。食糧管理の制度の外で流通する米を売り、昭雄も自転車で配達した。大学を卒業するまで続けた仕事だった。父は帰還後、40歳を過ぎて大工の見習いを始め、やがて住宅の基礎工事をする会社を営む。休日には、息子も現場を手伝った。[2][8]

配達の道と教室の外

学校へ行っても、昭雄には居場所がなかった。先生の話を覚えられず、漢字が書けない。高学年になっても自分の名前を全部ひらがなで書いていたという。いじめにも遭った。家では、言われたことをすぐ理解して動けず、父にも母にもたたかれた。本人が振り返る子ども時代は、寝ている間だけが楽だと思うほどつらいものだった。[2]

1950年ごろの札幌市役所。昭雄が育った時代の札幌。
1950年ごろの札幌市役所。昭雄が育った時代の札幌。
写真:作者不詳(世界文化社「日本大観 第20巻」)、スキャン:あばさー 作者不詳(世界文化社「日本大観 第20巻」)、スキャン:あばさー / Wikimedia Commons / Public domain (PD-Japan-oldphoto / PD-1996)/出典/Public domain (PD-Japan-oldphoto / PD-1996)。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

米を運ぶ自転車に乗っていても、いじめは追ってきた。中学生の時には、自転車ごと川へ突き落とされたことがある。家へ戻っても母は慰めてはくれず、落とした米を拾ってくるよう言った。川へ戻っても、取り戻せたのは1割ほど。家族の食べ物と売り物を運ぶ仕事が、学校の外の逃げ場にもならなかった。[8]

苦手なことばかりの中で、珠算には取り組めた。中学で1級を取る。計算ができることと、授業の内容を暗記できることは、昭雄の中では別々だった。成績表には1や2が並んだが、母へは1が最高で、その次が2なのだと説明した。母は喜び、近所へ自慢した。採点の本当の順番がわかると、当然、怒った。[2][9]

後年、本人は自分の記憶や会話の苦手さを、発達障害という言葉で説明するようになる。[2]

父の工事を手伝い、母の米を届け、弟妹の面倒も見る。父は家業を継がせるつもりだったが、昭雄はきつい仕事から離れたくて進学を頼んだ。自立することを条件に短期大学へ行く許しを得る。その学生生活でも、家へ戻れば配達が待っていた。[8][2]

札幌短期大学から北海学園大学へ編入しても、本人は代返や論文の代筆まで頼んだと明かしている。進学できても勉強に打ち込む学生にはならず、アルバイトとビリヤードなどの遊びに時間を使った。成功後も、その頃の手抜きを隠さず話した。[2]

1966年、北海学園大学の経済学部を卒業した。まず社会へ出る。だが、自分をうまく使ってもらえる仕事を見つけるのは、卒業証書を得るより難しかった。[6][10]

03会社を辞めても帰る場所がない

半年間で契約は0件

父の仕事とは折り合えず、家を離れた。次に入った広告会社では、相手へ広告を出してもらう営業をする。ところが、人の前へ出ると緊張して汗が噴き出す。説明できない。契約が取れない。半年で1件も取れず、解雇された。[2][1]

友人のところを頼ったが、そこへいつまでも居続けるわけにもいかない。約1年ぶりに実家へ戻ると、父に怒鳴られ、一升瓶を投げられた。昭雄はまた家を出る。今度は叔父の土木会社に世話になり、現場監督を務めた。[2]

だが作業員が寝泊まりする宿舎で火事が起き、その仕事も失った。営業でも続かず、土木の現場にも残れない。追い詰められた昭雄へ、友人が自分で商売をしてはどうかと勧めた。[2]

近所に家具屋だけがなかった

引き揚げ者の住宅が集まる地区には、家具店が見当たらなかった。暮らす人がいて、必要な家具を買う場所がない。それなら自分にもできるかもしれない。家具づくりの技術を磨いてきたわけでも、営業で成績を上げたわけでもない青年が、その隙間へ入ろうとした。[2][1]

仕入れの問屋は、23歳の素人をなかなか相手にしてくれなかった。金もない。親や親戚へ頭を下げ、100万円を集める。売る前から、商売を始めるために人を頼る仕事が続いた。[2]

父の会社が持つ土地と建物を使えることになった。自分にできなかった仕事を一気に克服して開店したのではない。自分で商売をしなければ、次に行く先がない。その青年の下へ、資金と場所がようやくそろった。[8][1]

04支店はあるが本店はない

30坪の店と2階の住まい

1967年12月、札幌で似鳥家具店を開いた。売り場は30坪ほど。2階で暮らし、階下で商売をする。看板には、ほかにも店があるように見せる「北支店」の文字まで付けた。実際は、この1軒しかなかった。[11][8]

名前を大きく見せても、接客の苦手さは隠せない。客が入ってくる。どんな品を探しているのか聞き、違いを説明し、買うところまで案内しなければならない。昭雄には、その会話が難しかった。[1]

毎月60万円ほど売れなければ赤字なのに、売上は40万円ほど。母から融通してもらう米で冬をしのいだが、栄養が足りず、脚気や鳥目を患ったと本人は話している。店主にはなれた。それでも、ちゃんと食べて暮らせるだけの金が残らない。[2]

8回目の見合い

人を雇って接客を任せたい。しかし、その給料を払う金がない。困り果てた息子へ、母が結婚を勧めた。長時間労働で休日が少なく、親とも同居する暮らしだ。見合いは断られ続けた。[2][12]

8回目に会ったのが、洋裁を学んでいた百百代だった。19歳の彼女が結婚を受け入れ、見合いから約2か月後、2人は夫婦になる。昭雄の店へ、新しい働き手でもある妻がやって来た。[2][1]

05妻は店に立ち夫はパチンコへ寄る

百百代が客を迎える

百百代は家具販売の経験者ではなかった。それでも、客と自然に話せた。昭雄が汗をかいて言葉に詰まるところで、妻は相手と向き合い、買い物を手伝った。客が増え、店は食べていけるようになった。[2][12]

2階の住まいも売り場へ変えた。初年度の売上は1000万円、2年目には1500万円になったと、昭雄は後に説明している。毎月の赤字に苦しんだ店が、暮らしをつなぎ、次を考えられる商売へ変わり始めた。[2]

百百代は後の夫婦取材で、結婚相手を事業欲のある大物とは見ていなかったと話す。むしろ遊ぶことを考える普通の若者だった。ただ、自分は会社員の妻になるより、商店を切り盛りする暮らしを望んでいた。そこへ来たのが、この家具屋だった。客を迎えることや店を切り盛りすることは、百百代自身が望んだ仕事でもあった。[8]

客からは、すぐ届けてほしい、明日使うから今日欲しいと頼まれる。そんな時に昭雄は配達の途中でパチンコへ寄り、戻らなかった。百百代は夫を探し回る代わりに自分で免許を取り、トラックを運転した。接客に続いて、買った家具を客の家へ渡す仕事も担う。店の売上が伸びた分だけ、妻が引き受ける仕事も増えた。[8][2]

家の中でも通訳が必要だった

昭雄と母は、互いに言いたいことを伝えるのも難しかった。そこで百百代が間に入り、双方の意図を説明する。客へ家具を売るだけでなく、家族の間にも言葉を通した。昭雄は、結婚後にようやく母と意思疎通できるようになったと振り返っている。[2]

創業からの約10年間、妻は共同経営者だったという。子どもを授かり、その後は流産も経験した。従業員を雇えるようになると、百百代が抱えていた店の仕事を任せられるようになった。[2]

店が大きくなる前に、この家族にはまず、1人で抱えなくてよくなる変化が必要だった。やがて昭雄は、もっと広い売り場へ進む。そこで、思わぬ競争相手が待っていた。

06大きくした店が小さく見える

北栄店のすぐ近くに強敵が来る

1971年、札幌に2号店の北栄店を出した。250坪。30坪の店から大きく広げたが、その近くへさらに大きな家具店が現れた。売上が落ち、借金の負担がのしかかる。[3][2]

資金を工面してアメリカへ渡ったのは、その危機の中だった。SearsやJCPenneyといった大手小売店では、家具とインテリア用品を組み合わせて売っていた。日本では別々に買って色を合わせる部屋を、売り場の中で既に見せている。[4]

昭雄が持ち帰りたくなったのは、特定のソファの形ではなかった。普通の家庭が、無理のない予算で部屋を整えられる暮らしだ。チェーンストアなら同じ商品を大量に注文でき、製造や仕入れの条件まで変えられる。1店の店主が値引きを頼むより大きい力を、店を増やすことで持てる。[5]

売り場の後ろを持ち帰る

帰国してアメリカ風の家具を並べても、同じ価格にはならない。問屋から仕入れ、倉庫へ置き、客へ届ける費用はそのままだ。昭雄は安い値札を付けるために、その後ろへある仕事まで変えなければならなくなった。[4]

30年で100店舗、売上1000億円。数店の会社には遠い数字だ。昭雄は、最初の10年に店をつくり、次の10年で人を育て、その人たちが商品や仕組みを育てるという長い計画へ進む。次の月をしのぐ金を探していた男が、今度は自分の人生ほど長い予定表を持った。[13][4][3]

07空気で支える店が雪でつぶれる

南郷店のエアドーム

1975年、札幌の南郷店へエアドームを採用した。空気圧で膜を支え、内部に広い空間をつくる建物だった。家具を安く売るなら、豪華な外壁へ金をかけるより、広い売り場を安く持ちたい。家具店として日本初の試みだった。[11][14]

ところが、開店当日の大雪でドームがつぶれ、商品が傷んだ。昭雄たちは傷んだ品を半額で売る企画へ変えた。すると、多くの客が来た。安く広くつくる工夫は失敗したが、その商品を売る別の方法を考えた。[15]

安い品を探すだけでは続かない

アメリカから帰ってきた昭雄は、すぐ整ったチェーンを作れたわけではなかった。安く仕入れられると聞けば全国へ出向き、倒産した家具メーカーの在庫も買った。店へ並べる商品が必要だ。客を呼ぶためには、目立つコマーシャルも試した。安い物を見つけて売る。その繰り返しで、売り場を埋めていった。[16]

だが、次も同じ商品が欲しいときに、次の倒産品が都合よく出てくるとは限らない。仕入れるたびに品が変われば、部屋全体の色や形をそろえて見せることも難しい。アメリカで見つけた売り方と、帰国後に自分ができる仕入れには、まだ大きな隔たりがあった。[16][17]

本人の回想では、店を増やせるのは3〜4年に1店ほどだった。その1店が増えるたびに悩みも増え、働き始めた社員は辞めていく。やる気のある人ほど長く残らない。昭雄は後に、当時の過重労働と低い賃金を自分の経営の問題として認めている。安い値札に客が集まっても、その店を続ける人が去ってしまう。大きな構想を持った店主には、店を動かし続ける方法が足りなかった。[16]

08勉強嫌いが褒めない先生へ通う

渥美俊一に会いに行く

1977年、昭雄はチェーンストア経営の研究者、渥美俊一が主宰するペガサスクラブへ入った。店を増やすと経営者の目が届かなくなると考えられていた時代に、渥美は11店から先の経営を説いていた。5店ほどで限界が来るなら、100店の計画は実現できない。昭雄は札幌から東京へ通い始めた。[18][5]

学校では代返を頼んだ人が、今度は自分から時間と金を使って教わりに行く。しかも渥美は、社長の機嫌を取ってくれる相手ではなかった。遅刻も曖昧な答えも許されず、できていないことを厳しく指摘された。昭雄はそれでも、面白いと感じた話を次々にメモした。自分の記憶に頼らず、教室を出た後でも取り出せるよう、紙へ残した。[18][5]

安い家具を探して買うだけでは、全国へ同じ店を作れない。発注の順序、商品を置く場所、従業員の教え方。それまで店主の経験で処理してきた仕事を、別の街の別の人にも渡せるようにする。学んだことを札幌へ持ち帰ると、売り場だけでなく会社の裏側に直す箇所が現れた。[16][19]

36人を1度に迎えた会社

初めて新卒社員を採り始めた頃、ニトリの社員は60人ほどだった。昭雄が後に会社の基礎を作ったと振り返るのは、4期生として入った36人だ。既存社員に対して、それだけの新人を1度に迎える。まだ整っていない会社へ、大勢が入って来た。[5]

全員が残ったわけではない。会社を去る人も多かった。低い賃金や重い労働を改め、仕事を教える必要がある中で、残った人々が各地の店や新しい部署を担うようになる。昭雄が東京で学んで帰るだけでは、会社は動かない。倉庫や店舗を任せられる人が育つまで、長期計画の最初の時間を使うことになった。[5][16][19]

倉庫へ金を入れる

1980年、札幌の物流センターを移転し、自動立体倉庫を導入した。大きく、傷つきやすい家具を、人が探し回って運ぶだけでは限界がある。売り場の裏へ投じる金で、保管と配送を変えようとした。[11]

翌1981年には札幌以外で初めて、苫小牧へ店を出す。社長が毎日その場へ行かなくても、売る商品が届き、人が働き、客へ渡る必要がある。1つの街を出るたび、倉庫と配送は店を増やすための足場になった。[11][20]

09安く仕入れたいのに商品が来ない

問屋を飛ばしてみる

家具メーカーが忙しい季節を避け、冬になると昭雄は本州へ仕入れに行った。北海道から津軽海峡を越え、新潟や群馬県前橋市の木工産地へ足を延ばす。問屋を通さず直接買えば、その分だけ客へ安く売れる。だが相手には、ニトリよりはるかに大量に買う問屋がいた。[21][5]

ニトリへ商品を出すなら取引をやめる。そうした圧力がメーカーへかかると、ようやくつかんだ仕入れ先が使えなくなった。昭雄は別の会社を探し、夜中に商品を運び出すことまでした。それも見つかり、また次のメーカーへ向かう。安い家具を売れる店を作りたいのに、売る品を確保するところで追い詰められた。[22][5]

1985年のプラザ合意を経て円高が進むと、外国の商品を円で買う負担は軽くなった。

1986年、ニトリは海外商品の直接輸入を始める。同年、会社名から家具の文字も外し、株式会社ニトリとなった。[11][23]

台湾では電話帳から取引先を探した。昭雄の回想では、1週間で70社を回っている。訪ねた先が、すべて使えるわけではない。10社を当たって1社とうまくいくかどうか。国内で追いかけていた仕入れ先を、今度は海の向こうで1社ずつ増やした。[5]

仕入れ先が見つかっても、寸法が合わない、仕上げが悪い、運ぶ間に傷むといった問題が出る。交換や返品の費用を払えば、最初の安さが消える。今度は遠くの工場で、何を作ってもらい、どう検品するかまで引き受けなければならなかった。[23]

10北海道の外では無名だった

海峡を越えて売る

1989年、ニトリは札幌証券取引所へ上場した。[11]

1993年には茨城県ひたちなか市の勝田店を開き、本州へ初めて出た。創業から四半世紀以上。北海道で店を増やし、人と商品をそろえた後、ようやく海峡を越えた。[11]

北海道で売れた品ぞろえを置いても、千葉や茨城では初めから順調には売れなかった。似鳥は後に、南町田の店で得た手応えを、関東で出店を広げる手掛かりにしたと語る。知らない土地で客をつかみ、その周辺へ広げる。看板を持ってくれば客が待っているわけではなかった。[24]

2000年、埼玉県白岡町に関東物流センターを開いた。遠い店のために北海道からばらばらに送るのではなく、関東でまとまった商品を扱い、必要な店や客へ届ける。客に見える店舗網の後ろで、品物が通る道も太くした。[11][20]

船で届く部品を北海道で組み立てる

海外へ買い付けに行けば、完成した家具がそのまま日本の店へ届く。それほど単純な出発ではなかった。ニトリは北海道の家具メーカー、マルミツ木工から製造の経験を取り込み、海外で作った部品を旭川近郊で組み立てる体制を築いていく。タイや中国で部品を作り、日本で家具に仕上げる。売る物を探していた会社が、作業をどの国で行うかまで選ぶようになった。[25]

1989年にシンガポールの現地法人を設けたのも、その過程にあった。札幌の店を訪れる客からは見えない場所に、取引や製造をつなぐ拠点ができる。家具の形だけでなく、その家具が店まで来る経路が変わり始めていた。[11][25]

ただし、仕入れ値が安くなった喜びは、客からの苦情で吹き飛ぶこともある。座った椅子が壊れたという訴えも届いた。売り場で見たときには整っている家具が、使う人の体重を受けると壊れる。品物の見た目をそろえる仕事に加え、普段の使い方に耐えるかまで、自分たちで確かめる必要があった。[26]

11先生に止められても工場を持つ

同じ色がそろわない

安く買えるだけでは、アメリカで見たように部屋全体を整えられない。昭雄は家具メーカー約15社へ協力を求め、研究会を作った。ニトリがデザインや材質を指定し、既に技術を持つメーカーに作ってもらう。それなら工場を持たずに、欲しい商品をそろえられるはずだった。[17]

ところが、出来上がった物を並べると色が違った。同じ指定を出したはずなのに、木目や塗装の仕上がりが合わない。1台ずつなら売れる家具でも、机の隣に棚を置けば差が目につく。別々の工場で作る品を、部屋の中で一緒に見せる。その段階へ進むと、注文書だけでは解決できないことが出てきた。[17]

渥美は小売りが製造まで抱えることに否定的だった。それぞれの分野に精通した人を集めれば、小売りを伸ばす速度が落ちる。昭雄は師の考えを理解しながらも、欲しい商品が来なければ売り場を作れなかった。北海道の家具メーカーから製造の経験を取り込み、さらに海外での生産へ進む。[17][5]

1994年、インドネシアで家具製造の拠点を立ち上げた。現地で働く人を雇い、材料をそろえ、技術を教える仕事が始まる。2004年にはベトナムにも工場を開いた。遠くから安い完成品を探す段階を越え、自分たちの指定した家具を、継続して作り出す場所を持つことになった。[3][11]

店の周りに別の仕事が増える

企画し、原料を調達し、製造し、海を渡して運び、保管して売る。全部を自社だけで作るのではなく、外のメーカーとも組みながら、価格や品質を左右する部分へ深く入る会社になった。後に製造物流小売業と呼ばれる仕組みである。[27]

最初の家具店で昭雄にできなかったのは、客へうまく話すことだった。妻へその仕事を任せた男は、今度は店へ品物を届ける、もっと長い道を作る役割を担っていた。問屋から買えなければ海外へ行き、頼んでも色がそろわなければ製造へ入る。値札を下げようとするたび、会社の仕事が増えていった。[2][17]

1230年前の数字へ追いつく

売上1000億円と100店舗

2002年、東京証券取引所の一部へ上場した。[11]

2003年2月に売上1000億円を達成し、同年12月には宇都宮店で100店舗へ届いた。30年計画で描いた数字が、実際の会社の大きさになった。[11]

札幌のニトリ本店(2015年)。全国展開を支えた拠点の一つ。
札幌のニトリ本店(2015年)。全国展開を支えた拠点の一つ。
写真:禁樹なずな 禁樹なずな / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0/出典/CC BY-SA 4.0。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

本人は1年遅れの達成だったと説明している。創業から100店舗までは36年かかった。その後の100店舗は、はるかに短い時間で増えていく。先に整えた調達、物流、教育を、次の店でも使えるようになっていた。[3][13]

品ぞろえも変わった。住宅に収納が備われば、大きなタンスを買わずに済む人が増える。ニトリは机やベッドのほか、寝具、カーテン、食器、日用品へ広げた。新居へ引っ越す時だけでなく、暮らしている間にも足を運ぶ店へ近づいていった。[28]

13飛行機の隣席に欲しかった人がいた

中国から帰る機内で出会う

自分たちで製造に関わるようになっても、ものづくりの経験は十分ではない。昭雄は1990年代初めから、大手メーカーの技術者を迎えたいと考えていた。[25]

2002年、中国から日本へ帰る飛行機で、隣の男性と話が弾んだ。相手はホンダの技術や生産に長く携わり、中国の現地事業も率いた杉山清だった。求めていた専門性を持つ人が、偶然、すぐ隣に座っていた。[25]

杉山は2004年に特別顧問へ就き、翌年には生産と品質を担当する専務になった。飛行機での会話を、会社で一緒に働く関係へつなげた。[29]

工場に入る前から調べる

2018年の取材で紹介された商品開発では、市場を調べて品ぞろえを考える担当と、それを製品へ変える担当が分かれていた。工場を選ぶ際には、品質を調べる部署が事前に審査する。安く作れるという話だけで、すぐ発注が決まるわけではない。[30]

試作品には法令上の検査と自社の安全基準を課し、量産開始前、最初の出荷前、日本側の倉庫へ入った後にも確認を重ねた。売った後に不具合が出れば、どのまとまりで作られた商品かを追う。検査表と生産の記録が、海外の工場と国内の店をつなぐようになった。[30][25]

そこには、自動車メーカー出身の杉山たちが持ち込んだ経験もあった。椅子へ繰り返し体重をかけたとき、引き出しを何度も開閉したとき、使う人の家で壊れないか。仕入れ値の計算だけだった仕事へ、試作品、包装、説明書、出荷する単位の確認まで加わっていった。[26][30]

引き出しのレールまで変える

2017年発売のキッチンボード「リガーレ」は、収納や引き出しを組み合わせられる台所用の家具だ。ニトリはドイツのメーカーと開発し、引き出しのレールの故障率を従来品の約0.5%から0.03%へ減らした。客が普段意識することの少ない、引き出しの中の部品にまで手を入れるようになっていた。[31]

別の改善は、運ぶ姿を変えた。マットレス「ポルタ2」は圧縮して巻いた状態で包む。寝心地を確かめた後、店から持ち帰りやすくなる。商品を広げたときの大きさを変えずに、運ぶときの空間を減らせば、1度に運べる数も増える。家具を安くするために増やした物流の仕事が、今度は商品の包み方へ働きかけた。[31]

14海外へ店を出した年の品質問題

台湾へ出る

2007年、台湾南部の港湾都市、高雄に海外1号店を開いた。これまでは商品を作り、仕入れるために出ていった地域へ、今度は売る側として入る。暮らす家の大きさや使い方を調べ、その土地の客へ品物を選んでもらう店になった。[11][27]

台湾・台北のニトリ敦北店(2013年)。高雄の海外一号店とは別の店舗。
台湾・台北のニトリ敦北店(2013年)。高雄の海外一号店とは別の店舗。
写真:Asacyan Asacyan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0/出典/CC BY-SA 3.0。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

土鍋を調べ直す

同じ2007年、日本ではIH対応土鍋の問題へ対応した。返金を案内したのは、24cmと28cmの対象製品だった。ニトリは店へ持参してもらうよう呼びかけ、別の3シリーズについても第3者機関で検査した。火にかけて食事を作る物だけに、買った人には自分の使う鍋が大丈夫かという不安が広がる。[32]

検査結果の公表では、ほかの3シリーズには、通常より厳しい条件でも鉛やカドミウムの溶出は検出されなかったと説明した。問題の出た製品を返金するだけでなく、残る商品についても確かめて知らせる。製造へ深く入って価格を下げる一方で、販売した後の説明にも追われた。[32]

15値下げで勝った男が安すぎたと言う

不況の前から値札を下げる

2008年、ニトリは値下げを始めた。原料やエネルギーの値上がりが問題になる中で、反対へ動く。リーマン・ショックで消費が冷え込む前から、対象を増やし、通常の価格を下げていった。[33][11]

2009年2月の第4弾では、さらに約300品目へ広げる。売った1品から入る金額が減っても、客を増やし、仕入れや配送の費用を抑えられれば続けられる。海外調達と物流へ先に使ってきた金が、店頭の安さを支えた。[34][33]

ただ、値段を下げれば全員が喜ぶわけではなかった。もっと品質や見栄えのよい物を買いたい人には、欲しい品が見つからなくなる。2014年、似鳥は取材で、値下げをしすぎた面があると認めた。[35]

都心に出ると客も変わる

都心の店へは、郊外の大型店と違い、駅から歩いてくる客も多い。若い夫婦や働く人が、限られた部屋を整えようと来る。ニトリは都市型店舗で中価格帯をそろえ、同じ会社の中でも、見せる品ぞろえを変えた。[36]

ニトリ赤羽店(2012年12月)。
ニトリ赤羽店(2012年12月)。
写真:Abasaa(あばさー) Abasaa(あばさー) / Wikimedia Commons / Public domain (author release)/出典/Public domain (author release)。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

もう少し払っても選びたい品を用意する。価格帯を広げると客単価も上向いた。安くするために仕組みを作った会社が、今度は安さだけを強調していた自分たちの売り方を直した。[37][28]

16今夜の寝心地を売る

暖かい涼しいずれない

NウォームやNクールが、家具の店へ普段行かない人にも知られるようになった。体から出る水分を利用して暖かさを得る寝具と、触れた時のひんやり感を特徴にした寝具。客が選ぶのは、繊維の名前より、今夜どう眠れるかだった。[38]

布団カバーでは、内側を工夫し、結び紐を使わなくても布団がずれにくくした。大きな新技術の名前を売るのではなく、家事のたびに繰り返していた手間を減らす。店で話すのが苦手だった創業者の会社が、多くの人の部屋の、小さな不便へ入り込むようになった。[22]

暑くなったから寝具を替える。カーテンを新しくする。新生活で食器をそろえる。引っ越しで大きな家具を買った客が、その後にも戻る理由が増えた。家の収納が変わり、世帯が小さくなる時代に、ニトリもタンスを大量に並べる店のままではなくなった。[28]

値札の前で計算させるな

2021年のテレビ取材では、成長した会社の会長が、売り場の小さな表示に足を止めていた。場所は東京・練馬区の成増店。テーブルの価格は出ているが、椅子をそろえると総額はいくらになるのかが一目でわからない。昭雄が注意したのは、客へ計算をさせる見せ方だった。[22]

その場面には、1972年に見た売り場の宿題が残っていた。部屋を整えて見せても、実際にそろえるための予算がわかりにくければ買いにくい。大きな企業の会長になっても、確認するのは目の前のテーブルと値札だった。[4][22]

商品を審査する場では、保冷用のペットボトルホルダーも俎上に載った。飲み物は冷たく保てても、ふたを回すと中のボトルまで動いて開けにくい。他社にもある商品を、そのまま安く並べるのでは足りない。ボトルを固定できる工夫を加え、実際に使う動作まで直した品を出す。安く仕入れる場所を求めた家具屋は、使う人の指先で起きる不便まで扱う会社になっていた。[22]

17見学した国へ自分の店を出す

Aki-Homeでアメリカへ

2013年、ニトリはアメリカ西部・カリフォルニア州へ出店した。店の名はAki-Home。借りた旅費で売り場を見て回った国へ、今度は自分たちで商品を並べに来た。[11][39]

似鳥は、日本と同じ品物では2〜3割しか通用しないと語った。住まいも体格も違う。見るだけの研修ではわからないことを、現地で売り、売れ残りを抱えながら学ぼうとした。[36]

2014年には5店目の開業を発表した。しかし、その後の店舗は減っていく。日本で何十年かけて整えた仕組みを持ち込んでも、現地の大手と並んで選ばれ、利益を残すには足りなかった。[39][40]

18自分以外にも会社を任せる

白井俊之へ渡す社長の席

2014年、似鳥は事業会社ニトリの社長を白井俊之へ任せた。[41]

2016年には持ち株会社ニトリホールディングスの社長も白井が継ぎ、似鳥は会長になる。店舗や商品の仕事を長く経験してきた社員が、経営の前面へ出た。[41][6]

ニトリは、1つの仕事だけに社員をとどめず、店舗、物流、製造、商品などを異動させてきた。2016年の本人取材では、配転の間隔は2〜3年ごとと説明される。売り場の困りごとを、仕入れや倉庫までさかのぼって考えられる人を育てるためだった。[19]

海外の売り場を見る研修も続けた。かつて昭雄1人が40万円で見に行った風景を、今度は社員にも見せる。自分が決めなければ進まない会社から、多くの人が次の判断を担う会社へ。そのために時間と金を使った。[27]

2020年には、事業会社ニトリの社長を武田政則が継いだ。持ち株会社を率いる白井、店舗や商品を担う武田、会長の似鳥。大きくなったグループの中で、役割を分けて経営する体制へ進んだ。[11]

それでも、創業者がいなくなったわけではなかった。会長として会社の方向を語り、商品へ注文をつけ、海外も歩く。任せたはずの会社へ、後に本人はもう1度戻ってくる。

次の仕事を本人にも選ばせる

店舗から物流へ移ると、これまで配送を頼んでいた人が、頼まれる側になる。商品担当へ移れば、売り場で欲しがられる品を、材料や工場の都合から考え直す。2〜3年ごとの配転は、こうした違う立場を経験する時間にもなった。[19]

本人がどの分野へ進みたいのかも聞く。似鳥は後の取材で、年に2回、社員に希望する仕事や身につけたい技術を書かせる仕組みを説明した。本部だけに居続けず、現場へ戻る。将来、数字に責任を持つ専門家や、子会社を率いる人を育てるために、長い時間をかけて複数の仕事を任せていた。[5]

2016年の取材では、教育に金を使い、残業代を払い、会社のための犠牲を社員に求めないという考えも示している。若い頃に人を使い続けて辞められた経験を持つ社長が、今度はそこで働く人自身の人生を前に置く。ただ、後継者が育っても、自分の見てきた風景まで渡せるとは限らなかった。[19][16]

19安い家具を売った金で古い銀行を残す

学生を支える株式と配当

2005年3月、似鳥は私財をもとに似鳥国際奨学財団を設立した。商品を作り、供給してくれるアジアの国々へ恩返ししたい。まず日本へ来ている留学生に、返済する必要のない奨学金を渡す活動を始めた。創設当初に支援したのは、わずか3人ほどだった。[42][43]

継続する支援へ、似鳥は自分が持つニトリ株も移した。2023年の対談で説明した寄付は400万株。1株1万7000円として評価すれば680億円になる。財団へ移った株から生まれる配当を、毎年の学生支援へ回せるようにした。[43]

2023年の対談当時、支援は海外5か国の学生約800人のほか、日本の大学生、高校生、ひとり親家庭の中学生へも広がっていた。さらに東京・板橋区では40室の女子学生寮を用意する。学費だけを渡しても、暮らす場所の費用で困る人がいる。家具屋を支えたアジアへの恩返しは、日本で学び続けるための住まいへも広がった。[43][42]

卒業した後にも会いに来る

2026年7月、東京湾のクルーズ船へ奨学金を受けた卒業生ら約480人が集まった。1期生から21期生まで、出身は22の国と地域。既に働いている人と学生が同じ船へ乗り、似鳥も交流に加わる。財団は、卒業した後も顔を合わせられる場を作っていた。[44]

商売では、電話帳で見つけた台湾の工場や、飛行機で隣り合った技術者が、似鳥の次の道を開いた。奨学金を受ける人へは金だけでなく、新しい相手と出会う機会も残す。船に集まった人々は、それぞれの仕事や経験を持ち寄った。小さく始めた支援の先に、創業者本人の店とは別の、人のつながりができていた。[44][25]

小樽の建物を美術館へ変える

2016年、北海道西部の、運河と古い倉庫が残る港町小樽に、小樽芸術村を開いた。銀行や倉庫だった建物を改修し、美術品を展示する。日常の家具を安く届ける会社の創業者が、古い街の建物と作品を残すために金を使った。[45][46]

小樽芸術村のステンドグラス美術館・旧高橋倉庫(2018年)。
小樽芸術村のステンドグラス美術館・旧高橋倉庫(2018年)。
写真:Braveheart Braveheart / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0/出典/CC BY-SA 4.0。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

使われなくなった銀行へ人が入り、作品を見て、街を歩く。建物を保存するだけでなく、その中へ次の役割を入れた。店を増やしてきた仕事の隣で、北海道の街へ残す場所も増えていった。[45]

2025年には浮世絵美術館が加わり、翌2026年に小樽芸術村は10周年を迎えた。葛飾北斎の肉筆画《雪中美人図》も、その節目に公開される。時代を越えてきた作品を、いま街を訪れる人へ見せる場所になった。[47]

葛飾北斎《雪中美人図》(1813〜1819年ごろ)。2026年、小樽芸術村の10周年に公開。
葛飾北斎《雪中美人図》(1813〜1819年ごろ)。2026年、小樽芸術村の10周年に公開。
写真:葛飾北斎 葛飾北斎 / Wikimedia Commons / Public domain (PD-old-100 / faithful reproduction)/出典/Public domain (PD-old-100 / faithful reproduction)。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

20家にいた創業者が会社の無駄を見つける

海外へ行けなくなった

2020年、感染症の流行で似鳥の海外移動が止まった。普段は札幌にいる妻と東京で長く一緒に過ごす。結婚から52年、食事や暮らし方の違いを改めて知る時間になった。これほど長く一緒にいるのは結婚以来初めてだと、その夏の取材で話している。[12]

その家で百百代から出た不満は、シーツを替えるのが大変だというものだった。もっと伸びる物が欲しい。ところが、似鳥の会社には既に、そうした商品があった。置いていない店があり、置いていても目立たない場所にある。客の不便を解決する品を作りながら、買う人へ知らせるところが抜けていた。似鳥は全店で目立つ位置へ出すよう改めた。[12]

会社を調べると、商品部門が海外へ出張して打ち合わせてきた仕事も、オンラインへ移せていた。移動を再開したら以前と同じ回数へ戻すのか。似鳥は、出張を半分に減らす方針を示す。妻からは、自分の出張も遊びのようなものだと言われた。店を始めた時に客へ向き合った妻は、会社が大きくなっても夫の見落としへ口を出した。[12]

商売を任せる小さな会社を作る

家具以外へ出る動きも始まっていた。2019年に展開を始めたNプラスは、普段着を扱うアパレルブランドだ。中高年の女性から、服を買える店がないという声を聞いた似鳥が立ち上げた。伸びやすいパンツなど、着る人の動きや体形に合わせる衣類を売った。[11][22]

この新しい仕事の社長には、40代の社員を抜擢した。飲食の事業も別の40代へ任せ、店舗を増やして会社を担えるようにする。2021年の対談では、毎週の数字を確認しながら、赤字の事業を黒字にする経験を積ませていると説明した。似鳥自身が若い頃に経験した、売れなければ続けられない商売を、巨大企業の中に作った。[2]

白井へ社長を渡すだけで後継者の問題が終わったわけではない。会社へ入る前から創業を経験した人と、既に大きくなった会社で働く人では、任される仕事が違う。新しいブランドや事業は、家の中で売る物を増やす試みであると同時に、次に経営を任せる人を試す場所にもなっていた。[2][41]

島忠へ別の買値を示す

2020年、ホームセンターと家具の島忠を、ニトリが買いに動いた。島忠は既にDCMホールディングスとの統合へ進もうとしていた。DCMの買値は1株4200円。後から入ったニトリは5500円を示す。1株当たり1300円を上乗せした提案だった。[48]

似鳥が見ていたのは、家具の売上だけではない。キャンプや園芸など、家の外で使う商品はニトリに薄かった。島忠には首都圏の立地と広い店舗もある。テレビ取材では、家の内も外もまとめて扱いたいという構想と、島忠の土地への評価を隠さず語った。総額2000億円を超える金を動かし、自分の会社にない品物と場所を手に入れようとしていた。[22][48]

ただ、高い買値を示すだけでは、相手の会社を迎えられない。既に働く人や、会社を率いてきた経営陣の扱いも条件になった。2020年11月13日に結んだ合意では、島忠の商号とブランドを残し、本社も当面移さない。既存の店舗を閉めたり統合したりする場合には、事前に協議して合意することを定めた。[48]

業務を執行する取締役についても、決済開始後の少なくとも5年間は体制を維持する条件を置く。一方でニトリから3人の取締役を送り、島忠側の経営陣もニトリ側へ入る仕組みを作る。社員の雇用も基本的に少なくとも5年間維持し、雇用条件は合意時点の水準を下回らないようにする。互いの経営陣を入れながら、別の看板と既存店を保つ。その条件も添えて、自分たちの方法を持ち込もうとした。[48]

島忠は同日、ニトリの提案に賛同し、DCMの公開買付けへの応募を勧めていた意見を撤回した。ニトリの買付けは11月16日に始まり、12月28日まで続いた。株主が応募し、取引が成立する。似鳥が記者会見で示した自信は、相手の取締役会と株主を通る段階へ進んだ。[48][49]

他社の売り場を一緒に動かす

統合後の計画には、ニトリの商品を島忠へ、島忠のホームセンター商品をニトリへ置く構想があった。物流を一緒に使い、通販も強める。既存店舗の中へ互いの店を入れる構想も示した。これまでニトリが何十年もかけて整えた仕入れや配送を、別の企業の売り場へ接続していく。[50]

2021年の統合報告書では、島忠の商品や店舗と、ニトリの製造・物流の仕組みを結ぶことが主要な課題に据えられた。買付けで株を集めた後には、商品の違いも仕事の進め方も残る。2021年3月には島忠を完全子会社とし、6月には両社を組み合わせたニトリホームズ宮原店が開いた。看板も品ぞろえも異なる企業を、一緒の売り場へ変える最初の動きが形になった。[50][11]

21全国へ売った商品を回収する

家の中のバスマットが対象になる

2020年11月27日、厚生労働省から珪藻土製品についての通知が出た。ニトリがグループで取り扱う製品を調べると、一部から法令の基準を超えるアスベストが見つかった。バスマットなどは既に、多くの家庭で使われていた。[51]

会社は販売を止め、自主回収を始めた。対象商品を見分ける方法と、保管や返却の手順を案内する。新しい家具を買いに来る人だけでなく、以前買って持ち帰った人へも、知らせを届けなければならなかった。[52]

発表した時点では、回収や返金にいくらかかるかも、合理的には見積もれないと決算資料へ記した。自分たちの工場や検査の仕組みを持つ会社でも、売った全品の安全を保証するところで問題が出た。会社は謝罪し、品質管理の見直しを進める。[51][50]

仕入れる相手を増やし、売る店を増やした年月が、ここでは調べ直す範囲の広さになって返って来た。品物を検査する仕事の後にも、家庭で使われる商品を追う仕事が残る。店頭で便利さや価格を説明してきた看板で、今度は回収を呼びかけなければならなかった。[52][50]

22憧れの国から撤退する

Aki-Homeを閉じる

2022年、ニトリはアメリカ事業からの撤退を決めた。2013年に初めて出店してから、10年近くがたっていた。5店まで増えた時期もあったが、2022年には2店になっている。その残る店も閉め、人と金をアジアへ振り向ける。[40][53]

会見で事業環境を説明した武田政則は、ニトリの海外事業を担う幹部だった。中国から米国へ輸入する際の追加関税が重く、海上輸送の費用も上がったと語る。事業を始めた頃には2200ドル(約34万6720円)だった40フィートのコンテナの輸送費が、1万5000ドル(約236万4000円)になっていたという。小売りの値札を安くするために船を使ってきた会社に、その船代がのしかかっていた。[40]

Walmart、Target、Amazonといった現地の強い相手もいる。家具だけを専門に売る店との勝負でもない。生活用品を一緒に買える店や、通販で家まで届く買い方と並んで、Aki-Homeを選んでもらわなければならなかった。日本で育てた仕組みを持って行くだけでは、採算を合わせられなかった。[40][53]

進出当初から似鳥は、すぐに成功するとは考えていないと話していた。毎年の研修で見るだけではつかめない、何が売れ、なぜ売れないかを、実際に店を出して確かめたい。その実験のために維持してきた拠点を、最後は手放す決断になった。[36]

2022年の会見では、カリフォルニア州タスティン店を同年12月、オンタリオミルズ店を翌2023年4月に閉め、現地法人の清算を進める予定を示した。海外事業をすべてやめるのではない。台湾や中国大陸で既に動く店があり、東南アジアへの展開も進めていた。次に増やす店へ資金を回すため、憧れの国の店を閉じた。[40]

学びに行った40万円の旅は、会社を変えた。そこで見た豊かさを日本で売ることには成功した。それでも、自分の看板をその国へ持ち込む仕事は別だった。売り場を見て夢を持ち帰った男が、今度は出した店の数字を見て、撤退を受け入れる。[4][53]

2379歳でもう1度社長になる

任せた会社へ戻る

2024年2月、似鳥は事業会社ニトリの社長へ復帰した。79歳。白井へ任せてから10年だった。持ち株会社ニトリホールディングスの社長は白井が続け、似鳥は店舗や商品を担う事業会社の前面へ戻った。[54][55]

会社を大きくした仕組みはある。それでも商品を変える速度や海外での仕事には、まだ手を入れなければならない。似鳥は現場へ出て、自分が説いてきた改善を、育った会社自身へ求めた。[5]

復帰後の本人取材では、まず海外の営業部門へ手を入れ、その後は商品部門も直接見るようになったと説明している。閉めるべき中国大陸の店舗を選び、移転や店の大きさを見直した。出店数を積むだけの仕事から、どこでどの商品を売れば利益が残るのかを、もう1度選び直す仕事へ戻った。[5]

2025年の統合報告書で似鳥が新しい柱として示したのは、家電だった。家具と寝具、生活用品に続けて、ドラム式洗濯乾燥機などを育てる。家の中の物を扱ってきた会社の理念も、同年2月には「住まい」から「暮らし」へ対象を広げた。30坪の家具店から始まった商売は、家具を売る場所だけには収まらなくなっていた。[27]

人を育て、任せるための投資を続けてきた本人が、再登板する。創業者の判断力をもう1度使える一方、その考えを次の人へどう渡すかも残る。似鳥自身、ロマンやビジョンの引き継ぎの難しさを語っている。[5]

249122億円の売り場で次の客を待つ

大きくなった会社の次の壁

2026年3月期、ニトリホールディングスの連結売上収益は9122億4800万円だった。前期比1.8%の減収。営業利益は1255億2600万円で6.7%増えた。売上と利益が、そろって伸び続ける決算ではなくなっていた。[56]

池袋サンシャイン60通り店(2023年8月)。
池袋サンシャイン60通り店(2023年8月)。
写真:Asanagi Asanagi / Wikimedia Commons / CC0 1.0/出典/CC0 1.0。配信時の縮小のみ。実際の切り抜きは最終表示で確認

国内既存店の客数や、商品開発の課題が決算で示された。どれだけ多くの店を持っていても、その店へ来る人が減れば、次の売上は増えない。2032年に3000店舗、売上3兆円という長期構想へ向け、いま来てくれる客と、まだ来ていない客へ何を渡すかを考え直す段階にいる。[57][27]

店に立った人々が残した会社

最初の店では、接客ができず、月60万円必要なのに40万円しか売れなかった。百百代が客の前へ立ち、店は生き残った。昭雄はもっと広い店を出し、さらに広い店に押され、海を渡った。[2]

帰ってから増えたのは、店だけではない。学ぶ相手、働く人、倉庫、工場、海外の取引先。自分の苦手を誰かに任せるところから始めた商売の中で、自分だけではできない仕事を長くつないできた。[18][19][11]

安さを届けた一方、社員が辞め、商品を回収し、海外の店を閉じることもあった。それでも、札幌の小さな店の上で暮らした青年は、80歳を越えてなお商品と売り場へ関わっている。最初の看板には、本店もないのに北支店と書いた。いまは本当に、遠い街の店でも、彼の会社が次の客を迎えている。[8][54][56]

参考文献・出典 57件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. BSテレ東「私の履歴書」:似鳥昭雄(2017年4月放送の紹介) ↩ 本文
  2. IIJ.news 166号:似鳥昭雄氏との本人対談(2021年10月) ↩ 本文
  3. 東京大学プレミアム・サロン:似鳥昭雄講演要旨(2014年) ↩ 本文
  4. ニトリHD:寺島実郎×似鳥昭雄対談1・米国体験とビジネスモデル ↩ 本文
  5. McKinsey:似鳥昭雄会長が語るロマンを実現する経営哲学 ↩ 本文
  6. ニトリHD:役員一覧・似鳥昭雄、白井俊之の経歴 ↩ 本文
  7. アジア歴史資料センター:樺太、南サハリン州、引揚(終戦80周年展示) ↩ 本文
  8. 週刊女性PRIME:似鳥昭雄の人間ドキュメント(2017年10月2日) ↩ 本文
  9. AERA/dot.本人取材:落ちこぼれだった私が成功できた理由(2016年8月27日) ↩ 本文
  10. 東洋経済:広告契約ゼロだった時代を振り返る似鳥昭雄の著書抜粋(2026年3月29日) ↩ 本文
  11. ニトリHD:沿革(1967年からの事業の歩み) ↩ 本文
  12. 文藝春秋:有働由美子×似鳥昭雄「コロナでムダ、ムラ、ムリがわかった」(2020年) ↩ 本文
  13. 日経BOOKプラス:運は創るもの・私の履歴書のはじめに(2025年12月5日掲載) ↩ 本文
  14. 北海道商業教育研究会:ニトリ創業期のケーススタディ ↩ 本文
  15. テレビ東京:カンブリア宮殿2015年9月24日放送内容詳細・似鳥昭雄の創業とエアドーム ↩ 本文
  16. 似鳥昭雄寄稿:勉強嫌いのダメ社長が経営の師から夢中で学んだこと(2017年9月) ↩ 本文
  17. 似鳥昭雄寄稿:家具の海外生産に乗り出した理由(2017年9月) ↩ 本文
  18. PRESIDENT:自分を褒めない人との出会い―ニトリ1(2011年2月14日) ↩ 本文
  19. ベンチャー通信62号:似鳥昭雄本人取材・社員教育と組織(2016年1月号) ↩ 本文
  20. ホームロジスティクス:ロマンとビジョン・物流事業の沿革 ↩ 本文
  21. 経営者通信37号:似鳥昭雄本人取材(2015年) ↩ 本文
  22. テレビ東京:カンブリア宮殿取材・家具の王者ニトリが大変貌した秘密(2021年1月14日) ↩ 本文
  23. 北海道商業教育研究会:ニトリの生産体制 ↩ 本文
  24. リアルエコノミー:似鳥昭雄の北海道ニューフロンティア経営セミナー講演(2025年9月17日) ↩ 本文
  25. ITmedia取材:ニトリ商品力アップの軌跡(2018年7月19日・3ページ) ↩ 本文
  26. ITmedia 2018年7月19日:品質改善の出発点 ↩ 本文
  27. ニトリ:統合報告書2025 ↩ 本文
  28. 似鳥昭雄本人取材:ニトリはもう家具屋ではない(2017年) ↩ 本文
  29. ニトリ有価証券報告書:杉山清の入社・担当経歴(2013年) ↩ 本文
  30. ITmedia取材:ニトリの商品開発・検査体制(2018年7月19日・2ページ) ↩ 本文
  31. ITmedia 2018年7月19日:リガーレとマットレスの改善 ↩ 本文
  32. ニトリ:IH対応土鍋24cm・28cmの追加お知らせ(2007年7月3日) ↩ 本文
  33. PRESIDENT:400品目値下げと収益を支えた仕組み(2009年) ↩ 本文
  34. ニトリ:値下げ宣言第4弾(2009年2月17日) ↩ 本文
  35. 東洋経済:似鳥社長「これまでは値下げをしすぎた」(2014年) ↩ 本文
  36. ニトリHD:寺島実郎×似鳥昭雄対談3・現場感覚と海外進出 ↩ 本文
  37. 流通ニュース:中価格帯強化で客単価上昇(2015年4月24日) ↩ 本文
  38. ニトリ:2022年統合報告書・Nウォーム/Nクールと機能性商品 ↩ 本文
  39. ニトリ:米国Aki-Home五号店の出店お知らせ(2014年7月15日) ↩ 本文
  40. WWDJAPAN:米国撤退について似鳥会長・幹部が語る理由(2022年10月3日) ↩ 本文
  41. ニトリHD:2014年の役員異動と事業会社ニトリの社長交代 ↩ 本文
  42. 似鳥国際奨学財団:設立趣旨・財団概要 ↩ 本文
  43. SMBC日興証券:似鳥昭雄本人取材「ビジョンから生まれる社会貢献」(2023年9月) ↩ 本文
  44. 似鳥国際奨学財団:財団活動紹介(2025授与式・2026年7月交流会) ↩ 本文
  45. 小樽芸術村:施設の成り立ちと歴史的建造物 ↩ 本文
  46. 観光経済新聞:似鳥昭雄本人取材・小樽芸術村の狙い(2017年8月12日) ↩ 本文
  47. 共同通信社:小樽芸術村10周年と北斎雪中美人図(2026年7月13日) ↩ 本文
  48. ニトリHD:島忠との企業価値最大化に向けた提案(2020年) ↩ 本文
  49. ロイター:ニトリHDによる島忠TOB成立(2020年12月29日) ↩ 本文
  50. ニトリ:Integrated Report 2021(英文) ↩ 本文
  51. ニトリHD:2021年2月期第3四半期短信・石綿含有製品自主回収(2020年12月25日) ↩ 本文
  52. ニトリ:珪藻土製品の自主回収案内 ↩ 本文
  53. FASHIONSNAP:ニトリ米国撤退・残る二店舗を閉鎖(2022年10月5日) ↩ 本文
  54. ニトリHD:新役員体制に関するお知らせ(2024年1月10日) ↩ 本文
  55. 東洋経済:79歳創業者が10年ぶり社長復帰した背景(2024年1月) ↩ 本文
  56. ニトリHD:2026年3月期決算短信〔IFRS〕(2026年5月14日) ↩ 本文
  57. 流通ニュース:ニトリ2026年3月期の減収増益と商品開発課題(2026年5月14日) ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

本文更新:2026-11-02

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