THE STORY
ハムディ・ウルカヤの物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01山を出た少年が閉じた工場の扉を開ける
冷蔵棚の一角から国の食卓が変わった

写真:Famartin/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
大手食品会社が手放す工場を、弁護士への支払いも滞っている男が買おうとした。設備は古い。買った後に、いくらかかるかも分からない。止める弁護士のそばで、ハムディ・ウルカヤは購入を進めた。70万ドル(約1億円)。そこから生まれるのが、アメリカの冷蔵棚を変えるヨーグルトChobaniだった。だが最初の夏、彼らが手を付けたのはヨーグルトではない。工場の壁を塗る仕事だった。[1][2][3]
売れる商品ができるまで、2年以上。それが当たると、今度は作る量が足りなくなった。巨大工場を建てれば、立ち上げの遅れと品質問題が重なる。商品は売れ、名前は知られたのに、会社を支える金が足りない。ハムディの事業は、失敗を越えたら後は成功が続くという順番では大きくならなかった。[1][4]
しかも、そのヨーグルトを作るためにアメリカへ来たわけではない。子どものころから知る乳の仕事を離れ、違う世界へ出たかった青年だ。遠い国へ渡り、また乳を扱うことになる。その前に、トルコ東部の山に暮らす家族がいた。
山の向こうに何があるのか

写真:Rukiye Karakoyun/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
1972年、ハムディはトルコ東部の、山々に囲まれたエルズィンジャン県のクルド人の家族に生まれた。家族は羊やヤギを育て、その乳からチーズやヨーグルトを作っていた。夏は家畜とともに山へ移り、寒い季節になると村へ戻る。乳製品は店に並んだ商品になる前に、毎日の労働であり、食卓そのものだった。[5]
山の上では、金があっても買物をする店がない。困れば人が来て、手を貸してくれる。ハムディが後に振り返ったのは、その安心感だった。家畜を世話し、乳を加工し、季節に合わせて移る。暮らしを動かしていたのは、値段の付いた商品だけではなく、近くにいる人の働きでもあった。[5]
だが少年は、山の向こうを見たかった。村の外から戻る人が話す、知らない土地の暮らし。その中へ自分も行きたい。やがてエルズィンジャンから首都アンカラへ、さらにアメリカへ進むことになるが、初めからヨーグルト会社を作る計画があったのではない。まずは、家畜と季節で決まる暮らしの外へ出たかった。[6]
家族が渡したもの
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
父は家族の乳製品を作るだけでなく、周囲の生産者からチーズを集め、町へ売る仕事もしていた。家畜を飼う人と、食べ物を買う人。その間をつなぐ商売が、少年のすぐそばにあった。家族は貧困の中で食べ物に困っていたわけではなく、新しい家電も、必要なら買える暮らしだった。[7]
ハムディは祖父から数えて3代目のチーズ作りに携わることになる。家族の乳製品事業は、やがてトルコだけでなくスロバキアにも広がり、兄弟の1人、ビラルはそこで工場を動かした。ハムディがアメリカで工場を作るときにも、頼れる家族の経験があった。[8]
乳の仕事なら家族が知っている。それでもハムディは、それとは違う生活をしたかった。遠くの国へ行った後、父にまたチーズを作ればいいと言われても、最初は乗り気になれない。せっかく離れた仕事へ、なぜアメリカでも戻るのか。彼が持っていた家族の強みは、最初から自分が選びたい道と一致していたわけではなかった。[9]
母が教えた人との距離
自分を誰よりも下だと思わない。誰よりも上だとも思わない。母はそう教えた。知らない国で言葉に困るころにも、やがて会社の所有者になるころにも、ハムディはその言葉を持っていく。誰にでも同じように振る舞うのは簡単そうで、金と立場に差が付くほど難しくなる教えだった。[10]
後に工場の仲間へ、自分が偉そうになったら止めてほしいと頼むようになる。創業者に注意するのは、働く側には気を遣う仕事だ。それでも、上に立つ自分を誰が止めるかを、彼は仲間との関係に持ち込んだ。母が教えた言葉を、会社が大きくなった後にも手放したくなかった。[10]
02教師になるはずだった青年
村から寄宿学校へ
ハムディの前に、進学の道が開いた。教師に勧められた試験を受け、寄宿学校で学ぶようになる。家を離れ、決まった時刻に起き、教室で授業を受ける生活は、家畜と季節に合わせて動いていた暮らしとは違った。学校は、村の外へ出るための具体的な通路になった。[5]
ハムディの関心は、社会を動かす仕組みへ向かう。アンカラに進み、政治を学んだ。山の向こうを知りたいという気持ちは、国の中で誰が何を決め、誰の声が届かないのかという問いにもつながっていった。[11]
声を上げることの代償
クルド人として育ったハムディは、民族の権利をめぐる活動に関わった。大学時代の彼にとって、政治は試験のためだけの科目ではなかった。自分の言葉や出自に関わる、身近な問題だった。
活動の中で拘束された。1、2日で釈放されたが、友人の身にも危険が及んでいた。自分の言葉や出自の問題は、教室で政治を学ぶだけでは終わらない。ハムディは国を出ることを考え始めた。大切な家族と故郷がある。だが、そこに残ることが、安心して生きる道になるとは限らなかった。[5]
20歳のころには、仲間へ新聞を作ろうと呼びかけた。出版の経験はない。何から始めれば新聞を出せるかも覚えなければならない。それでも黙って見ている代わりに、自分たちで何かを出そうとした。その青年の行き先は、やがて言葉さえ十分に通じない国へ変わる。[12]
フランスへ行くつもりがアメリカへ
最初に考えていた行き先はフランスだった。ところが、友人たちと話していたとき、そばにいた見知らぬ男性が会話に加わった。アメリカで学んだ経験のある技術者だった。その人に勧められ、ハムディの行き先は変わる。[5]
1994年、21歳の彼はアメリカへ渡った。出発前にイスタンブールの兄を訪ね、3000ドル(約47万2800円)を受け取った。英語はほとんど話せない。兄から渡された金は、知らない国で最初の生活を始めるための資金だった。工場を買う計画も、有名な食品ブランドも、この時点ではない。[7]
何をしたいかを話す前に、相手の言葉が分からない。どこへ行けばいいかを聞くだけでも助けが要る。国を出る決断の後には、列車を探し、学校へ通い、今日の寝る場所を確かめる毎日が待っていた。ハムディは、名前を知る人のいない国で、まずその生活を始めた。
03遠い国でもう1度乳の仕事へ
ニューヨークという名前のもう1つの風景
ニューヨークのペン・ステーションに着いたハムディには、まず乗る列車を探す仕事が待っていた。行き先の学校へたどり着くだけでも、言葉が通じなければ難しい。ようやく案内された部屋のベッドへ横になると、安心して眠れた。政治の緊張から離れた、久しぶりの夜だった。[5]
最初に通ったAdelphi Universityでの1か月で、3000ドル(約47万2800円)のうち2000ドル(約31万5200円)が消えた。兄からの金は、すぐに減っていく。その後Baruch Collegeで英語を学んでいたとき、宿題に故郷のチーズ作りを書いた。読んだ教師が、ニューヨーク州の農場へ行ってみないかと勧めた。言葉を覚えるための作文に書いた昔の暮らしが、次の行き先を作った。[7]
ニューヨークといえば、まず大きな街だった。だが同じ州には牛がいて、乳を集めて暮らす人がいる。そこでは、英語が不自由な青年にも分かる仕事があった。家畜を育て、乳を加工する。山を離れるために国を出た男が、初めての土地で、離れたはずの仕事をもう1度見つけた。
ハムディは農場で働き、州の内陸部に生活の場所を移した。アメリカにいるのに、目の前にあるのは、離れたはずの乳の仕事だった。やがて父が訪ねて来る。2人の朝食で、次の商売の話が始まる。[6]
父が気に入らなかったチーズ
アメリカを訪ねた父は、現地で食べたフェタチーズを気に入らなかった。フェタは、塩気のある白いチーズだ。父は息子に、自分たちが作ってきたようなチーズをこちらでも作ればよいと勧めた。ハムディにしてみれば、遠くまで来て、また同じ仕事に戻るのかという話だった。最初は乗り気ではなかった。[13]
父には、アメリカのチーズが気に入らない。息子には、わざわざ遠くまで来て同じ仕事をしたくないという気持ちがある。それでも、店にないなら自分たちで作るという話は具体的だった。家族のチーズを扱うところから始め、やがてハムディ自身も、アメリカで製造する道へ入っていく。[13]
1998年、ハムディと家族はアメリカでの工場計画を進めた。翌年、ニューヨーク州の製造業の町ジョンズタウンに建物ができる。しかし、そのころ両親が半年の間に相次いで亡くなった。計画は止まる。作ればいいと勧めた父へ、完成した工場の仕事を見せることはできなくなった。[8]
建物ができても、製造開始まではさらに時間がかかった。ヨーロッパから設備を運び、2002年にようやく動かす。Euphratesという社名は、故郷の近くを流れるユーフラテス川から取った。ドイツ製の機械へアメリカの牛乳を入れ、遠く離れた土地で家族の味を作る。家を出たかった青年の会社に、故郷の川の名が付いた。[14][8]
昔のチーズには保存のための塩が多かった。冷蔵できるアメリカなら、その塩を減らせる。家族の味を移すといっても、作り方をそのまま守るだけではない。食べる人と、保存する設備に合わせて変える。ハムディがアメリカで始めたのは、故郷の仕事を覚え直すことでもあった。[8]
作れることと売って暮らせることは違う
チーズが作れるだけで、会社は続かない。原料を買い、設備を動かし、商品を届け、代金を受け取り、次の支払いに間に合わせる必要がある。ハムディは製造だけでなく、配達や営業まで担った。知らない店へ商品を持っていき、自分のチーズを棚に置いてもらう。1つひとつが小さな仕事でも、それを毎日回さなければならなかった。[4]
そのチーズ会社は、苦しかった。作って届けても、次の給料や請求書の支払いが来る。手元へ自由に使える金が積み上がるどころか、続けられるかと不安になるほどだった。乳製品を作れることは家族から学んだ。だが、アメリカで小さな食品会社を生かす方法は、日々の支払いを前に覚えなければならなかった。[4]
後に工場の売り広告を見つけるのは、その苦戦の途中だ。製造も販売も、難しさはすでに身にしみていた。会社を続ける難しさをすでに知り、支払いにも追われる人が、さらに大きな設備へ手を出す。だから、そばにいた弁護士は止めた。
04ごみ箱に入れた1枚の広告
「ヨーグルト工場売ります」
2005年、机にたまった郵便物を片づけていたハムディは、1枚の広告を目にした。売りに出されているヨーグルト工場の案内だった。大手食品会社Kraftが所有していた、ニューヨーク州の内陸部、酪農地帯の小さな集落サウス・エドメストンの施設。製造設備も付いていた。
いったん捨てた。だが後になって拾い直し、電話をかけた。見に行くだけならできる。向かった先には、Kraftが手放そうとしている古い工場があった。自分の会社でも支払いに苦しむ男が、今度は別の会社がやめる場所を見に行く。広告を捨てたままなら、そこで話は終わっていた。[1]
建物には機械があり、その機械を使ってきた人がいる。買い手が付かなければ、設備は売られ、仕事はなくなる。大企業にとっては手放す施設でも、そこで働いた人には毎日の職場だった。ハムディが見ていたのは、安い建物だけでなく、まだ使える設備と、動かし方を知る人が残った場所だった。[6]
弁護士が止めた買い物
一緒に工場を見た弁護士は、購入に反対した。大企業が続けられない場所を、なぜ小さなチーズ会社の経営者が引き受けるのか。設備は古く、買った後にも費用がかかる。[5]
購入額は70万ドル(約1億円)。古い設備まで付くとはいえ、今の請求書にも困っている男には大金だった。道を開いたのはSBA、アメリカの中小企業庁が支援する融資の仕組みだった。自分の口座にその金がないから、買うには借りなければならない。ハムディは、工場と一緒に、その返済も引き受けることにした。[2][15]
乳を供給する地域がある。動かせる設備がある。古い機械を知る人もいる。融資を使えば、買うところまでは届く。ハムディには、弁護士が見た危険と同時に、もう1度動かせる条件も見えていた。だが手に入るのは完成した商売ではない。借りた金を返せる商品は、ここから作らなければならなかった。
弁護士は、ただ慎重な性格だから反対したのではない。ハムディは、その弁護士への代金を半年も滞らせていた。今ある請求書を払えていない依頼人が、新しい工場を買うという。しかも現状のまま引き取れば、後で出る設備の問題も自分で抱える。止める側には、これ以上ないほど目の前の理由があった。[3]
それでも買った。これからはチーズ事業の支払いに加え、別の工場を動かす金も要る。大企業が出ていった後に入るのは、小さな会社をやっと続けてきた男だ。成功した後なら大胆な決断に見える。買った直後にあるのは、古い工場と借入、そしてまだない新商品だった。
まず壁を塗った

写真:Dclemens1971/Wikimedia Commons/CC BY 4.0
買い取った工場で、ハムディは元従業員4人を雇った。新しい会社の最初の仲間は、そこで働き、機械や建物を知っている人たちだった。立派な本社から専門部署がやって来たのではない。少人数で、この場所をもう1度動かし始める。
まず壁を塗った。何をどれだけ売るか、先のすべてが決まっていたわけではない。それでも今日、手を付けられる仕事はある。元従業員4人とハムディは、閉じていくはずの建物に塗り直しを始めた。ヨーグルトのブランドを世へ出す前に、働く場所の見た目から変えていった。[1]
収入も作らなければならない。前の会社が作っていた種類のヨーグルトを受託製造し、その横で自分たちの商品を試した。理想の商品ができるまでの生活も、工場で支えなければならなかった。今ある設備で仕事をし、人と機械を動かしながら、まだ売れないヨーグルトを作り続けた。[16]
05まだ売るヨーグルトがない
甘いだけではないものを
ハムディがアメリカで不満だったのは、ヨーグルトの味だった。故郷で食べていたものに比べて、甘く、薄く感じる商品が多かった。欲しいのは、乳の味と酸味があり、スプーンでしっかりすくえるものだった。[1]
ただ、自分の好みをそのまま押しつけても商売にはならない。店へ足を運び、冷蔵棚を観察し、買い物客に話を聞いた。濃厚なヨーグルトを買う人は、すでにいた。高価な輸入品や専門店の商品として存在するものを、もっと多くの人が手に取れる場所へ持っていく余地があった。[17]
甘いものしか売れないと言われても、冷蔵棚には濃い輸入ヨーグルトを選ぶ客がいる。欲しくないのか、手の届く選択肢が少ないだけなのか。ハムディは後者に商売の余地を見た。故郷で当たり前だった味を、アメリカでは一部の専門店だけのものにしたくなかった。[17]
古い機械と別の作り方
水分を取り除いて濃くするギリシャ式ヨーグルトには、設備も必要だった。ハムディは中古の乳製品製造設備を探しに行く。新品をそろえる資金はなく、使える機械を見つけて組み合わせる必要があった。[18]
アメリカ中西部・ウィスコンシン州の中古設備業者で、分離機を見つけた。水分を取り除き、ヨーグルトを濃くするための機械だ。新品を好きに買える金はない。古いものを探し、自分たちの工場で働くように組み合わせる。欲しい味を決めるだけでなく、それを作れる設備も、手に入るものの中から作らなければならなかった。[18]
名前はChobani。トルコ語で羊飼いを意味する言葉に由来する。家畜の仕事を離れてアメリカへ来た男が、乳を使った商品に羊飼いの名を付けた。父に勧められて始めたチーズの次には、自分が食べたいヨーグルトを作る。昔の暮らしは、仕方なく戻る場所ではなく、自分の商品を見分けてもらう名前になっていった。[19]
味が決まるまでの長い時間
開発には、トルコから加わったヨーグルト作りの専門家ムスタファ・ドーアンの力も借りた。菌の組み合わせや製造条件を調整し、試作を重ねた。工場の大きな設備で、いつ作っても同じ品質にする。[16]
工場で1度おいしくできれば終わり、ではない。次の製造でも同じ味になり、店へ運ばれ、家の冷蔵庫から出しても食べたいものにする。酸味と濃さ、果物を合わせたときの味。その組み合わせを、ムスタファとともに試し続けた。新しいカップへ詰める中身は、簡単には決まらなかった。[16]
試作の間も、従業員の給料は来る。設備を動かす金も要る。受託製造で工場を支えながら、自分たちのカップを作る。その時間を2年以上続けた。2007年、ようやく店へ渡せる商品ができる。借りた金で買った工場から、自分たちの名前を付けたヨーグルトが出ていく。
06冷蔵棚に置くまでがもう1つの勝負
「健康食品の売り場」では足りない
商品が完成しても、スーパーの棚は待っていてくれない。すでに大手ブランドが並んでいる場所に、新しい会社の商品を入れてもらう必要がある。何を作るかの次に、どこで売るかが問題になった。
ハムディが欲しいのは、普通のヨーグルトの隣だった。健康に関心の高い客だけが来る特別な棚ではない。いつもの買物で立ち寄った人に、ほかの商品と比べて選んでもらう。より多くの人へ届けたいという方針は、店のどこへ置くかという具体的な交渉になった。[20]
ただし棚へ入る前に、金がかかる。大手と同じ広告予算はない。まとめて現金を払えば、その後の製造が苦しくなる。ハムディは商品で埋め合わせる条件を交渉した。まだ売れていない会社が、売る機会を買うために金を使い切らない。その条件を作ってから、ようやく客の前へカップを置けた。[17]
中身だけでなくカップも作る
棚の前に立つ客は、まだ味を知らない。ハムディは口が広く、果物の写真を大きく見せられるカップを欲しがった。ところが、アメリカで新しい金型を作る見積もりは25万ドル(約3940万円)。容器だけに払うには重すぎる金額だった。[13]
南米コロンビアに、欲しい形に近い金型があると分かった。ハムディはアンデスの高地にある首都ボゴタへ飛んだ。アメリカへ来たのはヨーグルトを作るためではなかったのに、今度は、その容器を買うために南米へ行く。商談はまとまり、最初の2年間のカップは、そのメーカーから調達することになった。[13]
帰りに寄ったアメリカ南東部・フロリダ州の海辺の都市マイアミでは、税関に止められた。コロンビアへ何をしに行ったのか。ヨーグルトの容器を買いに行った。その説明は、すぐには信じてもらえなかった。先へ進めたのは2時間ほど後だ。工場の金を借り、味を作り、容器のために国をまたぐ。棚に並ぶ小さなカップの準備は、ずいぶん遠くまで彼を連れていった。[13]
味が分かるのは、買った後だ。知らない名前の商品へ最初に手を伸ばしてもらうには、冷蔵棚の中で目に留まらなければならない。ハムディは広い口と果物の写真を載せられる形を選んだ。容器代を惜しんで中身だけに金を使えばいい、とは考えなかった。[13]
最初の店からもう1度注文が来る
2007年10月、ニューヨーク市の東に延びる島、ロングアイランドの店から最初の注文が入った。出荷を終えても、売れたかどうかはすぐには分からない。客が1度買って、それきりなら、工場は続かない。ハムディたちは、店からの反応を待った。[1]
また注文が来た。最初の1回だけで終わらず、店が次のカップを欲しがった。自分たちで試しておいしいと言うだけの時間は終わり、知らない客が金を払って食べている。ハムディが工場へ持ち帰れるのは、理想の味への自信だけではなく、実際の売場からの追加注文になった。[17]
次も来る。その次も来る。置いてくれる店を探していた会社が、注文された分をどう作るかに追われ始めた。工場を持ったのに売る商品がない。その問題を越えた後に待っていたのは、売れるのに作る能力が足りないという、逆向きの難題だった。
07売れすぎるという難題
手で箱に詰める会社
注文が伸びると、古い工場の仕事は増えていった。牛乳を受け入れ、ヨーグルトを作り、カップへ詰め、箱にまとめ、出荷する。どこか1か所が遅れれば、できあがった商品を店へ届けられない。
箱詰めは手作業だった。自動化の機械を1度にそろえる余裕はない。注文が増えれば、カップを作るだけでなく、それを詰めて送り出す人も増やさなければならない。入金を待つ前に、次の原料と給料の支払いが来る。売れているという知らせはうれしい。だがその注文を受けるたび、先に払う金もまた要った。[1]
ハムディは工場を歩き、細部まで見ようとした。小さい会社なら、それで直せた。担当者へ声をかけ、現物を確かめ、その場で決める。だが売上と拠点が膨らめば、彼が見に行けない場所も増える。最初の成功を支えた働き方が、今度は会社の大きさに追い付かなくなっていく。[18]
仕事を探していた人々
工場の近く、ユーティカ周辺には、難民としてアメリカへ来た人たちが暮らしていた。仕事を探しているのに、英語や通勤の問題で働き始められない。ハムディは、その人たちを雇うようになった。
雇いたいと言うだけでは、毎朝来てもらえない。通勤の足が要る。説明が分からなければ、安全に作業できない。Chobaniは移動の手段と通訳を整えた。英語が不自由でも仕事を覚え、通い続けられるようにする。働く場所を渡すには、その前にある壁も1つずつ取り除かなければならなかった。[4]
初めてアメリカへ来た自分にも、言葉を教え、道を案内する人がいた。今度は会社がそれを用意する。働き始めた人々は、助けを受けるだけの存在ではない。彼らが設備を動かし、箱を詰めるから、増える注文へ応えられる。ハムディの新しい会社を育てる同僚になった。[4]
1つの町が商品を作っていた
ニューヨーク州の工場は、地元の人と移住してきた人が一緒に働く場所になった。外から見ると、著名な創業者の名前が会社を代表する。しかし、乳を届ける農家、製造を担う人、設備を直す人、物流を動かす人がいなければ、冷蔵棚の一杯にはたどり着かない。
Chobaniの事業が大きくなるにつれ、町との関わりも深まった。地域の野球場の改修を相談されたとき、会社は小さな寄付で終わらせず、より大きな整備に関わった。後には消防署とコミュニティセンターの整備にも資金を出している。地域の側から見れば、工場の成功が、暮らしの中の場所を変え始めた。[6]
工場の成功を当てにする人が増えた。給料を受け取る家族、乳を売る農家、配送を引き受ける業者。ハムディが新しい設備へ賭けるとき、その結果を受け取るのは、自分の口座だけではなくなっていた。
08海の向こうへ運んだ冷たいカップ
オーストラリアの棚へ
2011年、Chobaniの運営会社は、オーストラリアの乳製品会社Bead Foodsを買収した。現地で親しまれていた「Gippsland Dairy」の作り手だ。ハムディは、外国でゼロから牛乳の調達先と工場の人員を探す代わりに、すでに乳製品を作り、店へ届けている会社と組んだ。[21]
乳を出す農家も、商品を運ぶ距離も、買う客も違う。現地で製造してきた会社には、その仕事を毎日している人がいた。ハムディはアメリカで使った方法を遠くから命じる代わりに、すでにその土地で作り、売る集団を迎えた。[21]
2011年11月、最初のChobaniがオーストラリアで売られた。このときの商品は、まだアメリカから空輸したものだった。冷たいヨーグルトを飛行機で運んで、海の向こうの棚に並べる。現地で作れるようになるまで、売る仕事が先に始まった。[22]
翌2012年12月、オーストラリア南東部・メルボルン郊外の工業地区、ダンデノン・サウスで現地生産が始まる。アメリカからカップを飛ばす段階を終え、オーストラリアの工場で作り、国内の店へ届ける体制へ移った。ハムディがかつて家族のチーズを扱うところからアメリカでの製造へ進んだように、今度は自分のブランドが、輸入品から現地の商品へ変わった。[22]
海の向こうで製造を始めるころ、アメリカでも新しい工場が動き始めた。こちらは古い施設の買い直しではない。70万ドル(約1億円)の工場から出発した会社が、桁違いの額で自分たちの製造拠点を建てた。
09もう1つの巨大工場
4億5,000万ドル(約709億円)の飛躍

写真:Tommyers89/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
ニューヨーク州の工場だけで、増え続ける需要に応えるのは難しくなった。Chobaniはアメリカ西部・アイダホ州の、農業や酪農が盛んな地域にあるツインフォールズに、新しい工場を建設する。2012年に開いたこの施設には、約4億5,000万ドル(約709億円)が投じられた。売りに出された古い工場を買って始めた会社が、今度は巨大な工場を自ら作った。[23][15]
同じ2012年の5月、ハムディは米国の中小企業庁から、起業の成功をたたえる全米表彰を受けた。ワシントンの会場で演台に立ち、集まった人たちに話した。小さなチーズ事業から出発した移民の起業家は、全米の成功例として認められる側に立っていた。[24]

写真:U.S. Department of State from United States/出典/Public domain。表示用JPEGへ変換。元の撮影方向を保持。内容の改変・合成・拡大なし。
東部だけでなく、西部の客へも届けやすくなる。酪農の盛んなアイダホ州なら乳もある。増える需要へ応える理屈は通っていた。問題は、計画した大きな設備を、毎日安定して売れる商品が出る工場にできるかだった。
70万ドル(約1億円)で買った工場を直す仕事と、4億5000万ドル(約709億円)を投じた巨大工場を立ち上げる仕事では、難しさも違った。設備を合わせ、仕事を覚える人を増やし、量と品質をそろえる。巨額を投じた設備から、見込んだ生産と収入が戻るまでには時間がかかった。立ち上がりが遅れると、その間にも金は出ていった。[23]
成功の速さに仕組みが追いつかない
新工場の立ち上がりは、想定より遅れた。巨額の投資をした一方、設備を十分に使って収益を生むまでには時間がかかる。売れるブランドを持っていても、目の前の支払いを賄う資金は別に必要だった。会社の資金繰りに負担がかかっていく。[23]
以前なら、自分が見に行けた。だがニューヨーク州とアイダホ州を、同じ工場の端から端まで歩くようには回れない。必要な情報を誰がつかみ、どこで決めるか。ハムディが何でも真ん中に抱えると、今度は本人の手が届く範囲が会社の限界になってしまう。[4]
味を守りたい。細かいところまで知りたい。だが、ほかの人へ任せなければ回らない。工場を育てた創業者に、会社の大きさが働き方の変更を迫った。金を集めて設備を増やすだけでは、次の規模へ進めなかった。[4]
ふたについたヨーグルト
ハムディの細かさをよく表す話がある。カップのふたの裏にヨーグルトが付いていることを気にして、製造側へ繰り返し不満を伝えていた。だが、商品は工場の中で静かに置かれているだけではない。運ばれ、店に並び、買い物かごに入り、揺れる。きれいなふたの状態を、すべての移動の後まで保つことには限界がある。[18]
運ぶと、ふたの裏に付く。カップは工場を出てから揺れるのだ。細かいところを気にすれば、いつも良くなるとは限らない。製造側へ繰り返し不満を伝えるハムディにも、動かす側の説明を受け入れる必要があった。その一方、本当に放置できない品質の問題も近づいていた。[18]
2013年、客の手元で、カップの異変が見つかる。
10膨らんだカップが届く
2013年回収へ
商品のカップが膨らんでいる。いつもと違う状態になっている。Chobaniに品質への苦情が届いた。2013年9月、会社はツインフォールズ工場で製造した一部のヨーグルトを自主回収した。体調不良を訴える報告も届き、対象商品の配送や販売を止める対応に追われた。[25]
最初の追加注文を喜んだ会社が、今度は客へ買った商品を確認してほしいと頼む。長い試作で決め、棚を確保して売り出したヨーグルトを、自分たちで棚から下げる。食べた人から体調不良の訴えも届いた。会社が守りたかった味の話は、口に入れて大丈夫かという問いへ変わった。[25]
対象のコードと賞味期限を公表し、配送と販売を止める。客は家の冷蔵庫を確かめ、店は商品を外す。工場では原因を調べ、安定して出荷できる状態へ戻さなければならない。大きな設備の立ち上げで抱えた問題が、今度は全国の客に見える形で表に出た。[25]
犬を連れて現場へ移る
ハムディは、問題を抱えたアイダホ州へ移った。犬2匹を連れ、現地に家を借り、工場の立て直しに向き合った。遠くから報告を受けるだけでは、自分の会社で何が起きているかをつかみきれなかった。[4]
今度は、まだ商品がない工場ではない。すでに売り、食べてもらい、次も待っている客がいる。工場を立て直す間にも、取引先への対応と支払いは続く。犬2匹を連れてアイダホへ移った創業者は、増える売上を追いかけていたときとは違う問題の中心へ入った。[4]
会社を大きくした自分が、現場へ戻る。それでも1人が見れば全部直る規模ではなくなっていた。製造を整える人、運営を任せる人、資金を出す相手も必要になる。ハムディは、育てた会社を守るために、その中へ外の力を入れることになる。
環境にも作った分だけ責任が残る
濃いヨーグルトを大量に作ると、水分を分離した後の液体も大量に生まれる。酸性ホエーと呼ばれる副産物だ。商品が売れるほど、この液体をどう扱うかという問題も大きくなる。2013年には、ギリシャ式ヨーグルトの急拡大に伴い、ニューヨーク州で副産物をどう活用するかが大きな課題になった。[26]
濃くしてカップに入れた側は売れる。その途中で分けた液体は、工場に残る。人気が出るほど、その量も増えた。ハムディらが商品を全国へ広げる横で、乳製品の工場と研究者たちは、捨てずに生かす方法を探すことになった。[26]
コーネル大学では、家畜の餌やエネルギーに使う方法に加え、液体から有用な成分を取り出す研究も進んだ。売るカップが増えるたび、工場から出る液体の行き先も確保しなければならない。ヨーグルトの人気は、酪農地帯に仕事を増やすと同時に、新しい処理の仕事も持ち込んだ。[26]
11自分の会社を誰と守るのか
7億5,000万ドル(約1182億円)の資金
2014年、Chobaniは投資会社TPGから7億5,000万ドル(約1182億円)の資金を調達した。単に株式の何%かを売ったという取引ではなく、融資に加えて、将来株式を取得できる権利を組み合わせたものだった。その権利は最大35%の持分につながり得ると報じられた。[23]
7億5000万ドル(約1182億円)。70万ドル(約1億円)で工場を買ったときとは、借りる桁が違う。TPGは会社を続ける資金を与える一方、将来の所有にも関わる権利を得た。金だけを受け取り、ほかは全部自分の判断のまま、とはいかない。ハムディが育てた会社には、財務と成長を説明しなければならない強い相手が入った。[23]
客がいないから困ったのではない。ブランドは売れた。それに応えるための巨大設備へ先に金を使い、稼働が遅れ、品質問題への対応も重なった。売上が増えることと、来月も支払えることは違った。その差を埋める資金のために、創業者は会社の将来の持分へも手を付ける取引を選んだ。
CEOを探すという報道
2015年には、Chobaniが経営を担う新たなCEOを検討していると報じられた。会社側が説明したのは、創業者と組んで運営を担う人を探すという方向だった。ハムディが解任されたという話ではない。それでも、創業者自身の経営のやり方が問われる段階に来たことは確かだった。[27]
壁を塗り、味を決め、店へ売り込んだ男が、すべてを1人で握り続けるのか。会社の運営を整える人を別に迎えるのか。最初の仲間へ声をかければ済んだ組織は、複数の工場と専門部署を持つ会社になっていた。誰が日々の判断をするかは、肩書きよりも現実の問題になった。
候補者には、TPG出身で暫定社長兼COOを務めていたケビン・バーンズがいた。社外から来た運営の専門家に、会社の日常を任せる可能性が現実になっていた。一方、ブランド部門のピーター・マクギネスは取材に対し、最終判断はハムディが行い、会長にもとどまると説明した。創業者を追い出すという報道には、正面から反論した。[28]
マクギネスは、商品を試し、承認し、何年も先の計画を決めることがハムディの役割だと説明した。その横で、大きな工場群を動かす運営の役割を分ける。創業者を追い出すのかという報道に、会社側は反論する。会社を持ち続けることと、日々の仕事を全部自分で動かすことを、分けて考える段階に来ていた。[28]
元妻との争い
同じ時期、会社の所有権をめぐる争いも表に出ていた。元妻アイシェ・ギライは、前身のチーズ事業への貢献がChobaniにもつながっているとして、持分を求めた。ハムディ側はその主張を争った。2人は1999年に離婚しており、問題は結婚生活そのものの終わりではなく、後に大きくなった事業を誰がどれだけ所有するのかという訴訟だった。[29]
2014年の報道では、ギライはChobaniのレシピが競合Fageの元従業員を通じて不正に得られたとも主張した。Chobaniはこれを否定した。2015年、所有権をめぐる訴訟は非公開の条件で和解した。和解条件は公表されていない。[30][31]
ギライが求めた持分は、最大で会社の53%だった。小さなチーズ会社だったころの関係が、何十億ドル(円換算では数千億〜1兆円超の規模)もの価値を持つブランドの所有を左右しかねない。工場の立て直しを進めながら、ハムディは自分が築いた会社の権利をめぐっても争っていた。[29]
12会社を作った人に会社の未来を渡す
2016年従業員へ届いた知らせ
2016年4月、Chobaniは従業員に、会社の将来の価値に参加できる仕組みを発表した。対象は当時のフルタイムの従業員約2,000人。勤続期間などに応じ、将来の売却や上場といった条件の下で利益につながる持分の付与だった。全体として会社価値の最大10%に相当すると報じられた。[32][33]
今日の賞与ではない。売却や上場などの条件で、将来の会社価値へ参加する持分だった。それでも、自分たちが働いて大きくした会社に、給料以外の形で関われる道が開いた。会社が高く評価されれば、その成長が働いた人の将来にもつながる。ハムディは、その一部を仲間へ渡すと発表した。[32][33]
元の工場を知る人も、急成長の途中で来た人もいる。機械を動かし、箱を詰め、カップを送り出してきた。外のニュースでは創業者の顔が大きく出るが、売れるヨーグルトを作ったのは彼らでもある。最大10%という数字で、その働きを将来の価値へ結びつける仕組みを用意した。
父になって時間の重さが変わった
会社が大きくなる一方で、ハムディ自身の生活も変わった。子どもを持ち、親になったことは、従業員の暮らしを考える視点にも影響した。2016年に発表された育児休業制度では、フルタイムの従業員に6週間の有給休業を用意し、母親だけでなく父親も対象とした。時間給で働く人も含め、2017年から実施する方針だった。[34]
工場で働く人も6週間休める。その間の給料も守る。対象を役員や事務職だけに限らず、時間給の人や父親にも広げると発表した。代わりに誰が働き、どう生産を続けるかは会社側の仕事になる。家族の時間を大事にしてほしいと言うために、仕事を休める制度を付けた。[34]
子どもが生まれても、生活費のためにすぐ戻らなければならないのか。その問題へ、親になったハムディは会社の制度で答えようとした。工場はヨーグルトを作る場所だが、そこで働く人には、仕事から離れて過ごしたい家族の時間がある。
自分たちの会社だけでは届かない

写真:Ron Przysucha / U.S. Department of State/出典/Public domain(米国政府著作物)。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
2016年、ハムディは「Tent」を設立した。難民の就労を後押しするため、企業をつなぐ組織だ。テントという名前は、避難してきた人の一時的な居場所を思わせる。ただ、目指したのは一時的な物資の支援だけではなく、企業で働く機会を増やすことだった。[35]
Chobaniで経験した問題は、他の会社にも起こり得る。採りたい人がいても、言葉や通勤、資格の壁がある。1社で手探りしたことを、ほかの会社へも渡せれば、雇える人数は自分たちの工場の外へ広がる。ハムディは他社の経営者へ、仕事を用意する側として動いてほしいと働きかけ始めた。[35]

写真:Johannes Arlt Johannes Arlt/出典/CC BY-SA 3.0。表示用にサイズと圧縮を調整。内容の改変・合成なし。
自らの財産の大部分を寄付すると誓うThe Giving Pledgeにも参加した。資金を出すだけでなく、企業をつなぎ、人が働ける場所を増やす。工場へ通訳と通勤手段を用意したときに始まった仕事は、自分の会社に収まらなくなっていた。[35]
13ヨーグルトが政治の標的になる
雇った人の出自を攻撃される

写真:Johannes Arlt/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0
Chobaniが難民を雇っていることは、支持だけを集めたわけではない。ハムディや会社を攻撃し、商品を買わないよう呼びかける運動も起きた。雇用の話が、移民や宗教をめぐる政治的な対立へ引き込まれていく。[36]
工場では毎日顔を合わせる同僚が、ネットでは出自だけで語られる。ヨーグルトの味ではなく、誰を雇っているかを理由に買うなと言われる。商品を売るために広めたChobaniの名が、今度は働く人へ敵意を集める入口にもなった。[36]
ハムディは難民を雇う方針を捨てなかった。彼らは会社を一緒に動かしている人だ。売れる商品を作る仲間を、外からの攻撃で切り離すわけにはいかない。設備と資金を守るだけでなく、そこへ通う人が受ける攻撃にも向き合うことになった。[4]
無関係な事件を結びつけた虚偽情報
2017年、アレックス・ジョーンズのメディア「Infowars」は、Chobaniと難民雇用を地域の犯罪に結びつける内容を広めた。しかし、取り上げられた事件と会社の間に、そのような関係はなかった。地元当局も結びつきを否定した。Chobaniは名誉毀損で提訴した。[37]
ジョーンズは同年5月、虚偽の内容を撤回し、遺憾の意を表した。[38]
ここで回収すべきだったのは、不良品ではなく虚偽の情報だった。会社と無関係な事件を、雇っている人の出自で結びつける。Chobaniは裁判へ持ち込み、相手は撤回した。品質問題で客へ説明してきた食品会社は、働く人を狙った攻撃にも、企業として応じることになった。[37][38]
1つの物語では収まらない人物
株式を渡す話や難民雇用だけを読めば、理想の経営者に見える。だがその会社には、回収も、資金繰りも、所有権の訴訟もあった。人を大切にすると言った創業者が、その方針を試される場面は、成功した年だけに来るわけではない。会社が苦しいときにも、同じ仲間と仕事を続けなければならなかった。
彼が選んだのは、ヨーグルトだけを売り、雇用や待遇の話はしないという立場ではなかった。持分も休暇も採用も、会社の仕組みに入れる。外へ語ったことは、次に金が足りなくなったときにも、自分たちが守るべき基準になる。
その会社は、客がChobaniを食べる場所へも、新しい入口を作り始める。今度はスーパーの冷蔵棚ではなく、その場で一杯を出す店だった。
14冷蔵棚の外へ
スプーン一杯の食べ方を広げる

写真:Jess Hawsor/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
2012年7月25日、ニューヨークのソーホーに、Chobaniの小さな店が開いた。場所はプリンス・ストリート。スーパーでカップを売る会社が、今度は注文を受け、その場で一杯を作って客に渡す。フローズンヨーグルトではない。工場から毎日届く濃いヨーグルトに、具材を合わせる店だった。[39]
ピスタチオとチョコレートの一杯には、蜂蜜、オレンジ、ミントも入る。ほかには、オリーブオイルや塩、胡椒を合わせ、ピタパンのチップスで食べる組み合わせもあった。甘いものだけではない。ハムディが育った食卓のように、ヨーグルトを食事へ近づけるメニューだった。[39][40]
小さい器で3.75ドル(約591円)、大きい器で4.75ドル(約748円)。客は同じヨーグルトを、普段とは別の味で食べられる。会社の側も、誰が何を注文し、どの組み合わせを気に入るかを、店頭で見ることができた。カップの色や広告のコピーを考える会議より先に、目の前の客のスプーンが答えを出す。[39]
開店当日の取材では、ピスタチオとチョコレートのメニューが人気を集めていた。少し大胆な組み合わせを試す場所ができたことで、冷蔵棚に並ぶChobaniにも、別の表情が加わった。[40]
その後、Chobaniはトッピングを混ぜて食べる商品や、飲むタイプのヨーグルトも広げていく。最初の成功作を大きな工場で作り続けるだけでは、客が手を伸ばす理由は増えない。味だけでなく、いつ、どこで、どう食べるかへ、商品の作り方を広げていった。[19]
新しい食品会社の背中を押す
2016年、Chobaniは食品分野の小さな会社に向けて、事業支援の参加者を募集した。選ばれた会社へ渡す資金は2万5,000ドル(約394万円)。株式と引き換えではない。半年のプログラムで製造、品質管理、表示や販売について相談でき、参加に必要な旅費や宿泊費も支援した。[41]
応募は400社以上。最初に選ばれた6社には、ひよこ豆のパスタを作る「Banza」、瓶入りソースの「Jar Goods」、規格外の青果を使う「Misfit Juicery」などがいた。扱う食品は違っても、売り場へ出て、一定の品質で供給し続けるという難しさは共通している。[42]
店へ入る前に金が要る。注文を受ければ、それを作る設備が要る。代金を受け取る前に、原料と人へ払う。ハムディが小さな会社で苦しんだ問題は、新しい食品の作り手にもある。今度は自分たちの担当者と工場を、その相談相手として差し出した。[41]
プログラムには工場の見学も組み込まれ、最後にはアメリカ西部・カリフォルニア州の、Disneylandで知られるアナハイムの食品展示会「Expo West」へ進む予定が用意された。何となく励まして終わるのではなく、工場で作るところから、店の仕入れ担当者に見せるところまでつなぐ。参加企業にとっては、借りられるお金だけでなく、会える人と聞ける相手が増える機会だった。[41]
かつては自分たちが、知らない買い手へカップを見せに行った。今では工場を見せ、品質の相談に乗り、展示会へ出る道も用意できる。彼の会社は商品を作る側から、別の作り手の最初の売場を支える側へも回った。
学校の昼食代を会社が払う

写真:Senior Master Sgt. William Gizara / New York National Guard/出典/CC BY 2.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
2019年には、Chobaniが複数地域の学校給食費の未払い分を支援した。工場のある地域だけでなく、ロードアイランド州の学区なども対象となった。食べ物を売る会社が、食事の費用を払えない家庭の問題に関わる。事業と支援の接点が、分かりやすい形で現れた。[15]
子どもが今日、昼食を食べられるか。未払いの給食費を支払えば、その問題へ直接届く。難民の雇用では仕事を、ここでは食事のための費用を支える。食べ物を売って得た会社の金を、食べる人の困り事へ戻す方法だった。[15]
2020年、感染症が広がると、同社の商品は食料支援にも回った。店へ売るために作った製造と配送の仕組みで、必要な人へ食品を送る。理念を説明する言葉より先に、食べられるものが届く。食品会社がすでに持っている能力の使い道を、売場の外へも広げた。[43]
将来の株だけでなく今月の給料を
会社が上場したら、いつか大きな利益を受け取れるかもしれない。だが、家賃や食費は今月もかかる。2020年10月、Chobaniはアメリカでの採用時の時給を最低15ドル(約2,364円)へ引き上げると発表した。工場の平均時給は約19ドル(約2,994円)になる見込みで、引き上げは翌月から始まる方針だった。[44]
会社がいつか上場すれば、将来の持分は大きな価値になるかもしれない。だが今月の家賃は待ってくれない。持分を渡す制度とは別に、毎時間の働きへの支払いも上げる。ハムディは、未来へ賭ける仲間になってほしいというだけでなく、いま工場へ来る人の給料にも金を使った。[44]
家から画面を開く人が増えても、ヨーグルトはオンライン会議から出てこない。牛乳を受け取り、設備を動かし、容器へ詰める人が現場へ来る。その年に会社が約束したのは、そうして出勤する人の次の給料を変えることだった。
15上場を目指し立ち止まる
会社を株式市場へ出す準備
2021年、Chobaniはアメリカで株式上場に向けた書類を提出した。長く非上場で育ってきた会社が、広く投資家から資金を集める道を検討したことになる。工場の創業者だけでなく、株式を持つ人や、将来の価値に結びつく権利を受け取った従業員にも関わる動きだった。[45]
提出書類に記された2020年の純売上高は約14億140万ドル(約2208億円)。2019年の約13億3,170万ドル(約2098億円)から伸びていた。1枚の売り工場の広告から始まった事業が、年間14億ドル(約2206億円)を超える商品を売るまでになっている。[45]
純売上高には、棚へ置く費用や販売促進、値引き、クーポン、返品などが差し引かれている。創業時に悩んだ売場へ入るための金は、会社が大きくなっても消えない。扱う額だけが桁を変え、年次の数字の中へ入っていた。[45]
上場すれば、将来の会社価値に参加する権利を受け取った従業員にも関わる。会社がどれだけ高く評価されるかは、ハムディ1人の財産だけの話ではなくなっていた。工場の仲間へ渡した約束も、株式市場へ出る道とつながる。[32][45]
しかし、計画はそのまま実現しなかった。2022年9月、Chobaniは上場に向けた登録を取り下げた。提出書類には、その登録に基づく証券は販売されていないと記されている。[46]
伸びることと急ぐこと
商品は売れ、工場も動いている。それでも上場の登録は取り下げた。投資家へ株を売る時期を、会社は見送ることになった。大きな会社を作れたから、その先の資金調達も一直線に進むわけではなかった。[46]
当面は非上場のまま、次の投資を選ぶ。外から金を集める方法も、会社の所有をどこまで広げるかも、改めて決めなければならない。
その次に選んだ相手は、ヨーグルトだけではなかった。同じ朝の食卓に載る、もう1つの飲み物へ進む。
16故郷が揺れた日コーヒーを買った年
遠く離れていても他人の災害ではない

写真:USAID/出典/Public domain。表示用にサイズと圧縮を調整。内容の改変・合成なし。
2023年2月、トルコとシリアを大地震が襲った。ハムディは自ら200万ドル(約3億円)の寄付を表明し、企業や公的機関へ支援を働きかけた。故郷のエルズィンジャンも1992年に大きな地震に見舞われており、今回の災害は、彼に以前の被害の記憶も呼び起こした。[47][48]
兄から3000ドル(約47万2800円)を受け取ってアメリカへ向かった青年が、今度は自分で200万ドル(約3億円)を出す側になった。遠く離れた故郷へ、その資金を届けようとした。大きくなった会社と、その過程で知り合った人々を通じ、企業や公的機関へも支援を求めた。[47]
食品を作る力だけでは、災害の現場へ必要なものを届けられない。現地を知る団体や、輸送を担う相手と組む。ハムディが使えるものは、金額だけでなく、人をつなぐ関係にも増えていた。
ラ・コロンブという新しい朝

写真:Peetlesnumber1/出典/CC BY-SA 4.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
同じ2023年の12月、Chobaniはコーヒー会社「La Colombe」の買収を発表した。買収額は9億ドル(約1418億円)。カフェや缶入りコーヒーなどを展開する会社で、ハムディは以前から個人としても投資していた。今回はChobaniの事業として迎え入れる買収だった。[49]
9億ドル(約1418億円)。朝のヨーグルトに加え、その隣のコーヒーも自分たちの事業になる。La Colombeはカフェと缶入り商品を持ち、独自の客を持っていた。新しい豆の飲料を社内でゼロから作る代わりに、すでに作り、届ける会社を迎えた。[49]
最初の工場では、古い機械を知る4人を雇った。今度は、その業界で仕事をしてきた会社を丸ごと迎える。払う金も、引き受ける仕事も違う。それでも、自分が知らないやり方を知る人と一緒に始めるという選択は残っていた。
大きくなるほど選ばなかったものも増える
新しい会社を買えば、その会社が積み上げた歴史も引き受ける。ブランドの名前を残すのか、作り方を変えるのか、販売網を共有するのか。買収金額だけでは、その後の仕事は分からない。
拾い直した広告から70万ドル(約1億円)の工場を買い、今では9億ドル(約1418億円)の会社を買う。だが買えた後には、製造と流通、人の仕事をどうつなぐかが残る。価格を発表する日より、その翌日からのほうが長い。ハムディは、また違う製品を作る人たちと会社を動かす側に入った。[49]
17もう1度閉じた工場の前へ
Anchor Brewingの再出発

写真:WolfmanSF/出典/CC BY-SA 3.0。表示用にサイズ調整。トリミングなし。
2024年、ハムディのファミリーオフィス「Shepherd Futures」は、アメリカ西部・カリフォルニア州の港町サンフランシスコのビール会社Anchor Brewingの資産を取得した。アンカーは長い歴史を持つ醸造所で、前年に操業を停止していた。従業員による買い取りの試みも実現せず、再出発の道を探していた。[50]
取得したのはChobaniではなく、ハムディのファミリーオフィスShepherd Futuresだった。ヨーグルトの会社がそのままビールへ進んだ取引ではない。個人側の組織で、閉じた醸造所の再出発へ関わる。2005年に工場の広告を拾った男は、今度は有名になった経営者として、仕事を止めた場所の前に立った。[50]
金と人脈は、あのころとは比べものにならない。それでも設備、商品、人、許認可をつなぎ直さなければ、再びビールは出てこない。閉じた場所を買えることと、その場所の仕事を戻すことは、やはり別だった。
野菜や果物の会社も迎える
2025年には、Chobaniが「Daily Harvest」を買収した。果物や野菜を使った冷凍食品などを扱う会社だ。ヨーグルトに始まり、コーヒーへ進み、今度は植物を中心とした食事へ広がった。[51]
今度は冷凍庫へ入る食品も扱う。乳製品で覚えたことに加え、別の材料と保存の仕事も要る。原料も作り方も違う会社を迎え、客が続けて買える商品として届ける。朝のカップから広がった仕事は、いくつもの食品を作る集団になっていった。[51]
高価な専門店だけでなく、普通に買える棚へ。その方針を別の食品でも働かせられるか。乳を使った最初のカップを売るまでに悩んだ味と値段と置き場所の問題は、違う商品を相手に、またハムディの前へ戻っていた。
182026年工場の話はまだ終わらない
ニューヨーク州へ戻る大きな投資
2025年4月、ニューヨーク州ロームで新しい工場計画が発表された。Chobaniによる投資額は12億ドル(約1891億円)。州の発表では1,000人を超える雇用を目指す大型計画だった。最初の古い工場から始まった事業が、再び同じ州で、大規模な製造拠点を作ろうとしている。[52]
12億ドル(約1891億円)を投じる計画が発表された。最初の工場の購入額70万ドル(約1億円)とは桁が違う。計画を動く工場にするまでには、さらに仕事が残る。これから建物と設備をそろえ、人が働き、安定して製品を出す。その長い立ち上げが再び始まる。[52]
ハムディは、巨大工場が予定通り動かなかったときの重さを知っている。アイダホでは生産の立ち上がりと品質、資金の問題が重なった。ニューヨーク州へ戻る新しい投資でも、完成予想図の先に待つのは、毎日その設備を動かす仕事だった。
2025年10月、Chobaniは6億5,000万ドル(約1024億円)の増資を実施した。この資金調達では、会社の評価額が200億ドル(約3兆1520億円)に達したと報じられた。70万ドル(約1億円)で買った工場から20年。いま投資家が値段を付けているのは、古い建物ではなく、商品、工場、売り場との関係を積み上げた会社全体だった。[53]
飲料会社との取引
2026年9月には、飲料会社Keurig Dr Pepperとの新たな取引が発表された。Chobaniが同社の持つChobani株式を8億ドル(約1260億円)で買い戻し、ペンシルベニア州アレンタウンの施設と倉庫を約1億2,500万ドル(約197億円)で取得するという合意だった。流通などでの協力も広げる。[54]
ペンシルベニア州は、この施設を使った12億ドル(約1891億円)規模の投資計画と900人以上の雇用創出の見通しを発表している。州内の酪農家から大量の乳を調達する計画でもあった。工場1つの判断が、従業員だけでなく、農家や物流、地域の税収にまでつながる規模になっている。[55]
2026年10月の時点で、新しい工場と雇用はこれから形にする計画だ。最初の工場では、今日できる仕事として壁を塗った。今度は大勢の人と巨額の資金を動かし、何年も続く製造の場所を作ろうとしている。規模が変わっても、動き始める前の工場から商品は出てこない。
2025年の年間売上は38億ドル(約5988億円)。あの70万ドル(約1億円)の工場を買うのに融資を必要とした会社が、1年でこれだけの商品を売るようになった。それでも、次の工場にはまた先に金を入れる。売れた後に支払えば済む事業ではなかった。ハムディは成功したカップの先で、次の大きな設備を作る金の使い方を選んでいた。[56]
あの広告を拾った人
ハムディがアメリカへ来たとき、英語を教えてくれた人がいた。渡航を支えた家族がいた。父の仕事から受け継いだ技術があった。工場を買った後には、機械を知っている従業員がいて、融資を支える制度があり、最初に商品を置いてくれた店があった。
ハムディは広告を拾い直した。反対されても工場を買い、すぐにはできない味を作り続けた。売れ始めた後には、自分の見回りだけで回らない会社へ変わった。人を雇い、任せ、外から資金を入れ、品質の問題では棚から商品を下げた。幸運な1回の決断だけでは、そこまで続かなかった。
冷蔵棚からChobaniのカップを取る。ふたを開けても、弁護士への未払いも、中古設備を探した日も出てこない。あるのは濃いヨーグルトだ。その味を普通の店で買えるところまで運ぶために、故郷の仕事を離れた男は、別の国で何度も乳の仕事をやり直した。
最初に未来の全部が見えていたわけではない。売れるか分からない工場で、まず壁を塗った。その後に味を作り、カップを探し、店へ持っていった。いま彼が計画する工場の先にも、まだ顔を知らない客がいる。名前を聞いたこともないその人の朝食へ、自分たちの作るものを届ける。その仕事が、古い工場の広告から続いている。
参考文献・出典 56件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- How Turkish Dairy Boy Hamdi Ulukaya Started $600 Million Chobani ↩ 本文
- Inc.:2005年の工場購入額(2023年取材) ↩ 本文
- Inc.:本人が振り返る弁護士の反対と急拡大(2014) ↩ 本文
- Masters of Scale, Chobani's secret to scale, full transcript ↩ 本文
- ReThinking with Adam Grant, 20 June 2023, full transcript ↩ 本文
- Brookings:工場と町の再生をたどる音声番組の書き起こし(2024) ↩ 本文
- How I Built This: Chobani, 2022 interview reissued July2025 ↩ 本文
- extra-cheesemarket2006 ↩ 本文
- Just Add Sugar, Rebecca Mead, 28 October 2013 ↩ 本文
- Chobani CEO on challenging leadership norm, Qantas ↩ 本文
- How Chobani’s Hamdi Ulukaya Is Winning America’s Culture War,20March2017 ↩ 本文
- extra-commencement-inc ↩ 本文
- extra-summit2019 ↩ 本文
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- Chobani 2019 impact report ↩ 本文
- Food Processing:工場・製品・製造工程の現地取材(2012) ↩ 本文
- Hamdi Ulukaya tells his story at Entrepreneur Weekend ↩ 本文
- Hamdi Ulukaya: Creating the Right Environment ↩ 本文
- Chobani:会社と商品の来歴(2025) ↩ 本文
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- Chobani acquires Daily Harvest,May2025 ↩ 本文
- Governor Hochul announces $1.2b Rome factory,22April2025 ↩ 本文
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- KDP enhanced Chobani partnership,1September2026 ↩ 本文
- Pennsylvania:工場への投資計画の発表(2026) ↩ 本文
- Dairy Foods:2026 Dairy Top 100 — Chobaniの2025年売上 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



