THE STORY
安藤百福の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
0147歳からの実験
財産の代わりに残ったもの
1957年、安藤百福が理事長を務める信用組合が破綻した。かつては台湾と大阪をまたいで商品を売り、土地を買い、学校までつくった男だった。その財産が消えた。大阪府北部の池田に残った住まいは、借家だった。[1][2]
百福は47歳。麺職人ではない。食品会社の研究所も、次の商品を待つ販売網も持っていなかった。家の裏に小屋を建て、道具と材料を集める。始めたのは、湯をかけるだけで食べられるラーメンの研究だった。[3][4]
麺は切れる。乾かせば硬くなる。湯を注いでも戻らない。試作品はできても、食事にならない。失敗した麺の山は妻の仁子が片づけた。家族の暮らしを支える商品を作るはずが、今は家族に処分してもらうものばかり増えていく。[5][6]
翌1958年8月25日、チキンラーメンが発売される。百福48歳。1食35円。うどん玉が6円の時代に、問屋は高すぎると仕入れを渋った。完成すれば売れるという話でもなかった。[4][1]
その後、彼はもう1度食べ方を変え、カップヌードルを生む。成功した会社を息子へ渡すと、その息子は父の傑作を倒すと宣言した。91歳になると、百福は宇宙で食べるラーメンを作り始める。出発点まで戻ると、そこにいるのは最初から麺に人生を決めていた少年ではない。商売を次々と変え、何度もつまずいた青年だった。[7][8][2]
02商家の孫
朴子に生まれ台南で育つ
1910年3月5日、百福は日本統治下の台湾に生まれた。出生地は現在の台湾南西部・嘉義県の朴子。幼い頃に両親を亡くし、成長したのは、その南にある商業都市・台南だった。呉服店を営む祖父母に引き取られ、商家の暮らしに入った。出生時の名は呉百福という。[2][9]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。
父は資産家で、遺産は祖父が管理していた。両親はいなくても、育った家には商売の基盤があった。使用人が働き、商人が出入りし、商品が動く。その中で百福にも仕事が割り振られた。祖父は厳しく、子どもだからと店の仕事から遠ざけなかった。[2][10]
14歳で高等小学校を卒業すると、祖父の仕事を手伝った。布を扱う店では、品物を持っているだけで商売は終わらない。仕入れる相手がいて、買う相手がいる。百福は人の行き来する仕事場に身を置き、自分もいつか独立するつもりで育った。[2][10]

写真:撮影者不詳/出典/Public domain — PD-Japan-oldphoto / PD-1996。表示サイズの縮小・圧縮のみ。必要な切り抜きを行ったら明示。
当時の台湾は日本の植民地だった。学校制度にも日本人と台湾人の区別があり、同じ島に暮らしていても、誰もが同じ条件で進路を選べたわけではない。その社会で百福が最初に足場を得たのは、祖父母の店と父から残された資産だった。[11][2]
03図書館を辞める
安定した席より商売へ
20歳頃、百福は図書館で働き始めた。高等小学校時代に縁のあった人からの紹介だった。書物を読み、知識を吸収できる仕事で、彼の学歴を考えれば好条件だった。[2]
しかし、2年で辞める。人が出入りし、声を交わして働く商家で育った百福には、静かな図書館の仕事が合わなかった。独立するなら、何を売るのか。祖父と同じ織物の商売を始めれば競争になってしまう。繊維業界を調べる中で目をつけたのが、メリヤスだった。糸を編んで作る肌着などのニット製品である。[2]
1932年、22歳の百福は台湾北部の中心都市・台北で「東洋莫大小」を設立した。資本金は19万円。祖父が預かっていた父の遺産を元手に、日本で仕入れた製品を台湾で売った。祖父の店で覚えた商売を使いながら、扱う商品と仕入れ先は自分で選んだ。[2]
事業は当たり、翌1933年には大阪へ進出する。台湾で生まれた青年は、海の向こうの工場へ直接足を運ぶ商人になった。[1][2]
04工場長と飛行機に乗る
断られた先へ通う
百福は20代の頃、メリヤスメーカーの丸松へ飛び込んだ。最初から歓迎されたわけではない。それでも熱心に話を続け、50代だった工場長の藤村と親しくなった。自宅にも招かれる関係になったと、本人は93歳のインタビューで振り返っている。[10]
その藤村に誘われ、大阪から東京へ飛行機で出かけたことがあった。機体の翼は布張り。途中で操縦桿を握らせてもらうと、機体が大きく上下した。百福は飛行機どころか、自動車の運転経験もなかった。戦前のこの飛行を、本人は楽しい思い出として語った。[10]
仕入れ交渉で断られた相手と、自宅や飛行機で時間を共にする。その距離の詰め方も若い商人の仕事の一部だった。後に財産を失っても、百福の人生から人とのつながりがすべて消えたわけではない。[10][2]
事業が忙しくなると、百福は経済も学ぼうとした。立命館大学の専門学部経済科で夜学に通い、1934年に修了する。出張の多い社長業と学業を並行した24歳は、まだラーメンとは無関係の場所で動いていた。[12][2]
05戦争が取引を壊す
品物を変えても逃れられない
戦争が深まると、繊維を海の向こうへ運ぶ事業を、それまでどおりには続けられなくなった。百福は次の仕事を探した。画像を投影する幻灯機、軍用機のエンジン部品、簡易住宅、炭焼き。時代に必要とされるものへ事業を移していった。[2][1]
軍用機の部品を扱う工場では、資材を横領したとの疑いをかけられ、拘束された。人物資料には拷問を受けたことも記録されている。商売の取引相手だけを見ていれば済む時代ではなくなっていた。戦時の権力は、事業家の身体まで拘束した。大阪の事業拠点も空襲の被害を受けた。[2][13]
1945年、百福は仁子と結婚した。京都の都ホテルで式を挙げた。仁子は、百福の先妻の子どもたちも含む家族を支えた。夫の仕事は安定した1つの事業に収まらず、これから先も家族の暮らしを大きく揺さぶることになる。[14][15]
06闇市の長い列
食べ物を待つ人々
敗戦後の大阪駅近くで、百福はラーメン屋台の行列を見た。食糧が足りず、食べ物を手に入れること自体が切実な時代だった。人々は、温かい一杯のために並んでいた。[1]
当時、アメリカから入る小麦はパンやビスケットに使われていた。百福には、同じ小麦なら日本人が好む麺にできないかという疑問があった。家庭で湯を用意するだけで食べられるラーメン。その構想は、すぐに商品へ変わったわけではない。百福はその後も、ほかの事業を次々と手がけた。[1][4]
塩を作り、栄養食品を研究し、土地を買った。政財界に影響力のあった久原房之助の助言も受け、心斎橋や御堂筋、大阪駅前などの不動産を取得した。戦争で事業を失った男は、復興の街で再び資産を築いていった。[2]
07学校をつくった事業家の収監
理事長と被告の間
1947年4月、愛知県の中心都市・名古屋で中華交通学院が開校した。自動車や鉄道などの技術を学ぶ学校で、百福は理事長、呉主恵は学院長を務めた。百福が建設に出した金は1000万円。全寮制で授業料はなく、食事と制服も支給した。最初の募集に1万5000人が志願し、入学したのは60人だった。運営費は百福の事業収益に頼っていた。会社の調子が崩れれば、学生の学ぶ場所まで揺らぐ仕組みでもあった。[16]
この学院は後に名城大学と提携し、校舎を同大学が使用するようになる。学院自体は1951年に廃校となった。百福の事業収益で支える学校は、独立した経営基盤を築けないまま終わった。[16][17]
1948年には、後の日清食品につながる中交総社を設立した。栄養食品の研究にも取り組み、事業は広がっていた。その中で、製塩所の若者へ渡していた金銭の税務処理が問題になった。源泉徴収を怠ったとの脱税容疑で、百福は巣鴨の東京拘置所に収監された。製塩所や自宅も立ち退き処分を受けた。[2]
百福は処分を不当として税務当局を訴え、弁護団を組んで争った。法廷闘争は2年に及んだ。県立図書館の人物資料は、家族を案じて訴えを取り下げ、その後釈放されたと記している。事業の指揮を執っていた人が長く拘束され、家族も財産と生活の問題を背負った。[2]
釈放後の1951年11月、百福は新設された信用組合の理事長に就いた。事業家として名が通り、資産も持っていた百福へ、金融機関の運営が持ち込まれたのだった。[2]
08肩書きと一緒に失う
池田の借家から
ところが1957年、その信用組合が破綻した。理事長として責任を負った百福は、築いた財産を失う。池田の借家に暮らす家族を抱え、また事業を始めなければならなかった。[1][2]
百福はすでに、会社を興し、戦争を越え、収監から戻り、再び資産を作っていた。その末に、47歳で生活を立て直す仕事が必要になった。[2]
ここで選んだのが、以前から考えていた即席ラーメンだった。ラーメンの店を開くのではない。家庭に置いておけて、湯さえあれば食べられる商品を作る。屋台の鍋と料理人がしている仕事を、1つの乾いた麺に持たせようとした。百福は裏庭へ研究小屋を建てた。[4][3]
09裏庭の5条件
おいしいだけでは完成しない
百福が定めた条件は5つ。おいしくて飽きないこと。保存できること。調理が簡単なこと。値段が安いこと。安全で衛生的なことだった。どれか1つができても、ほかが崩れれば商品にはならない。[4][18]

写真:Mr.ちゅらさん/出典/CC BY-SA 4.0。必要な縮小・圧縮・切り抜きのみ。原画像自体の表情や対象物は改変しない。
たとえば、おいしい生麺を作るだけなら、それを買った人は早く食べなければならない。乾かして長く保存できても、戻すのに手間がかかれば、湯を注ぐだけという構想から外れる。スープの材料を別に用意させれば、調理はまた複雑になる。麺と味と乾燥方法を、同時に成立させなければならなかった。[18][4]
百福は大阪の調理道具が集まる道具屋筋へ行き、中古の製麺機や大きな中華鍋を買った。18kg入りの小麦粉や油も、自転車とリヤカーで家へ運んだ。10㎡ほどの小屋に道具をそろえ、配合を変えて試した。[19]
手元には専門の研究チームがいない。繊維を仕入れて売っていた頃なら、完成した商品を選べばよかった。今度は、まだ存在しない品物を、自分で作るところから始める。[3][1]
家に積み上がる失敗作
配合が決まると、池田駅前の製麺所・吉野商店を営む主原宇市にも製麺を頼んだ。主原へ共同で事業をしないかと誘ったが、申し出は断られた。それでも縁は続き、後の特許訴訟では主原が発明の経緯を証言した。[19][5]

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小麦粉にスープを練り込むと、麺がつながらず、ぼそぼそと切れた。山になる麺くずを仁子が処分する。やがて豚の飼料として売るようになった。百福が研究を続ける一方で、台所や家の中では、実験の後始末が毎日発生していた。[5]
息子の宏基も、その頃の麺を覚えている。焦げたようになり、湯で戻しても食べられない試作品があった。小屋へ入ったままの父が何を作っているか、息子には失敗作の味で伝わってきた。[6]
仁子は子どもたちを育て、暮らしを回し、研究の失敗まで引き受けた。百福の再出発に家族が加わるとは、発売日に完成品を祝うことだけではなかった。売れないどころか、まだ食べられない段階から同じ家で過ごすことだった。[14][15][5]
10天ぷら鍋の答え
水を抜くと穴が残る
突破口は台所にあった。仁子が天ぷらを揚げている。油の中で衣から水分が出ていく。百福は、その原理を麺に試した。[18]
味をつけた麺を油で揚げると、水分が抜け、その跡に細かな穴が残った。そこへ湯を注ぐ。水分を追い出した穴が、今度は湯の通り道になる。保存のために乾かす工程が、食べるときに戻す工程も助けていた。[4]
これが瞬間油熱乾燥法である。乾いているのに、湯を吸うと軟らかい麺に戻る。百福が越えなければならなかった2つの難題が、同じ仕組みでつながった。揚げる条件と味を調整し、保存と調理を両立させる製法へ詰めていった。[18][4]
味の中心は鶏のスープになった。宏基は鶏をしめるところを見て、鶏肉を食べなくなったことがある。ところが、鶏のスープのラーメンは喜んで食べた。父は、その反応も見ていた。研究中から使っていたチキンという呼び名が、商品名になった。[2]
1958年、百福の家では家族が加わり、1日400食ほどを作るようになった。捨てていた麺が、家の外へ出す食品に変わった。[2][15]
1135円を払ってもらう
乾いた麺に見えない価値
1958年8月25日、チキンラーメンが発売された。湯を注げば2分で食べられる。それでも問屋が見たのは、1袋35円という価格だった。うどん玉1つなら6円。麺として比べれば、ずいぶん高い。[4][1]

写真:Mr.ちゅらさん/出典/CC BY-SA 4.0。必要な縮小・圧縮・切り抜きのみ。原画像自体の表情や対象物は改変しない。
百福は百貨店の食品売り場で試食販売をした。乾いた麺を取り出し、湯を入れ、食べてもらう。袋を眺めているだけでは伝わらない速さと、スープまでできる便利さを、その場で見せた。[2][20]
食べた人の反応が変わり、注文が増えた。今度は小屋の生産量では足りない。百福は知人から100万円を借り、古い倉庫を工場へ改装した。信用組合の破綻で資産を失った後でも、新事業へ資金を託してくれる相手がいた。[2]
1958年12月20日、会社の名を日清食品へ改める。1959年には三菱商事、伊藤忠商事、東京食品が販売を担う特約代理店になり、高槻の工場も整備した。家族で400食を作ったところから、大量の注文を受ける食品会社へ切り替わっていった。[2][21]
12工場の前にできた行列
売る道具も新しくなる
仕入れを渋っていた問屋が、今度は工場の前へトラックを並べ、できあがる商品を待つようになった。売り歩いていた百福の側へ、買い付ける人が来る。生産を増やしても注文に追われる商品になった。[1]
ちょうど日本では、スーパーマーケットが広がり始めていた。客が棚から商品を選んで持ち帰る売り場で、軽く、保存の利く袋麺は扱いやすかった。家庭でも、すぐ食べる日を決めずに買い置きできる。[20][22]
百福はテレビ広告にも動いた。湯を注ぎ、短い時間で麺が戻る。映像なら、商品の変化をそのまま見せられた。まだ新しかった食品を、広がり始めた放送と売り場へ乗せていった。[20][1]
事業の好調な時期、百福は家族を和歌山県南部の海辺の町・白浜へ連れていった。宏基と魚釣りをし、泳げない百福には仁子が海へ入れる範囲を教えた。日曜日には愛犬のシェパードと子どもたちを連れ、池田の5月山を歩くこともあった。[23]
学校で父をラーメン屋だとからかわれた宏基が、けんかをして帰ってきたことがある。百福は、日本一のラーメン屋になるのだと息子へ伝えた。会社が上場するより前、息子にとって父の商売は、家の中の失敗麺であると同時に、友達を前にしてかばいたくなる仕事でもあった。[23]
工場を見せた代償
売れ始めた工場へ、見学したいという人が来た。百福は中を案内し、製法も説明した。若い日に工場長へ通い詰めていた商人は、今度は見に来る人を受け入れる側になった。だが、工場を見せる気軽さは、商売の守りを弱くした。[24]
月給1万2000円だった技術者が、月給10万円に支度金まで付ける条件で引き抜かれた。同じ製法のチキンラーメンを作る会社は13社に及んだという。百福は新しい食品を完成させた直後から、自分の工場の外へ技術と人が出ていく事態に直面した。作る能力を持つことと、それを会社の力として保つことは、違う仕事だった。[24]
1963年、日清食品は東京・大阪の証券取引所第2部へ上場した。発売から5年。47歳で裏庭の小屋に入った男は、53歳で上場食品会社を率いていた。その間も、発明をめぐる争いは終わっていなかった。[25]
13発明をめぐる争い
守った権利を使わせる
似た商品が出てくるだけでなく、同じ市場で別の発明者が権利を主張した。1960年11月には、日清の「即席ラーメンの製造法」と別会社の「味付乾麺の製法」が特許公告された。日清側だけの出願を審査して終わる状況ではなかった。相手の製法を支持する10社が、日清の出願に異議を申し立てる。商品を売る競争と、その商品を作る権利の争いが同時に進んだ。[26]
日清は公告中の相手の製法を買い取り、この争いを収めた。1961年にはチキンラーメンの商標登録が確定し、1962年6月には製法特許も成立する。だが、今度は似た内容の製法を出願した別の会社が、日清の独占へ異議を唱えた。この件の和解は1964年1月。店の棚を確保した後も、会社は発明の権利をめぐる交渉から抜け出せずにいた。[26]
主原のように試作を知る人が、法廷へ出ることにもなった。店に出した後は、おいしいかどうかだけで商品を守れない。誰が何を開発し、どの権利を持つのかが問われた。[5]
1964年、日本ラーメン工業協会ができ、百福は初代理事長に就く。日清は一定の製造能力を持つメーカーへ製法の実施を許諾し、業界の協調へ動いた。争って確保した権利を持ちながら、使う会社を増やしたのである。[13][27]
粗悪な製品が広まれば、客は即席麺そのものを信用しなくなる。競合をすべて消すより、品質を保てるメーカーと市場を育てる。百福は発明家の立場と、業界をまとめる立場の両方を持つようになった。袋麺はもはや珍しい食品ではない。その普及が、次の商品を考える出発点になった。[27][20]
14保存できる麺が人を病気にした
自社製品で起きた食中毒
1964年夏、その信用を脅かす事故が日清自身の製品で起きた。高槻工場でつくられた即席焼きそばを食べた人々が、下痢や腹痛、吐き気を訴えた。報告された患者は大阪、京都などの69人。死者はなかった。工場から出た食品が、店を通って客の身体へ害を与えていた。[28]
原因は、使われていた油脂の劣化だった。製造後、問屋や店で高温多湿の中に長く置かれ、直射日光を浴びる商品もあった。製造側の油の管理にも問題があった。保存できるという便利さは、いつまでもどこに置いても安全という意味ではない。だが、その境目を確かめる品質基準も、流通の扱いも十分ではなかった。[28]
日清は製造を止め、対象品を調べて回収した。大阪府の指示による回収品は、立ち会いのもとで粉砕され、家畜の飼料へ回された。問題の製品には製造年月日が入っておらず、どれほど古くなっていたのかを確かめられないものもあった。[28]
百福が初代理事長を務める協会でも、品質を守る仕事が急務になった。1965年には近畿の協議会、翌年には中央の協議会が設けられ、古い商品の調査や油の酸化を防ぐ研究、メーカーへの技術講習が進む。売れる商品を広げた後には、自分の工場を出た食品がどのように扱われ、客に届くかまで追わなければならなかった。[29]
15開場を待てずにゴルフ場をつくる
車の中でも商品名を考えさせる
百福はゴルフも待てなかった。宏基が大学生だった頃、朝5時からプレーし、まだ係の人がいないフロントへ金を置いて帰る。8時前には回らないでほしいと言われても、出社前の時間を使いたかった。コースの側から、それほどやりたければ土地を買って自分でやればよいと勧められた。これが京都の都カントリークラブをつくる発端だったと、宏基は語っている。コースは1966年10月に開いた。[30][31]
父についていけば、ゴルフだけでは済まなかった。往復の車内でも商品名を考えるよう求められた宏基は、そこで「出前一丁」という名前をひねり出した。父の遊びに付き合う時間が、そのまま商品の仕事になる。百福が持ち込む課題は、研究所や役員室の外にもついてきた。[30]
1968年に発売した出前一丁には、ごまのエキスを基にしたラー油が添えられた。先に出したチキンラーメンとは、味をつける仕方を変えた商品だった。会社が大きくなっても、父は息子を自分のそばへ置き、次の品物を考えさせる。その頃には、即席麺を海の向こうへ出す調査も始めていた。[32]
16麺を割るアメリカ人
紙コップの食べ方
1966年、百福は欧米を視察した。アメリカのスーパーへチキンラーメンを持っていくと、相手は麺を割った。紙コップに入れ、湯を注ぎ、フォークで食べた。丼も箸も用意しない食べ方だった。[33][34]
百福は、その使い方からカップ麺の手がかりを得る。食器を用意してもらうのではなく、食品に食器をつければいい。持っていった商品の食べ方を変えられた場面が、新商品へつながった。[34][35]
ただし、紙コップに入れるだけでは工場の商品にならない。輸送中に麺が壊れず、長く保存できて、湯を入れれば調理でき、熱くても手で持てる容器が必要だった。味だけでなく、食べ始めるまでの道具を作り直す仕事になった。[33]
開発中の百福は、試作したカップを家へ持ち帰った。夜も朝も手に取り、宏基にも感想を聞く。麺の研究で家族が失敗作を知っていたのと同じように、今度は家の中に形の違う容器が入ってきた。[6]
どんぶり付きなら売れるのか
1966年12月、日清は「カップチキン」を近畿で試験販売した。発泡スチロールのどんぶりへ麺を入れた商品だったが、容器は分厚く安定性も悪い。費用もかかる。海外で紙コップを見たその年に試しても、そのまま広く売る商品にはならなかった。[20]
食器を付けるという発想と、持ちやすく安く量産できる容器をつくる仕事の間には、まだ距離があった。1969年には原料をアメリカから輸入し、成形を研究する。完成形がカップになるまでには、どんぶりを使った前の試作を直す時間も挟まっていた。[20]
17カップを逆さにする
底に落ちない麺
カップの素材には発泡スチロールを使った。熱を逃がしにくく、湯を入れても手で持ちやすい。中の麺は底へ沈めず、容器の途中で支える。下に隙間があれば湯が回り、輸送中の衝撃からも麺を守れる。[34][33]

写真:Tokumeigakarinoaoshima/出典/CC BY-SA 4.0。必要な縮小・圧縮・切り抜きのみ。原画像自体の表情や対象物は改変しない。
ここで製造上の問題が起きる。上から麺を落としても、決まった位置へきれいに収まらない。傾いたり、ずれたりすれば、同じ商品を速く作れない。百福は順番を逆にした。置いた麺へ上からカップをかぶせ、その後に全体をひっくり返す。[33]
食べるときには上から見える麺を、作るときには下に置く。その逆転で位置が決まった。完成したカップの内側には、客の目につかない製造の工夫まで収まっていた。[34]
ふたのヒントは、飛行機で出されたマカダミアナッツの容器から得た。密封でき、開封した後は湯を注げる形にする。海外で見た紙コップと機内の容器が、別々の部品になって1つの食品へ集まった。[34]
18ふたの下にエビを置く
100円の食事を作る
麺の上には乾燥させたエビ、卵、肉などを入れた。具にも条件がある。保存できるだけでなく、麺と一緒に湯で戻らなければならない。エビだけ硬いまま、麺だけ軟らかい、では食事にならなかった。[33]
選ばれたエビはプーバランという小型種だった。インド西海岸沖で取れるエビを乾燥させ、日本まで運び、湯を注いで戻しても、色や形や味が大きく崩れない。開発時には60種類以上を比べた末に残ったものだった。おいしいエビを探すだけでなく、乾燥と輸送と調理を通り抜けても、客の前でエビに戻るものを探していた。[36]
発売当初の原価は1キロあたり4500円ほどだったと、水産業界紙は記録している。1杯100円の中へ、どれだけ具を入れられるか。ふたを開けた瞬間には麺より先に、その小さなエビが目に入る。高い食品の原料であっても、百福たちは具の見える食事をつくろうとしていた。[36][22]
容器のデザインは大高猛が手がけた。大阪万博のシンボルマークでも知られるデザイナーだ。百福が見た洋皿の縁の模様を手がかりに、白いカップの上下に帯状の模様を置いた。赤い英字と繰り返す帯が、店の棚でも手に持ったときにも見える。[37]
この帯は後にキャタピラと呼ばれ、2018年に位置商標として登録される。それほど長く商品の顔になる模様も、1971年の客には初めて見るものだった。完成した白いカップを、今度は売り場に受け入れてもらう必要があった。[37][38]
19100円を売る場所
台所のない職場へ
1971年9月18日、カップヌードルが発売された。百福61歳。価格は100円だった。袋麺より高く、かさばり、食べ方も新しい。問屋や小売店は簡単には乗ってこない。[39][22]
日清が向かったのは、夜に働く人のいる職場などだった。湯と食器と食事を別々に用意しにくい場所なら、カップを持って食べられる利点が生きる。湯も出る自動販売機を使い、買った後に食べるところまで用意した。[22]

写真:Mr.ちゅらさん/出典/CC BY-SA 4.0。必要な縮小・圧縮・切り抜きのみ。原画像自体の表情や対象物は改変しない。
11月には東京・銀座の歩行者天国でも販売した。買った若者が、カップを手にその場で食べる。隣を歩く人にも、新しい食べ方が見える。会社の沿革によれば、1日の販売が2万食に達することもあった。[40]
商品の普及を待っていたのでは、工場の準備が遅れる。発売翌月の10月、関東工場が稼働した。カップヌードルの専用工場で、当初の日産能力は20万食。商品が仕上がる前から、用地取得と建設を進めていた。百福は新しい食べ方と、その食品を大量に作る設備へ同時に賭けた。[40][20]
20テレビに映った一杯
厳寒の現場から
1972年2月、長野県東部の山あいにある軽井沢であさま山荘事件が起きた。厳しい寒さの現場で、機動隊員がカップヌードルを食べる姿がテレビに映った。深刻な事件の報道の中で、湯気の立つ食品も全国へ知られた。[2][22]
食器も台所もない場所で、湯があれば温かい食事になる。売り込んできた利点が、説明の言葉を挟まずに見えた。日清は前年から職場や街頭で食べる場を作り、工場も動かしていた。注目が集まったとき、商品を供給する体制があった。[22][40]
袋麺で相次いだ競合の参入は、カップ麺でも起きた。容器と味を変えた商品が増え、カップを使った食事が売り場の1つの分野になっていく。百福の次の仕事は、海外でこの食べ方を根づかせることだった。[35]
21アメリカで作る
Cup O’Noodlesの出発
日清は1970年にアメリカ法人を設立し、1972年にはアメリカ西部・カリフォルニア州のガーデナで工場を稼働させた。ロサンゼルス近郊の都市で、現地生産の足場を築いた。その工場で生産を始めたのは、袋麺のTop Ramenだった。カップ製品を現地で発売するより先に、工場を置き、日常的に買ってもらう麺をつくり始めた。日本の工場から送るだけでなく、現地で作って売り続ける体制へ進んだ。[25][41][42]
1973年11月、アメリカでカップ製品を発売する。当初の名前はCup O’Noodles。複数の味を用意し、現地の客へ商品を届けた。[40]
日本人がいつも食べる味を、そのまま世界の正解にするわけにはいかない。国によって好むスープも香りも食感も違う。日清はカップという形を広げながら、中身を土地の食習慣へ合わせていった。視察先で紙コップの食べ方を見つけた後も、売る現場ごとに違う仕事が待っていた。[33][42]
2230億円の失敗
褒められた米が売れない
カップヌードルが成功すると、百福は米へ挑んだ。当時、日本では余剰米の保管が問題になっていた。食糧庁長官から、湯をかけて食べられる加工食品ができないかと相談を受ける。麺で起こした変化を、米でも起こせないか。百福は滋賀工場へ製造設備を入れた。[43]
1975年10月、日清はカップライスを発売した。エビピラフ、ドライカレー、チキンライスなど7種類。多くは1つ200円だった。投じた設備費は30億円。発売当初は売れたが、やがて追加注文が止まった。[40][43]
百福はスーパーへ出向き、客が自分の商品を選ぶところを見た。客がカップライスを買い物かごへ入れ、棚へ返す。隣では袋入りラーメンが5食100円で売られていた。カップライス1個の値段で、ラーメンを10食買える。客は、ご飯なら家でも炊けると伝えた。[44]
家庭には炊飯器があり、すでにご飯がある。家族の人数分だけ200円を払う理由は、熱湯で米を戻せるという技術だけでは作れなかった。百福は撤退を決めた。国の米問題を解くと期待され、30億円で用意した設備が廃棄されることになった。[44][45]
失敗した開発室にいた新入社員
カップライスを開発していた職場には、1975年に入社したばかりの三浦善功がいた。大学で学んだのは経済で、国際金融を扱っていた。銀行の採用試験にも受かっていた青年が、日清では開発部商品企画課へ配属された。担当するのは、食べる米の容器。経済の講義で覚えた知識だけでは、その仕事は進まなかった。[46]
三浦は理系出身の同期に微分積分を教わり、デザインや色彩心理学も勉強した。百福が始めた新商品を、実際に売り場へ出せる姿にする仕事へ、新人も巻き込まれていた。そのカップライスは、発売前の評価は高かったのに売れない。大きな工場まで用意した商品が、入社1年目のうちにつまずいた。[46]
会社は、この失敗に携わった三浦の出番を終わらせなかった。翌年、彼は新設のマーケティング部へ移り、生産から販売、宣伝までを見る仕事に就く。上司は宏基だった。新しい部署で学んだことを持って後に営業へ出る三浦は、やがて日清食品や明星食品を率いる人になる。百福の30億円の失敗の後には、失敗を知る若い社員が残り、別の仕事を引き受けた。[46]
23息子の出番
父の失敗の後で
カップライスの失敗後、宏基はマーケティング部の新設を提案した。創業者が作りたいものを強く押し出すだけでなく、買う人が何を欲しがっているかを組織で調べる。自分が初代の部長を担う申し出だった。百福は認めた。[47]
1976年、宏基たちは「日清焼そばU.F.O.」と「日清のどん兵衛」を発売した。焼そばには皿のような容器を用い、飛ばすとフリスビーに見える姿をU.F.O.という名へつなげた。和風麺には丼を思わせる器と、どん兵衛の名前。カップヌードルのカップへ味だけを入れ替えるのでなく、料理と器と名前をひと組にして作った。[33][35][48]
父が米でつまずいた翌年、息子の側から出た麺がヒットした。家族の記録には、息子の商品の売れ行きが、自分のカップライスを上回ることへの百福の反応も残る。宏基が導入しようとするマーケティングと、自分が先頭に立ってきた開発のやり方がぶつかる。新しいヒット商品ができても、それだけで父子の経営方針がそろうわけではなかった。[47][7]
24社長を譲って戻る
長男の就任と創業者の復帰
1981年6月、百福は会長になり、長男の宏寿が社長に就いた。百福は71歳。チキンラーメンの発売から23年、カップヌードルから10年近くが過ぎていた。発明を商品にし、工場を広げてきた創業者が、日々の経営を次の社長へ渡す人事だった。[49]
だが、その体制は長くは続かなかった。1983年8月、宏寿が社長を辞任し、百福が会長と社長を兼ねることになる。1度退いた73歳の創業者が、再び両方の肩書きを引き受けた。会社にとって継承は、社長の名前を変えるだけでは済まなかった。[50]
その後、社長を継ぐことになるのが次男の宏基だった。アメリカ法人で現地進出に関わり、日本へ戻って開発部やマーケティング部を担当してきた。1983年には副社長になる。百福のそばで同じ商品を見てきた息子だったが、売り方や組織の動かし方まで同じ考えで育ったわけではなかった。[51]
25打倒カップヌードル
37歳の社長と75歳の創業者
1985年、37歳の宏基が社長になる。75歳の百福は、兼ねていた社長職を離れ、会長として残った。宏基が掲げたのは「打倒カップヌードル」。父の代表作に頼るのではなく、それを超える商品を作るという方針だった。[7]
カップヌードルは父の人生そのものに近い。容器を家へ持ち帰り、形を確かめ、売り場を探し、専用工場を建てた商品である。その父を前に、息子は看板商品への依存を変えようとした。宏基は後の著書で、20年間に及ぶ父との確執と苦しみを書いた。[6][7]
対立は家へも持ち込まれた。仁子の日記には、夫が宏基への不満を2時間にわたって話した夜が残る。息子の育て方まで責められた仁子は、誕生日の祝いも要らないというほど怒った。長女の明美が百福へ電話し、母の日記には、その後に夫が謝ったことも記されている。経営方針をめぐる父子の対立は、妻や娘も巻き込んでいた。[52]
宏基はブランド・マネージャー制度を導入し、各ブランドの責任者を競わせた。大きな看板の陰にいるのではなく、自分の商品の売れ行きへ責任を持たせる。創業者の判断へ集めていた力を、複数の担当者へ分けていった。[7][53]
百福は会長になっても商品と経営への関心を失わなかった。息子にとって、父へ従うことと創業精神を継ぐことは、同じではない。新しい商品へ挑み続けるなら、父の成功そのものへも挑まなければならなかった。[7]
1時間の電話の55分は父が話す
社長になった宏基には、父の意見を聞く仕事も残った。毎日約1時間の電話で、55分ほどを百福が話す。週に1度は大阪へ行き、直接話を聞いた。宏基は、その場ですぐ反論せず、いったんすべてを聞いてから後日自分の意見を伝えるやり方を覚えた。2人の指示が違えば、間に立つ社員が困るからだった。[30]
その場で父を言い負かすより、意見を伝える順番を変える。宏基は社長になってからも、創業者と社員の間に立ち、会社を動かすためのやり方を探し続けた。[30]
26旅の記者を会社へ誘う
3年かけて近づいた仕事仲間
百福の食べ歩きに同行した読売新聞の記者がいた。筒井之隆である。38歳で百福に出会い、全国の郷土料理を訪ねる連載を担当した。食べ物を取材して記事にするため、約3年間、各地を一緒に回った。百福にとっては料理を調べる旅、筒井にとっては記事を作る仕事だった。商品開発の会議では見えない創業者の振る舞いを、長い時間、間近で見る関係になった。[54]
連載が終わる頃、百福は筒井を日清へ誘った。文章を気に入られていた筒井は、1985年、41歳で新聞社から食品会社へ移る。秘書室長や広報部長を務め、百福が亡くなるまで22年間、そのそばで働いた。旅で食べた料理を記事にしていた人は、次に、その旅の主の言葉や仕事を伝える人になった。[54]
筒井は話を聞きながら、心に残った言葉をノートへ書きつけた。新しい仕事の場でも、記者だった頃の習慣は消えなかった。百福が口にした考えを、その場で聞いて終わりにしない。商品として残った麺とは別に、創業者が人へ伝えたかったことも、側近の手で少しずつ記録されていった。[54]
27麺を食べに旅へ出る
世界の料理に教わる
1987年、百福は中国の麺を訪ねて各地を巡った。それ以前から日本各地の郷土料理にも関心を向けていた。即席麺を広げた発明家は、もともとの料理がどう作られ、食べられているかを自分で確かめに行った。[2][55]
中国の旅は翌1988年の『麺ロードを行く』にまとまった。粉に水を加えて生地を作るところは共通でも、そこから伸ばす、切る、蒸す、煮る、焼く、揚げると、違う料理になる。麺の形だけでなく、土地の暮らしや歴史が味に重なっていた。[55]
湯をかけるだけの食品を作った百福は、手間のかかる麺の世界を歩いた。自社の工場で大量に作れるようになった後も、食べ物の発想を会社の中だけで完結させなかった。[2][55]
28食べられるところまで届ける
災害と研究支援
1983年、百福は自分の持つ日清食品株450万株と現金5000万円を基本財産として、日清スポーツ振興財団を設立した。会社の広告費を使うのとは違う、自分の財産からの拠出だった。各地でサッカーや野球の教室を開き、子どもたちが選手から直接教わる機会をつくった。[56]
1993年には奨学金制度のため、さらに現金2億5000万円と日清食品株25万株を寄付した。子どもや若者へ使う資産は、設立の1回だけでは終わらなかった。[57]
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。日清の大阪本社でも、上層階の棚が倒れ、書類が散乱した。17日には宏基を本部長とする災害対策本部を設ける。翌18日、百福の指揮で、湯を供給できるキッチンカー「チキンラーメン号」が神戸市東灘区へ向かった。[58]
約1500人に、湯を注いだ温かいチキンラーメンを配った。店から持って帰った袋を、自分の台所で調理できない人たちがいる。車は麺に加え、湯をつくる設備も運んだ。救援活動は延べ9回続き、救援物資を含む提供食数は100万食になった。麺をつくった人は、84歳になった震災の現場でも、その麺を食べられるところまで届けようとしていた。[58]
1996年には食創会が発足した。食に関わる新しい研究や事業を支える活動である。百福自身の次の商品だけでなく、別の人が進める食品技術へ関心と資源を向けた。[59]
1997年、国際的な即席麺の業界団体IRMAが発足し、百福が初代会長になった。最初の世界ラーメンサミットには、海外9カ国・地域の主要メーカー10社と日本のメーカーが集まった。それぞれの市場で競う会社が、品質や安全について協力する場だった。[60]
1999年、発明の地・池田にインスタントラーメン発明記念館が開いた。89歳の百福が残したのは、成功した商品の陳列だけではなかった。裏庭の小屋を再現し、材料から麺を作る体験も設けた。目の前の袋を、誰かが手を動かして作ったものとして触れられる場所にした。[61][62][3]
2985歳の枕元に残る判読不能のメモ
翌朝の秘書に解読を頼む
1996年の取材で百福が語った1日は、午前5時の起床から始まる。仁子と朝食を取り、ニュースを聞いて、8時頃には会社へ入る。昼には小さなラーメンだけでなく、社員食堂の料理も運んでもらい、少しずつ味を確かめていた。自分が食べて満足するためだけの昼食にはしなかった。[63]
若手社員8〜10人ほどを呼び、2時間ほど話す日もある。百福が話すだけではなく、社員たちから質問が飛ぶ。会長室には、会社がまだ小さかった頃を知らない人々が来る。彼らがいま何を尋ねたいのかを、直接聞く時間になった。[63]
夜も、眠りに落ちるまで仕事を思い出した。翌日に指示することが浮かぶと、枕元のメモ帳へ書きつける。ところが目が悪く、自分で書いた文字を自分で読めない。朝、秘書に解読してもらう。会社へ行かない時間まで、思いつきが紙に残り、翌日の仕事へ持ち越された。[63]
3091歳の宇宙計画
今度は麺が飛び散る
2001年、91歳の百福は宇宙で食べるラーメンの開発へ動き始めた。家の丼を不要にした次は、重力に頼れない場所で食べる麺だった。[64][65]

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宇宙では、スープも麺もそのまま容器の底に収まってくれない。飛び散れば食べにくく、船内の機器へも広がる。使える湯は70℃。地上で熱湯を注ぐカップ麺を、そのまま持っていくわけにはいかなかった。[8]
滋賀県の中央研究所で、10人のチームが開発を進めた。スープは粘りを強くして散りにくくする。麺は小麦粉とでんぷんの配合を変え、70℃でも戻るようにする。さらに一口大の塊へまとめ、湯で戻した後も形を保たせた。[8]
野口聡一宇宙飛行士も試作品を食べ、口に合う塊の大きさを確かめた。百福の号令だけで宇宙食になるのではない。研究者が作り、宇宙へ持っていく本人が食べ、アメリカの宇宙機関NASAの安全と品質の基準を通す。裏庭で1人で始めた実験とは違う規模の仕事だった。[8]
3195歳の麺が地球を離れる
残ったのは天ぷらの原理
2002年8月、会社は宇宙食ラーメンの開発を発表した。当初は2003年以降の搭載を見込んでいたが、実際の出発は2005年になる。[65]
2005年7月26日、スペースシャトル「ディスカバリー」に宇宙食ラーメン「スペース・ラム」が載って飛び立った。百福95歳。しょうゆ、みそ、カレー、とんこつの4種類を用意した。野口の希望も取り入れた味だった。[8]
乾燥させるのに使ったのは、1958年のチキンラーメンから続く瞬間油熱乾燥法だった。麺の形も粉の配合も変わったが、油で水分を抜き、後から湯を戻す仕組みは残った。妻の天ぷら鍋から得た手がかりが、半世紀近く後には宇宙の条件へ合わせて作り直されていた。[8][18]
帰還後、野口は国際宇宙ステーションで9人が集まり、持参したラーメンやカレーなどを食べた時間を振り返った。忙しい任務の中で一息つけた、よい思い出だったという。地球から運んだ食品は、宇宙で働く人たちが囲む食卓になった。[66]
同じ2005年、百福は取締役を退任し、創業者会長になった。退職金は財団へ寄付した。それでも、会社や食べ物の話から離れたわけではなかった。[2][13]
32ライバルと同じ席につく
世界で860億食へ
2006年4月、第5回の世界ラーメンサミットは韓国の首都ソウルで開かれた。主催したのは農心。日本で生まれた食品は各国の会社が作る市場になり、百福はその輪の中にいた。会議資料によれば、2005年の世界の即席麺消費は860億食に達していた。[67]
同じ2006年、即席麺の国際食品規格が採択された。原料、品質、衛生、表示などに共通の基準ができる。かつて製法をめぐって争った百福は、晩年には、世界のメーカーが作る麺のルールづくりを支える側へ回っていた。[68][67]
33寝室まで続く仕事の話
孫が過ごした最後の3年間
晩年の百福には、孫の徳隆が付き添った。大学院を出た後、祖父のかばん持ちを3年間務め、亡くなる日まで一緒に過ごした。朝から夜まで行動を共にし、帰宅して食事を終えても、仕事の話は続いた。[69]
徳隆が寝室へ連れていき、休むよう促しても、百福は話し続けた。自分が即席麺の産業をどう作ってきたか。これからどう引き継いでほしいか。それに加えて、若い世代が何を食べ、見て、聴いているかも毎日のように聞いた。96歳になっても、今の客が暮らす世界を知ろうとした。[69]
宏基との議論も終わらなかった。役員会だけでなく、正月や盆の家族の集まりでも経営の話になる。祖父と父はそれぞれの考えをぶつけ、時には徳隆にもどちらの意見かを尋ねた。家族の時間と会社の時間が、最後まできれいには分かれない家だった。[69]
2007年1月4日、百福は仕事始めに出社した。午前9時からの初出式では、30分間立ったまま社員へ語りかけた。大阪本社からつながっていたのは、国内38事業所と海外6カ国の15事業所。その後も、資材を納める取引先約400人との賀詞交歓会、昼食会へ出席した。96歳の仕事始めは、会社を作った頃を知らない社員や、海外で麺を作る人々、工場へ材料を運ぶ人々と会う1日だった。[70]
翌5日、早朝に体調を崩し、市立池田病院へ入院する。午後6時40分、急性心筋梗塞で亡くなった。96歳だった。前日まで立って話していた創業者の声が、そこで途切れた。[71][70]
34米の失敗の続き
会社は答えを変えていく
百福の死後、日清は米飯の商品へ戻った。2009年以降の再挑戦を経て、2014年にはカレーメシが誕生する。2016年には電子レンジを使う方式から、湯を注いで調理する方式へ変わった。[45]
1杯200円のカップライスが選ばれなかった1975年から、生活も変わっていた。1人で食べる人、毎日まとめて米を炊かない人が増える。その客へ合う味や調理方法を、後の担当者が作り直した。30億円の失敗を、そのまま正しかったことにするのではなく、違う商品でやり直した。[45]
百福が最初の会社を作ったときは、父の遺産があった。食品の研究では仁子が失敗作を片づけ、売り出すときには知人が100万円を貸した。成功した会社には、父の看板商品を超えようとする息子が現れた。宇宙へ麺を運んだのは、研究チームと宇宙飛行士だった。[2][5][7][8]
47歳で小屋に入ったとき、完成した商品の姿はまだなかった。その小屋から出た麺を、別の人たちが作り、売り、食べ方まで変えていった。96歳の百福が最後まで話していた仕事は、本人がいなくなった後にも続いている。[69][45]
参考文献・出典 71件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- 安藤百福クロニクル:創業者語録・発明の歩み ↩ 本文
- 神奈川県立図書館「社史と伝記にみる日本の実業家」安藤百福(小松晶子) ↩ 本文
- カップヌードルミュージアム横浜「百福の研究小屋」再現展示の説明 ↩ 本文
- 日本即席食品工業協会「インスタントラーメンの誕生」 ↩ 本文
- 筒井之隆「チキンラーメンの女房」第9回:試作時の麺くずと家族の仕事 ↩ 本文
- 安藤宏基「安藤百福 研究小屋には失敗作の山」文藝春秋・2021年12月29日、公開部分の本人回想 ↩ 本文
- 日清食品「安藤宏基 カップヌードルをぶっつぶせ!出版のお知らせ」2009年10月7日 ↩ 本文
- 日清食品「宇宙食ラーメン スペース・ラム」2005年7月27日:開発チーム・仕様・実際の打ち上げ ↩ 本文
- 台湾日清食品 創業者と企業の沿革 ↩ 本文
- 安藤百福本人インタビュー ベンチャー通信9号(2003年12月)公開再録・若年期の取引と飛行体験 ↩ 本文
- 中央研究院台湾史研究所档案館 初等教育:植民地期の日台分離・1922年以降の制度 ↩ 本文
- 立命館大学校友会報りつめい第209号・2002年7月(1934年専門部経済科) ↩ 本文
- 日清食品「故 創業者会長 安藤百福 社葬のお知らせ」2007年1月16日・本人略歴 ↩ 本文
- 安藤百福発明記念館編「チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子」中央公論新社・書誌と内容紹介 ↩ 本文
- 筒井之隆「チキンラーメンの女房」関連・親族取材と記録に基づく連載 ↩ 本文
- 名城大学物語 第1部第8回「駒方校舎と中華交通学院」 ↩ 本文
- 名城大学物語 第1部第9回「中華交通学院の思い出を語る」 ↩ 本文
- 農林水産省「インスタントラーメンの生みの親」 ↩ 本文
- 筒井之隆「チキンラーメンの女房」第9回 p2 五つの目標 ↩ 本文
- 神頭広好・石橋太郎「日清食品にみるチキンラーメンおよびカップヌードルの製品開発と販売促進策の展開」静岡県立大学経営情報学部研究紀要 ↩ 本文
- NISSIN HISTORY 創造と革新の譜(社史のトピック・年表) ↩ 本文
- 内閣府広報誌 Highlighting Japan 2018年5月:即席麺の発明と自販機販売 ↩ 本文
- 婦人公論・チキンラーメンの女房11 家族の白浜/五月山/息子のけんか ↩ 本文
- 婦人公論・筒井之隆の親族取材と記録 チキンラーメンの女房11(2024年3月26日) ↩ 本文
- Nissin Food Products Annual Report 2006:沿革と当時の事業 ↩ 本文
- 日清食品公式コラム・1961〜64年製法特許係争 ↩ 本文
- 日清食品2005年環境報告書:知的財産権の保護と製法実施許諾 ↩ 本文
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- 日清食品株主通信2011年9月:カップヌードル40周年と海外展開 ↩ 本文
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- みなと新聞・NISSINの小エビはインド産プーバラン(2024年9月) ↩ 本文
- 日清食品2018年7月2日「カップヌードルのキャタピラが位置商標として登録」大高猛と洋皿の着想 ↩ 本文
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- Nissin Group History:1970米国法人、1971国内発売、1973年11月米国カップ発売 ↩ 本文
- Nissin Foods USA 2023年4月6日会社発表:米国工場投資と事業沿革 ↩ 本文
- Nissin Foods USA「Ando’s Dream」米国展開と1972年ガーデナ工場 ↩ 本文
- 筒井之隆「カップライスの失敗と仁子」婦人公論・家族記録に基づく連載 ↩ 本文
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- 日清食品 カレーメシ開発担当者インタビュー:1975年撤退と2009年以降の再挑戦 ↩ 本文
- リクナビNEXT・三浦善功本人インタビュー(2019年3月25日) ↩ 本文
- 筒井之隆「チキンラーメンの女房」第14回 p3 うれしくもあり悔しくもあり ↩ 本文
- テレビ東京・カンブリア宮殿 安藤宏基・徳隆インタビュー(2021年10月7日) ↩ 本文
- 日清食品公式年表1981年6月26日・宏寿社長就任 ↩ 本文
- 日清食品公式年表1983年8月16日・百福社長兼務復帰 ↩ 本文
- 日清食品公式年表1985年・宏基社長就任/公式招集通知略歴 ↩ 本文
- 筒井之隆「チキンラーメンの女房」第14回 p4 とばっちりを受ける仁子 ↩ 本文
- 経済産業省ファミリービジネス研究会資料:創業者と後継者の経営・ブランド競争 ↩ 本文
- 致知・筒井之隆本人による安藤百福回想公開抜粋 ↩ 本文
- 安藤百福編「麺ロードを行く」講談社・1988年、出版社公開の書誌・本文194頁抜粋 ↩ 本文
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- 日清食品公式年表1993年12月27日・奨学金制度創設 ↩ 本文
- 日清食品公式1995年1月・チキンラーメン号の救援活動 ↩ 本文
- 安藤財団「食創会」1996年6月設立趣旨・研究者と起業家の支援 ↩ 本文
- 世界ラーメン協会 第1回世界ラーメンサミット・1997年3月4–5日 ↩ 本文
- 日清食品2011年「カップヌードルミュージアム グランドオープン」1999年池田開館と本人の願い ↩ 本文
- カップヌードルミュージアム大阪池田 施設・安藤百福の発明について ↩ 本文
- 日本食糧新聞・月刊百歳元気1996年1月10日 安藤百福85歳インタビュー ↩ 本文
- Nippon.com「安藤百福 世界の食文化を変えたミスターヌードル」 ↩ 本文
- 日清食品「史上初。インスタントラーメン宇宙へ」2002年(開発時点の予定) ↩ 本文
- JAXA STS-114帰還記者会見 野口聡一:2005年、船上の9人の食事 ↩ 本文
- World Instant Noodles Association — The 5th World Ramen Summit, Seoul, 11–12 April 2006 ↩ 本文
- FAO/WHO Codex Alimentarius — Standard for Instant Noodles CXS249-2006(2006年採択、現行改訂版) ↩ 本文
- MBSリーダーの視点 安藤徳隆インタビュー・2024年3月25日、最晩年3年間の本人の記憶 ↩ 本文
- 日清食品公式沿革・巨星墜つ 最後の初出式と社葬 ↩ 本文
- 日清食品「訃報」2007年1月6日 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値()を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:
本文更新:2026-11-02



