THE STORY
サム・ウォルトンの物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01繁盛させた店から出ていく
大家は息子へ店を渡したい
1950年、サム・ウォルトンの店はよく売れていた。アメリカ南部・アーカンソー州の川沿いの町ニューポートで、5年前に買った雑貨店だった。年8万ドル(約1260万8000円)だった売上を3年ほどで22万5000ドル(約3546万円)へ伸ばし、客の通う店へ変えていた。[1]
ところが、建物の持ち主P・K・ホームズが、賃貸契約を更新しなかった。息子にこの店をやらせたいという。サムは5年前、売上の5%を家賃として払う契約を結んでいた。商売を伸ばせば大家の取り分も増える。それでも、更新できるという条項を入れていなかった。法律家の義父も、この落とし穴に驚いた。[2]
失うのは売場だけではない。サムは町の商工会議所の会長を務め、教会やRotary Clubの活動に入り、ヘレンもここで友人を作った。4人の子のうち3人が、この5年間に生まれていた。家族の生活も、ようやく根を下ろしたところだった。同じ町で店を移せる別の場所も見つからない。商品を買う客がいても、店の賃借権は残らない。家族は商売の拠点ごと移さなければならなかった。[2]
それまでサム自身も、競争相手に場所を取られまいと動いていた。近隣の強敵Sterlingの店主が売場を広げないよう、空く物件を先に借り、Eagle Storeという別の店を出す。店の強さを左右する場所の権利を、使う側でもあった。今度は、本店の大家がその権利を使った。[2]
商品と設備を5万ドル(約788万円)で売った。それでも、自分のやり方を覚えてくれた客と、毎日開けてきた売場は手放す。32歳のサムは妻ヘレンと子どもたちを連れ、別の町へ向かった。[2][3]
次に選んだのも、大都市ではなかった。
02牛乳と新聞を届ける少年
恐慌の中で稼ぐ
サミュエル・ムーア・ウォルトンは1918年3月29日、アメリカ中南部・オクラホマ州の農業地帯キングフィッシャーに生まれた。父トーマスは農場評価や融資、不動産などに関わり、母ナンシーは息子たちの教育を支えた。3歳下に弟バドがいた。父の仕事に合わせ、一家はミズーリ州の町々へ移った。[4]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
世界恐慌が重なる少年時代、サムは乳を搾って牛乳を売り、雑誌の購読を勧め、新聞を配った。弟も配達や庭仕事で家計を助ける。働いて金を得ることは、将来の夢より先に、毎日の用事だった。[5]
学校ではフットボールのクォーターバックを務め、生徒会長に選ばれた。ボーイスカウトにも打ち込む。早く起きて配達し、その後には人の輪へ入る。商品を勧めることも、仲間と動くことも、少年の生活の中にあった。[4]
配達する人を雇う
1936年、ミズーリ大学へ進んだ。商学を学び、食堂で働き、新聞配達で学費を作る。配達区域を増やすと、全部を自分の足では回れない。手伝う人を雇い、仕事を分け、年4000〜5000ドル(約63万400円〜78万8000円)を稼ぐ規模へ広げた。[1]

写真:Unknown author./出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
大学では団体へ入り、役職を引き受け、人付き合いにも熱心だった。付いたあだ名は、精力的に動く男を意味するハスラー・ウォルトン。配る新聞だけでなく、会う人も増やした。[6]
1940年に卒業すると、大手小売のSearsとJ.C. Penneyから仕事の話が来た。選んだのはJ.C. Penney。中西部・アイオワ州の州都デモインで、月75ドル(約1万1820円)の研修社員になった。自分の店を持つ前に、客の集まる売場へ入った。[4]
03接客はうまく帳簿は乱れる
販売成績が社員を救う
サムは客を待たせず売ることへ熱中した。その分、書類は後回しになり、帳簿は乱れた。上司から小売に向かないと叱られることもある。しかし商品は売った。基本給のほかに、月25ドル(約3,940円)ほどの歩合を得た。[3]
創業者James Cash Penneyが来店した時、見せたのは商品の包み方だった。紙とひもを余計に使わず、きれいに包む。会社を大きくした人物が、売場の手元へ入ってくる。サムが覚えた経営には、その場面もあった。[7]
1枚の紙なら小さな金額でも、何店もの社員が毎日使えば大きくなる。客へ手早く渡す仕事と、無駄な支出を減らす仕事は、同じカウンターの上にあった。[7]
妻は大都市へ住みたくない
1942年に陸軍へ入り、米国内で施設の警備などを担った。その頃、オクラホマでヘレン・ロブソンと出会う。彼女の父リーランドは、弁護士であり、牧場や地域事業にも基盤を持つ人だった。1943年2月14日、2人は結婚した。[1]
軍務を終えた1945年、27歳のサムは独立することにした。ヘレンは人口1万人以下の町を望んだ。大きな店のある都市へ出るより、小さな町で暮らす方を選ぶ。その希望も、後の出店地図へつながった。[8]
自己資金は5000ドル(約78万8000円)。義父から2万ドル(約315万2000円)を借り、2万5000ドル(約394万円)でニューポートのBen Franklin加盟店を買った。雑貨を売る共通の看板と仕入れの仕組みを使い、独立した店主が経営する店だった。1945年9月、サムは初めて自分の売場を動かし始める。[3][1]
04アイスクリームで客を止める
本部の外へ仕入れに行く
買い取ったばかりの店では、何から何まで自分で決めるわけにはいかなかった。加盟店本部のButler Brothersは、商品を用意し、仕入れや売り方を教える。経験の浅いサムには助かる仕組みだったが、その本部から買う値段には限界があった。もっと安い品はないか。サムは仕入れ先を探し、製造会社へ足を運んだ。[4][1]
安く入った品を、前の値札で売れば、まず自分の取り分が増える。サムは値札も下げた。1個では大して儲からなくても、買う人が増え、次の品も買ってもらえる。仕入れ先だけでなく、店へ来る客の流れまで変えにいく。初めて独立した町で、その売り方を繰り返し試した。[4][1]
近くの店へも入り、売り方と値段を見る。強い相手がいれば、その方法を調べて持ち帰る。自分の売場だけに立っていては見つからない工夫を、よその店から拾ってきた。[9]
店の前にはポップコーンの機械を置いた。次には1800ドル(約28万3680円)を銀行から借り、アイスクリームの機械を入れる。通りを歩く人が立ち止まれば、その奥の雑貨も見てもらえる。食べ物を売る設備が、店の入口を作った。[10]
弟バドも手伝った。ただ、毎日の機械掃除は好きではなかった。兄が新しい客を呼ぶ工夫を入れれば、弟にはそれを片付ける仕事も回る。後まで残った記憶には、売上の伸びと一緒に、そんな裏側もあった。[11]
もう1度店を探す
売場を育てた後、大家から更新を断られた。次の契約では同じ失敗をしない。サムは法律と事業に詳しい義父の助けを借り、長く使える物件を探した。[2][1]
アーカンソー州北西部の人口数千人の町ベントンビルで、広場に面したHarrison Variety Storeが見つかった。1950年5月、一家は移り住み、店を開く。Ben Franklinの加盟店だが、看板はWalton’s 5 & 10。5セント(約7円)、10セント(約15円)の雑貨を扱う名前だった。[1]

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05夜行バスで売場を見に行く
客が自分で選ぶ店
当時の雑貨店では、客が店員へ頼み、カウンターの奥から商品を取ってもらう形が多かった。サムは、客が棚から選び、最後にまとめて払うセルフサービスへ関心を持った。先行するミネソタ州の店へ、夜行バスで見に行った。[12]
客は品物を自分で見比べられる。店員が1つずつ出す手間も減る。しかし取り入れるには、通路を作り、棚を変え、初めて来る人にも選べる店へ直す必要があった。サムはその仕組みをベントンビルへ持ち帰った。[12]
1952年には、南へ約40キロの大学都市フェイエットビルへ店を増やした。今度は、兄が次の場所へ動いている間、誰が残った店を引き受けるかが問題になる。弟バドも店を開き、経営した。海軍で操縦を学んだ弟は、兄の新しい企画を手伝うだけの存在ではなく、自分の店を動かす共同経営者になっていった。[1][4]
町が変われば、来る人も売れる品も変わる。サムが見てきたことを伝え、店を任された人が自分でも直す。1軒の店主として手応えをつかんだ男は、いつも自分が立てるわけではない売場を増やす仕事へ入った。店長へ渡すのは、棚の鍵だけでなく、次の仕入れと毎日の判断でもあった。[12][1]
倉庫のベッドで開店を待つ
店長になるウィラード・ウォーカーも、サムが他社の店で質問を重ねて知り合った相手だった。開店前には半日ずつ無給で働き、倉庫の簡易ベッドで寝て準備した。その代わりに約束されたのが、利益の一部だった。[10]
ウォーカーは店を任され、後に会社の大きな株主になった。妻パットと医療や教育へ寄付する側へ回る。毎月賃金を受け取るだけでなく、育てた店の成果を持てる関係が、仲間をつないだ。[13]
1960年代初め、家族の店舗は十数店へ増えた。サムが次の看板を考えた時には、独立してからすでに十数年が過ぎている。銀行へ返す金、店長へ渡す利益、次に発注する在庫。小さな店を開いて閉める毎日の仕事の中で、次の店を一緒に持てる相手も増えていた。[6]
その一方で、近隣の商売は変わり始めた。日用品をまとめて安く売る大きな店へ、車で遠出する客がいる。地元の雑貨店を良くしていくだけでは、都市の安売りに客を持っていかれる。サムが次に作ろうとしたのは、自分の得意な店をもう1軒増やすだけの計画ではなかった。[14]
0644歳で自分の看板を出す
本部が断った店を作る
日用品をまとめて安く売る大型店が広がり始めていた。サムはBen Franklin本部へ、利幅を大きく削って売る仕組みを提案した。小さな町にも、安い値段で大量に売る店を持てる。しかし本部は受け入れなかった。[1]
新しい店を始めるには、今まで本部が届けてくれた商品も、自分たちで集めなければならない。サムたちは従来の加盟店を残して収益をつなぎ、新しい売場を用意した。[15][1]
店の名を提案したのは、ベントンビルの店長ボブ・ボーグルだった。姓の一部と、買い物の場所を示すMartを合わせる。Walmartなら7文字。長い看板より費用も少なくて済む。店の名前まで、安く作って商売を始める発想が入った。[16]
1962年7月2日、ロジャースへ最初のWalmartが開いた。44歳。都会の百貨店へ行かなくても衣料品や化粧品、家庭用品を選べる店を、小さな町の近くへ置いた。遠出をしてまとめ買いしていた客を、その町の売場へ呼び戻そうとした。[15][17]
同じ1962年には、Kmart、Target、Woolcoも始まった。大企業が新しい安売りへ進む年だった。相手は古い店ばかりではない。資金と経験を持つ新事業が、同じ市場へ出てきていた。[12]
遠くの都市へ飛び飛びに出る金はない。サムたちは、すでに店のある地域から、次の町へ広げた。1967年には24店、売上1270万ドル(約20億円)。店を増やすための借金も膨らんでいく。[18][15]
各店では、毎日の売上を前年の同じ日と比べる帳簿も付けた。昨日の金額を知るだけでは足りない。去年より売れたのか、どの部門が伸びたのかを、店を任された人が確かめる。自分の会社の数字を知る店主の習慣を、別の町の店長にも持たせた。[19]
スイカとロバで始まる開業
初期のハリソン店では、外へスイカを並べ、駐車場でロバに乗れる催しを用意した。暑さでスイカが割れ、果汁があふれる。にぎやかな集客は、見た目のひどさでも記憶に残る開業になった。[20]
その場を見たデビッド・グラスは、後に会社を率いる人物だった。だが最初の印象は悪く、サムに別の仕事を探すよう勧めるほどだったという。長く一緒に働く相手も、最初からこの店に未来を見たわけではなかった。[20]
071ドル17セント(約184円)では買わない
買付係の判断を後ろから支える
店を増やし始めると、品を買う専門の人が要った。クロード・ハリスは、サムがテネシー州の商都メンフィスにあるWoolworthの店へ来た時に知り合った男だった。別の人を探して入ってきた訪問が、採用へつながる。ハリスは店長の仕事より、商品を選び、仕入れる仕事を望んでいた。[16]
後にハリスが語った交渉では、メーカーが歯ブラシを1ドル17セント(約184円)で勧めてきた。それでは競争相手が売っている値段と同じだ。ハリスは97セント(約152円)を求めた。納入側がサムへ話を持っていっても、サムは担当者を全面的に支持した。仕入れの席で出した条件を、社長への直談判で簡単には崩させなかった。[16]
08店員が最低賃金を求める
店ごとの法人で争う
1967年、Walmartは裁判所でも経営の実態を調べられた。ロジャース、スプリングデール、ハリソンの店員が、連邦法の最低賃金に満たない支払いを受けていたとして訴えた。[21]
店側は金額が基準を下回ることより、その法律が適用されるかを争った。各店は独立した小さな小売店で、適用除外に当たるという主張だった。[21]
確かに法人は別だった。しかしウォルトン家が大半を所有し、サムが経営を動かしている。仕入れる品は似ており、広告には店が一緒に載り、店舗間で商品を移していた。店長を送り出す管理も共通だった。[21]
裁判所は、共通の目的と支配で動く店を、法人名だけで分けられないと判断した。3店を合わせれば、法律の売上基準を超える。未払い賃金、法定損害賠償、弁護士費用を含む額を整理するよう求めた。[21]
値札が下がる横で働く
裁判資料には店の売上も残る。スプリングデールは1964年の41万1073ドル(約6478万5104円)から、翌年には111万2019ドル(約1億円)へ伸びた。ロジャースも1963年の33万9599ドル(約5352万802円)が1965年には77万1769ドル(約1億円)になり、ハリソンも1964〜1965年に32万7191ドル(約5156万5301円)から72万6135ドル(約1億円)へ増えた。店の成長の横で、働く人は最低限の支払いを求めていた。[21]
小売へ連邦最低賃金の適用が広がる時期だった。小規模店に認められる除外があっても、一体で動く事業なら、その全体で規模を見る。サムの会社には、客へ安く売る仕事と、店員へ何を支払うかという判断が、同じ売場にあった。[22][21]
09空から町を探し足で店を歩く
飛行機も商売の道具にする
店が離れるほど、行くだけで時間がかかる。サムは操縦を覚え、小型機で町々を結んだ。上から道路と住宅の広がりを見て、出店候補を探す。降りれば店へ入り、客と商品を見る。[23][1]
見るのは自社だけではない。Kmartへも入り、棚、値段、並べ方を記録する。経営の会合へ出て人の話を書き留め、管理職へ渡す。自分よりうまくやっている場所を見つければ、それを自分たちの店へ移した。[12][24]
日常には、犬を乗せて狩りへ行ける古いピックアップを使った。富が増えてからも、車とホテルへ気軽に金を使う人にはならなかった。一方、何度も現場へ行くための機体には意味を見いだした。[6]
採用前の飛行で衝突しかける
1968年、ニューヨークのIBMのセミナーで、経理の専門家ロン・メイヤーと出会った。翌年に財務と管理を任せる人物だった。採用前、サムはメイヤーを自分の飛行機へ乗せ、ミズーリ州の店を見せた。[25]
着陸へ入ると、練習機が滑走路の前へ出てきた。サムは機体を引き上げ、衝突を避けた。メイヤーが長く覚えた初期の訪問には、新しい会社の説明だけでなく、創業者の操縦する機内で危険が迫った場面まで残っていた。[25]
10借金で広げる限界が来る
家族の持株を市場へ出す
1960年代末、店は増え、ウォルトン家の借金も数百万ドル(円換算では数億〜十数億円の規模)の規模へ膨らんでいた。店を開くには、建物だけでなく、売る前の在庫へ先に金を出す。売上が伸びても、次の店の現金は足りなかった。[18]
ヘレンは商売と家の資産を外へ公開することに気が進まなかった。しかし銀行と個人から借り続ける形では、出店に追いつけない。夫妻は会社の株を一般の投資家へ売る道を選んだ。[9]
1969年には、あのニューポートへWalmartを出した。追われてから19年。かつての大家の息子が営んでいたBen Franklinは、その後に閉じた。サムは回想録で、閉じさせたのは自分ではなく、買う店を選んだ客だと記した。最初の店を明け渡した男は、今度は、別の看板で同じ町へ戻ってきていた。[2]
1970年、Walmartは1株16ドル50セント(約2,600円)で株式を公開した。翌1971年には、ベントンビルに本社と物流センターを開く。集めた資金は、新しい店だけでなく、その店を安く動かすための裏側へ入った。[15][26]
倉庫の周りへ店を集める
店が1軒ずつ少量を仕入れ、遠くから荷物を運べば高くつく。まとまった量を物流拠点で受け取り、必要な分をトラックで分けて届ける。サムたちは、その拠点が支えられる範囲へ店を増やした。[26][12]
近くに自社店を増やせば、すでにある店から客を奪うこともある。それでも配送と管理をまとめる利点を取った。地図の遠くへ旗を立てるより、同じ地域を埋め、トラックが効率よく回れる網を作った。[12]
安い値札のために、倉庫と道路の費用を下げる。客の見えない場所への投資が、店先の価格を支えた。[26]
90日を60日へ縮める
1970年に加わったジャック・シューメーカーへ、サムは業務手引を頼んだ。経験のある相手は、普通なら半年かかる仕事を90日で終えられると答えた。サムが与えたのは60日だった。[27]
59日後、360ページの手引ができた。各店へ自分が行き、口で伝えるだけでは追いつかない。経験を手順へ変え、別の人にも使わせる。その文書を作る速度まで、創業者は押し上げた。シューメーカーは後に社長と最高執行責任者となる。[27][28]
11社長を任せた後で取り戻す
2年で終わった最初の引退
1974年、56歳のサムは日々の経営を離れ、ロン・メイヤーへCEOを任せた。数字と管理を任せるために迎えた相手へ、今度は会社全体を渡す。家族は大きな持株を残しており、会社を売って去る交代ではなかった。[29]
だが、1976年にサムはメイヤーへ、以前の仕事へ戻りたいと伝えた。メイヤーは会社を去り、創業者が再び先頭へ立つ。別の人へ肩書きを渡しても、店の商売から本人の関心は離れなかった。最初の引退は、2年で終わった。[29]
会社は店を1軒ずつ建てるだけでなく、企業を買って広がり始めた。1981年8月、南東部で営業するKuhn’s Big Kの92店を取得した。翌月には相手の本部があったナッシュビルの事務所を閉じ、業務をベントンビルへ集めた。[30]
看板を掛けるだけでは、同じ会社にならない。発注、配送、管理をそろえ、売場を直す。1982年1月期の売上は24億4499万7000ドル(約3853億円)、前年比49%増。前年から営業する店も15%伸び、新しい店と従来の店が共に成長を支えた。[30]
12利益を分け組合は拒む
ヘレンが喜んだ制度
1971年、Walmartは一般の社員も含む利益分配を始めた。創業者が後に説明した条件では、勤続1年以上、年間1000時間以上働いた社員が対象になる。会社の利益の伸びなどに基づき、それぞれの給与の一定割合に相当する金を積み立て、退職時に現金やWalmart株で受け取る。賃金だけでなく、店を育てた後にも取り分が残る制度だった。[31][19]
ヘレンは、時給でも給与でも、皆が利益へ参加することを喜んだ。トップだけでは店を動かせない。現場で売場を作る人々へ、結果を渡す仕組みだった。[32]
株価が上がり、長く勤めた人の中には大きな積立を得た社員も出た。一方、条件を満たす前に辞めた人や、その日の賃金で暮らす人が、同じだけ受け取れたわけではない。元店長ジョン・リーマンも、成長する会社にいる楽しさと利益分配の実益を認めながら、給与が気前よくなかったと振り返った。[33]
会社とは別に交渉する相手を置かない
組合が社員を組織しようとすると、サムは強く反対した。組合対策を扱う弁護士ジョン・テイトへ頼り、社員の声を聞き、情報と利益を分ける関係を強めた。それは会社を信頼してもらい、別の交渉組織へ向かわないようにする方法でもあった。[34]
会社を皆のものと感じてもらうことと、会社とは別の立場で待遇を交渉する組織を認めることは、サムにとって同じではなかった。歴史家ネルソン・リクテンスタインや記者ボブ・オルテガは、社員との一体感を重く見る経営と、低い賃金や組合への拒絶が並ぶ姿を記録している。[34][14]
28セント(約44円)のメモ帳で希望を聞く
黒人の副店長アンソニー・ザカリーが忘れなかったのは、1985年、テネシー州西部の町リプリーでの訪問だった。人種隔離の問題があった時代のアーカンソーで育った彼に、サムは1人の働く男として向き合った。28セント(約44円)のメモ帳を取り出し、この会社で何をしたいのかと尋ねた。ザカリーは店長になりたいと答えた。[35]
その後、研修や特別な仕事の機会が増え、ザカリーは経営を学んで店長になった。ザカリーは、その道のりを語る時、サムに希望を聞かれた場面を挙げた。売場で懸命に働くだけでは身につかなかった管理の経験を、研修や新しい仕事で得ていった。[35]
13訴えてくる人もまず客である
新しい弁護士へ最初に伝える
若い弁護士ロバート・ローズは、法科大学院の最終年だった1979年に、Walmartで法務の仕事を始めた。資格を取ると、長男ロブに採用される。弁護士としての最初の日、サムの秘書ロレッタ・ボスから電話が来た。創業者が会いたがっていた。[36]
オフィスには書類が積まれ、ウズラ狩りの写真があった。サムは握手して迎え、ローズはすぐに緊張が解けたと振り返っている。最初に任された仕事は、会社が訴えられている案件の管理だった。サムが伝えたのは、苦情を訴える人の方が正しい場合もあり、その人たちもまず客なのだということだった。[36]
会社に誤りがあれば対応する。ただし、必要以上に全てを譲るわけでもない。店で買った人と争う仕事を、勝ち負けだけでは片づけなかった。棚の値段を詰める時の厳しさとは別に、何かを訴えてきた相手が、その前には自分たちの売場に来ていたことを、若い法務担当者へ覚えてもらおうとした。[36]
14土曜の朝に売場を持ち帰る
ドーナツを持って運転手へ会う
土曜の早朝、本社へ幹部と仕入れ担当者が集まった。1983年の取材では午前7時半。商品見本を前に、何が売れ、何が止まったかを話す。客の増える週末に、次の対応を間に合わせるためだった。[37]
現場を回った人が工夫を持ち帰り、問題があればその場で電話をかける。どこか1店でうまくいった方法を、別の店にも使わせる。サムも早朝から数字を読み、会議へ備えた。[9]
運転手にはコーヒーやドーナツを持って会いに行った。荷物を届ける人は、店の裏側を見ている。受け入れは整っているか。働く人はどう動くか。店長を通す報告とは違う道から、現場の話を聞いた。[9]
韓国の工場から掛け声を持ち帰る
1970年代、ヘレンと訪ねた韓国・ソウル東方のテニスボール工場で、サムは社員が一緒に掛け声を上げ、体操する光景を見た。米国の店や土曜会議でもやってみたい。持ち帰ったのは工場の商品だけではなく、働く人が皆で動く仕組みだった。[38]
Walmartの文字を呼び、社員が応じるチアが生まれた。地元アーカンソー大学の応援の掛け声も、早朝の会合へ持ち込んだ。役員も店員も腕を上げ、声を出す。店員をアソシエイトと呼び、良い工夫をした人を前へ出す会社で、経営者も澄ました顔のままではいられなかった。[38][24]
目標を求めるだけでなく、自分も結果を引き受ける約束をした。税引前利益率が8%へ届けば、ウォール街でフラダンスをする。会社は目標を達成した。1984年3月15日、65歳のサムは、ニューヨークの金融街にあるMerrill Lynchの前へ出た。草のスカートを着け、ハワイアンバンドや踊り手と一緒にフラダンスをする。社員を前にした冗談を、全米の記者が見られる通りで実行した。[39][40]
倹約にうるさい経営者が、社員の前でした約束のため、自分を見せ物にする。会社の成果を祝い、恥ずかしい役は自分で引き受けた。[39]
入口で人を迎える
入口で人を迎える係も、本社から完成した形で下りてきたわけではない。サムがルイジアナ州の店を訪ね、実際に迎え役のいる売場を見たことが、各店へ広げるきっかけになった。来た人に声を掛け、困っていれば手伝う。同時に、商品を持ち出す人の目にも入る。接客と万引き防止を、同じ入口で引き受ける仕事だった。[41][19]
1985年、アーカンソー州の州都リトルロックに店長と配偶者が集まった。サムはその係の呼び方まで話題にした。Door Greeterより、人を迎えるPeople Greeter。見ているのは扉でなく、そこを通る客だった。[42]
売場では、客が10フィート、約3メートルの範囲へ来たら、目を見て声を掛け、手伝いが必要か聞くよう求めた。値段が安いから自分で探せばいいという店にはしない。棚へ商品を補うのと同じように、そこへ来る人へ応じる仕事も、店を任された社員へ渡した。[19]
店長の家族にも立ってもらう
同じ1985年の会合で、仕事を持つ配偶者に立ってもらった。管理職を新しい店へ送れば、家族も生活を動かす。別の仕事や地域との関係がある人を、出店の都合だけで動かし続けてよいのか。サムは、異動を減らし、同じ店で長く働いても経営を学べる仕組みを考えるよう求めた。[42]
会社の地図が広がるほど、誰かの家も移る。新店の数字だけでは見えない問題を、店長の隣にいる人々へ向けて話した。[42]
空港へ迎えにいくと本人がいない
1985年、アーカンソー州クリントンの新しい店では、サムが来ると連絡が入った。副店長が車を出し、約15分先の空港へ向かう。残った社員が準備をしていると、先に店内放送からサムの声が聞こえた。新しい店を見に来たと、客と社員へ呼びかけていた。[43]
サムは空港で会った人に乗せてもらい、迎えの車を待たずに来ていたのだった。副店長が戻ったのは、それから約30分後。後にこの日を語ったドニー・クロウェルは、すでにサムが売場を歩き、客や社員と話していたことを覚えている。本社から社長が来るための段取りより、本人が店へ着く方が早かった。[43]
15加盟店本部の社長を10年口説く
シカゴへ寄るたびに会いにいく
サムが長く誘い続けた相手に、ドン・ソダークイストがいた。Ben Franklin側の幹部で、後にはその社長になった男である。かつて本部の仕入れに従わず、独自に安売りを始めた加盟店主が、今度は本部の経営者を自分の会社へ呼び込もうとした。[44]
シカゴを通るたび、サムはO'Hare空港からソダークイストの近くの事務所へ行った。1回の面談で採用が決まったのではない。相手は慎重で、勧誘はおよそ10年続いた。ソダークイストが加わったのは1980年。すでにWalmartは、かつてのBen Franklinを売上で追い越す規模になっていた。[44]
迎えた仕事は管理と物流だった。後には情報システム、人事、不動産など、安い値札を裏から支える部署を広く担う。サムは棚を見に行く時間を惜しまなかったが、数字や荷物を何百店へ同時に動かす仕組みは、別の経験を持つ人々に託した。[44][45]
16倉庫のような店で別の客へ売る
小さな店主を会員にする
1983年、オクラホマ州の州都近郊ミッドウエストシティに、最初のSam’s Clubを開いた。倉庫に近い空間で、まとまった量を会員へ売る。客は家庭だけでなく、小さな事業を営む人でもある。[46]
先に会員制倉庫店を開いたのはソル・プライスらだった。サムは店を調べ、話を聞き、自分たちでも始めた。すでにWalmartが成功していても、違う買い方をする客のために、別の仕組みを取り入れた。[12]
ロブ・ヴォス、ディック・パーマー、マイク・ヴィリンズ、クライド・ヒューレットらが立ち上げに加わる。同じ安売りでも、家庭へ1個ずつ売る店の仕事をそのまま移せば済むわけではない。会員を集め、大きな単位で売る現場を、新しく動かした。[47]
17倹約家が衛星へ金を使う
店の数字を空へ上げる
1987年1月期の売上は119億907万6000ドル(約1兆8768億円)、純利益は4億5008万6000ドル(約709億円)だった。大量に売り、費用を払い、残る利益を作る商売で、営業費用の売上比率は17.6%から16.9%へ下がった。会社は物流拠点や改装にも金を使い、次の作業を安くしていた。[48]
店が1000へ向かう規模になると、サムが飛んで回るだけでは追いつかない。会社はレジと売上管理をコンピュータへ移し、商品がどこで動くかを早くつかむ方へ進んだ。[49]
1987年、音声、データ、映像で各地と本社を結ぶ専用の衛星通信網が整った。遠い店の情報が、ベントンビルへ届く。本社からも、同じ内容を各地へ返せる。[15]

写真:Jo Naylor from Villisca, Iowa, USA/出典/CC BY 2.0。表示用サイズ調整。
入荷内容と出荷記録の照合も、店のコンピュータで扱うようになった。違う品や足りない荷物を見つけ、請求と書類の処理へつなぐ。レジでバーコードを読む仕組みは、その年度末に566店へ入っていた。紙へ同じ数字を書き直す手間を減らし、何が売れたかを早く知る。客には見えない通信が、棚の品切れや余計な在庫へ効いていった。[48]
広すぎる店を試す
1987年、米国南部・テキサス州のダラス近郊ガーランドに開いたHypermartは、大きさを前面に出した店だった。日用品と食料品に加え、写真現像、美容室、ビデオ、飲食まで入る。社員がローラースケートで移動するほどの距離があり、初日には推定2万人が来た。[50]
だが広ければ、そのまま便利になるとは限らない。会社は同じ形式を大量に増やすのでなく、店の形を改めた。1988年、ミズーリ州ワシントンに開いたSupercenterは、日用品と本格的な食料品売場を合わせ、日常の買い物を1か所で済ませる道を広げた。[15]
家族の関わった専門店Helen’s Arts and Craftsは、1988年に手放した。店を増やす会社でも、増やさない形式と、やめる事業が残った。[6]
18大口注文で工場を動かす
川でP&Gと話す
大量に買うWalmartは、メーカーにとって無視できない相手になった。注文があれば工場を動かせる。一方、値下げを求められれば、材料、人、輸送のどこで費用を削るかが問題になる。安い値札の向こうで、作る会社の仕事も変わっていった。[51]
1987年、サムはP&Gの幹部ルー・プリチェットと、アーカンソーの川をカヌーで下った。P&Gは洗剤や紙おむつなどの日用品メーカー。2日間、同じ川を進みながら、取引の仕方を話した。[52]
メーカーの営業と店の仕入れ担当が、それぞれ自社の条件だけを守っても、同じ商品を客へ届ける間には無駄が残る。情報と計画を共有すれば、余計な在庫や欠品を減らせる。話は両社幹部の会合へ進み、共同チームを作る動きへつながった。[52]
タオルを体へ巻いて売り込む
1985年、サムは米国製の商品を増やすBuy Americanを始めた。輸入で減った仕事を取り戻し、店へ来る客の雇用も守ると訴えた。ただし値段と品質でも競争する必要がある。国内メーカーへ大口注文と長い契約を渡し、量産しやすい条件を作ろうとした。[53][53]
翌年、リトルロックの会場で、大きなビーチタオルを自分に巻いた。台所道具を振り、庭の椅子を持ち上げ、以前は輸入していた物を今は米国で作っていると見せる。メーカーの人へ話を振り、工場を続けられた事情も語ってもらった。[53]
国内の工場にとって、設備を買い、人を雇った後で、次の発注が来るか分からない取引は危険だった。Buy Americanでは、1〜2年の契約を結び、まとまった注文を約束する方法も示された。値段と品質の条件は緩めない。その代わり、工場側がどれだけ作ればよいかを前もって見通せるようにする。[53]
安い商品を探す会社は、一方では1970年代から海外でも仕入れていた。国内の雇用を守るという宣言と、国境を越えて価格を探す取引は、同じ会社にあった。サムが米国製の商品を掲げた後も、納入先は価格と数量の条件へ応じなければならなかった。[54][53]
小さな町の店主が相手になる
客は選べる品が増え、買い物代を減らせる。しかし、その町で長く売ってきた店は、同じ価格を出せない競争相手を迎える。小さな町から始めた店が、別の小さな店の暮らしを変えた。[55]
地域の商売と雇用をどう見るかで、評価は割れる。元店長が成長の楽しさと給与への不満の両方を語ったように、安さを喜ぶ客と、交渉力を失う取引先もいた。サムの広げた仕組みは、関わる相手へ同じ結果を渡すものではなかった。[33][51]
19取締役会へヒラリーを迎える
男ばかりの経営へ別の声が入る
1986年11月、新しい取締役が加わった。弁護士のヒラリー・ロダム・クリントン。当時のアーカンソー州知事ビル・クリントンの妻で、後に米国の国務長官となる人物だった。Walmartの取締役として、女性の登用や環境の問題へ関わることになる。[56][57]
1987年の株主総会で、サムは女性の昇進が十分に進んでいないと認めた。そして、ヒラリーから女性を認め、訓練し、登用するために行動するよう強く求められたと話した。店長の家族の暮らしを気遣う一方で、自分たちの経営陣にどんな人を迎えるかも問われていた。[57]
1991年、ロジャースの最初の店が改装して再び開く式典では、サムがヒラリーを紹介した。取締役会に非常に大きな貢献をしたとたたえ、彼女も会社への誇りを口にした。全国政治で知られる前のヒラリーは、小売企業の仕事を通しても、この町の創業者と関わっていた。[56]
20小さな菓子を全店の定番へ変える
客が欲しいのに棚から消える
店で拾った話が、仕入れの判断を変えることもあった。米国南東部・テネシー州の工業都市チャタヌーガで作るMoonPieは、クッキーでマシュマロを挟み、チョコレートなどで包んだ大きめの菓子だった。南部では長く親しまれていたが、Walmartでは常に置く商品になっていなかった。[58]
入荷する時もあれば、棚から消える時もある。客は欲しいのに買えず、店長も不満を聞いた。サムはその話を知ると、継続して仕入れる方へ動いた。メーカーにとっては、売れるか分からない時々の注文から、ずっと大きい数量を作る仕事へ変わる。[58]
1991年には、サムが店長会議で、MoonPieを販売数量を伸ばす重点商品に選んだとメーカーは記録している。巨大な会社を率いる晩年にも、会議の話題には手に持てる菓子があった。棚に置き、手に取りやすく見せ、何個売れたかを確かめる。会社の売上を兆の桁へ伸ばす仕事は、こうした商品ごとの判断でもできていた。[59]
21妻が町へ舞台を作ろうとする
家の居間で寄付先を話す
1981年、ヘレンの働きかけで、一家はアーカンソー大学へ舞台芸術のための500万ドル(約7億円)を出した。後にフェイエットビルで開くWalton Arts Centerへつながる支援だった。店と倉庫を増やすだけでなく、住む地域に音楽と舞台を楽しめる場所を残そうとした。[60]
独立する時、ヘレンは暮らす町の大きさを決めた。資産を得た後も、その町で何を支えるかを考えた。夫妻の名が付く寄付でも、発案者がいつもサムというわけではなかった。[60][32]
ヘレンは、机に座るたび見える場所へ、集めた物より周りへ分けた物が人生を示すという趣旨の言葉を置いていた。自分の家族が持つようになった金を、何へ使うか。利益分配を喜んだのも、町に文化の場を作ろうとしたのも、その関心につながっていた。サムが次の売場へ向かう横で、妻は店で稼いだ金の行き先にも関わった。[32]
1987年、創業25年の年に夫妻はWalton Family Foundationを設けた。初めの会合は自宅の居間だった。家族が集まり、教育、環境、故郷へ何を残すかを考える。会社の成長が生んだ金に、店の外の使い道を持たせた。[61]
サムは早くから子どもたちへ持分を分けていた。長男ロブは法律を学び、株式公開の準備へも関わる。株の価値が増える時、その取り分は本人1人に集中していなかった。家族が所有する形は、やがて家族が支援する活動の資金にもなった。[62]
学ぶ人を国境の向こうから迎える
1985年、夫妻は中米とメキシコの若者が米国で学ぶ奨学金を始めた。アーカンソーの3大学で学び、自国へ経験を持ち帰る。米国と中南米を結び、企業活動を学ぶ人を育てようとする、夫妻の考えを持つ支援だった。[63][64]
1992年初めには、母校ミズーリ大学へ300万ドル(約4億円)を出す計画も発表された。商学を学ぶ学生の奨学金と、小売を教え研究する教授職を支える。かつて配達を広げて学費を稼いだ学生が、別の学生の学ぶ時間へ金を出した。[65]
22米国一の富豪が店へ出かける
28億ドル(約4412億円)の値段が付く
1985年、Forbesの米国富豪ランキングでサムは首位になった。推定資産28億ドル(約4412億円)。5セント(約7円)、10セント(約15円)の雑貨から始まった商売が、何十億ドル(円換算では数千億〜1兆円超の規模)という個人資産で伝えられる。[66]

写真:Janice Waltzer from Owasso, USA/出典/CC BY 2.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
中心は会社の株式だった。毎日のレジへ入る金を、本人が全部持ち帰っていたのではない。家族へ分けた持分もあり、後の一族全体の金額は本人1人の財産とは違う。富の数字が大きくなるほど、何を誰が持つ額なのかも変わった。[67][62]
本人は相変わらず店の話をしていた。1987年のTime誌は、テニスの試合中でもWalmartの話を振られると気を取られる姿を紹介した。出張には2頭の猟犬を連れ、店を回る合間に鳥を追う機会を探した。店へ行く移動と好きな遊びが、同じ旅へ入った。[68]
スイカを見た男へ会社を渡す
最初期の店を見て感心しなかったグラスは、1976年に財務責任者として会社へ入った。1984年には社長と最高執行責任者となり、日用品と食品を合わせるSupercenterも押し進めた。[69]
1988年、サムはCEOをグラスへ渡し、自分は取締役会長に残った。最初のWalmartと同じ売場を写し続けるのでなく、客が何をまとめて買うかを変える経営者へ任せた。前の交代では復帰したサムが、今度は、別の人の動かす会社を支える側へ回る。[15][69]
1991年、メキシコの大手小売Cifraと組み、首都メキシコシティへ会員制の店を出した。最初の2店の初動を好調と報告しながら、次の拡大は慎重に検討した。米国で隣の町へ進んだ会社は、今度は現地の商売を知る相手と、国境を越えた店を動かした。[70]
1992年1月期の売上は438億8690万2000ドル(約6兆9165億円)。1年で112億ドル(約1兆7651億円)以上増えた。新店、食品、会員制、海外の実験が同じ会社で進み、もはや創業者1人の飛行機で見きれる範囲にはなかった。[70]
23新人の前で魚の嗅覚を尋ねる
値段を下げたその先を聞く
1991年、若いダグ・マクミロンが本社の買付研修へ入った。後にWalmartのCEOとなる男だが、この時は仕入れの経験も乏しい新人だった。先輩に促され、土曜の会合で、値下げを実現した商品を発表することになる。選んだのはBaitmate。釣りの疑似餌に吹きかけ、魚を引き寄せるためのスプレーだった。[71]
仕入れ先と交渉し、利益率を保ったまま売価を2ドル(約315円)超から1ドル97セント(約310円)へ下げた。商品のことを覚え、忘れそうな答えはラベルの裏へ書いた。会場には数百人。サムが隣でマイクを持つ。マクミロンは手も声も震わせながら説明を終えた。そこでサムが尋ねたのは、そもそも魚に匂いが分かると思うのはなぜか、ということだった。[71]
値段と数量は覚えてきた。だが、商品の働きへ話が戻ると、うまい返答は出てこない。マクミロンは後に、その時は気の利いたことを言えなかったと振り返っている。創業者と新人のやり取りの後も、Baitmateはよく売れた。大企業になった会社の会合には、1本の釣り用スプレーの話が入り込む余地が残っていた。[71]
24大統領が小さな町へ来る
ワシントンではなく社員の前で
晩年のサムは骨髄のがんと闘った。1992年3月17日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領がベントンビルへ来た。大統領自由勲章を授けるためだった。本人を首都へ呼ぶのでなく、会社の町で式典を開いた。[72]
普段は店や会社の損失防止を担当する社員も、連邦側の警備担当者と準備した。探知犬が建物を確認し、屋根にも警備が配置される。現場にいたアンジー・ローズは、自分の働く会社へ大統領が来て、サムがたたえられる場へ立ち会えたことを、後に誇らしく振り返った。[73]
ブッシュは、ヘレン、バド、グラスらへも言葉をかけた。そしてハリソン店のスイカとロバの話まで、社員たちの前で語った。国を代表する成功者として勲章を受ける席でも、その商売には、果汁でひどい姿になった最初期の店が付いてきた。[72][20]
サムは皆で力を合わせれば生活費を下げられると伝えた。体調を崩していても、話す中心には店で働く人々と、その店ができる仕事があった。[73]
22ドル50セント(約3,546円)の自分の物語
1992年4月5日、サムは74歳で亡くなった。長男ロブが取締役会長を継ぎ、店は営業を続けた。[74][15]
最期の時期、記者ジョン・ヒューイとまとめた回想録が残った。『Made in America』は、本人の話に妻、弟、社員らの声を重ねた本だった。6月の刊行に向け、出版社Doubledayは初刷り85万部を用意した。1冊22ドル50セント(約3,546円)。書店へ等身大のパネルまで送る、異例の売り出しだった。[10][75]
店を失った契約も、店を増やす借金も、社員や後継者との関係も、本人と周りの人が別々に記憶していた。その人生が、最後には全国の売場へ置かれる商品になった。[10]
25広場へ帰ると古い車がある
机の先へ広がった会社
ベントンビルには、かつての事務室の様子と1979年式Fordのピックアップが資料として残った。巨大な店を何百と持った男が、日常に使っていた車だった。[76]
店へ行けば、誰が商品を置き、誰が客を迎え、何が売れていないかを聞けた。会社が広がると、店長、運転手、コンピュータ、衛星へ、その目と耳を増やした。サムが毎日そこへ立たなくても、値札と荷物が動く仕組みが残った。[9][49]
2026年1月期の連結総収益は7131億6300万ドル(約112兆3944億円)。商品の売上と会費などを合わせた数字で、本人の死後、別の経営者と社員たちが作った事業も含む。創業者の生前の売上でも、家族の個人資産でもない。[77]
その会社の始まりをたどると、ベントンビルの広場に5 & 10の建物がある。最初に成功させた店は、別の人のものになった。家族で移り住んだ次の町で、サムはもう1度商品を並べ直した。今度の店の先には、家族だけでは動かせないほど大きな網ができた。[78][1]
参考文献・出典 78件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
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- Sam Walton: Great From the Start ↩ 本文
- Sam Walton Biography ↩ 本文
- Sam and Bud Walton ↩ 本文
- Discounting Dynamo: Sam Walton ↩ 本文
- Sam Walton — American National Business Hall of Fame ↩ 本文
- Main Street Empire: J.C. Penney in Nebraska ↩ 本文
- Sam Walton ↩ 本文
- How Curiosity and Humility Built the World’s Largest Company: the Sam Walton Story ↩ 本文
- Sam Walton: Made in America, My Story (1992) ↩ 本文
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- The Vital Two: Sol Price and Sam Walton’s Entrepreneurial Innovations ↩ 本文
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- Donnie Crowell, My Sam Story — Walmart World April2015 p68 ↩ 本文
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- Interview with Ray Bracy ↩ 本文
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- Chattanooga Bakery Company Timeline ↩ 本文
- Wealth Created by Wal-Mart Supports Massive Philanthropic Efforts ↩ 本文
- Our History ↩ 本文
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- Scholarship Program Creates Opportunity for Central American, Mexican Students ↩ 本文
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- Make That Sale, Mr. Sam: Walton Turns Bargains Into Billions ↩ 本文
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- Remarks on Presenting Presidential Medal of Freedom to Samuel M Walton ↩ 本文
- His Success Is Our Success ↩ 本文
- Statement on Death of Samuel M Walton ↩ 本文
- Publicity Drive for Walton’s Story Is Unprecedented ↩ 本文
- Walmart Museum Official Brochure ↩ 本文
- Walmart 2026 Annual Report ↩ 本文
- Walmart Museum ↩ 本文
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※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



