THE STORY
柳井正の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01店を継いだら人がいなくなった
社長の息子が仕事を覚えるまで
柳井正が父の洋服店へ戻ったとき、世界へ店を広げる計画ができていたわけではない。勤めたスーパーを10か月で辞め、東京で留学を目指して英語を学び、それも半年ほどで切り上げた。帰れる家には、父の商売があった。[1][2]
家業へ入った若者は、店のやり方へ口を出した。経験の乏しい息子から指図を受けた従業員は、次々に辞めた。[2][3]
人が減っても、仕入れと販売と支払いは残る。柳井は、その仕事を自分でしなければならなくなった。小さな店の中で、指示をする側に立ったつもりの若者が、売る仕事そのものを覚えていく。[3]
02洋服屋の2階で育つ
宇部にあった父の店
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
1949年2月7日、柳井正は本州西端・山口県の工業都市、宇部市に生まれた。同じ年、父の柳井等は紳士服を扱う店を始めた。後に小郡商事となる家業である。正少年は、両親の働く店の上で育った。家の下では、服を仕入れ、客へ売り、その金で暮らしを立てていた。[4][5]
宇部は石炭や工業で発展した街だった。父は、その街で店を営む経営者だった。息子には商売の場が身近にあり、後に戻る先もあった。柳井は早稲田大学へ進むが、卒業するとき、洋服を世界へ売る使命に燃えていたわけではなかった。[6][1]
就職先は父のつながりで決まる
入ったのは、後のイオンにつながる総合スーパー、ジャスコだった。家業と関係のある人の息子が勤めることになり、一緒に行かないかと誘われた。柳井は、自分はできれば働かずに暮らしたかったと、後年の取材で話している。父の話なら仕方がないという成り行きの就職だった。[1]
最初の売場は、三重県北部の工業都市、四日市にあった本店の雑貨売場だった。2歳ほどしか違わない主任が、きちんと仕事を動かしている。柳井はその能力に感心しながら、ネクタイを着けるよう言われると、荷物を運ぶ仕事に必要なのかと反発した。主任はその言い分を認めた。若い柳井は、上の立場の人とぶつかりながら、その人の働く力も見ていた。[2]
退職の手紙を1人へ出す
ジャスコでは、後に流通の大企業を築く岡田卓也や、人事を率いた小嶋千鶴子にも接した。在籍は、本人の回想で5月から翌年2月までの10か月。仕事へ情熱を持てず、退職する。[1]
そのとき、小嶋にだけ手紙を書いた。短い会社員生活でも、どうして辞めるかを伝えたい相手はいた。その後は東京へ出て英語の学校へ通い、留学を考えた。だが、学んだことは思うように身につかなかった。[1][2]
泊めてもらった友人は、すでに働いていた。授業の後に帰ると、友人が仕事を終えて帰宅するまで時間を持て余す。本人はその頃を、みじめに感じたと振り返っている。親から帰るよう勧められ、半年ほどで山口へ戻った。海外へ出る準備をしていた若者が、いったん戻ったのは父の店だった。[2]
03仕入れから資金繰りまで引き受ける
口を出した後に残った仕事
1972年に家業へ入った柳井に、従業員は長くついてこなかった。大半が辞め、残ったベテランとともに店を回すことになる。どの商品を仕入れるか、どこへ置くか、客へどう説明するか。自分で手を動かさなければ、指示の良し悪し以前に売場ができない。[3]
売れた商品と、残った商品が毎日見える。仕入れへ金を使えば、支払う期日が来る。売価を下げれば客は買いやすくなるが、店に残る利益は減る。柳井は、店の表と裏を同時に引き受ける立場で、商売を覚えていった。[3]
気軽に選べる服屋を考える
父の店は紳士服の商売だった。柳井が次に考えたのは、もっと普段に近い服の売場である。店員に付き添ってもらい、特別な買い物として服を選ぶのではなく、自分のペースで見て、必要なものを買って帰る。書店やレコード店へ入るように、服屋へも気軽に入ってもらえないか。[7]
家業へ入った1972年から、新しい店を開く1984年までには12年ある。その間、仕入れ、販売、人の問題を抱えながら、店を続けていた。世界で知られる名前が生まれるまでには、家業を動かす長い時間があった。[5][7]
04朝6時に服屋を開ける
広島で始まったユニクロ

写真:Fast Retailing提供(撮影者個人名未掲載)/出典/公式写真ライブラリーで自由利用を明示。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
1984年6月2日、柳井は中国地方の中心都市、広島市の袋町にユニクロ第1号店を開いた。35歳だった。開店は朝6時。学校や仕事の前にも立ち寄れる時刻にした。服を買うために、わざわざ予定を組む必要のない店を目指した。[5][7]
倉庫を思わせる売場に、普段着を並べる。客は気取った専門店へ入るように身構えず、自分で商品を見られる。柳井が変えたのは服だけでなく、服屋へ入ってから買うまでの振る舞いだった。[7]
道路沿いへ広げる

写真:Fast Retailing提供(撮影者個人名未掲載)/出典/公式写真ライブラリーで自由利用を明示。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
1985年には山口県西部の港町、下関市の山の田へ、初めてのロードサイド店を出した。街中の店へ歩いて来る客だけでなく、車で買い物へ行く人が入れる形式だった。道路沿いの店舗は、その後の展開の原形になる。[5]
05書き間違いを店の名にする
香港でCがQに変わる
1988年、香港で現地の相手と仕入れ会社を作るとき、店の名前に間違いが起きた。Unique Clothingを縮めた表記のCがQになり、UNIQLOと綴られたのである。柳井はその字を元に戻さなかった。むしろQの方が特徴があり、見た目もよいと判断し、日本の店でもその表記を使うことにした。後の看板に世界中で残る1文字は、綿密な命名会議だけから生まれたものではなかった。[8]
仕入れのために香港へ出た頃には、商品を見る目も変わっていた。円高になっても国内の仕入れ値が下がらず、柳井は現地の相場を確かめに行く。立ち寄った工場のポロシャツに、完成度の高いものがあった。売る店の外で、すでに望む服を作れる相手がいた。彼はその工場と取引を始めた。小売店へ出来上がった商品が来るのを待つのでなく、自分で作り手を探す側へ回った。[9]
本の裏表紙へ連絡する
会社を大きくする方法も、最初から知っていたわけではない。経営を学ぼうと公認会計士の本を読むと、裏表紙に著者の連絡先があった。柳井はそこへ連絡した。当時の経常利益は4000万円ほど。会計士からは、社長がいなくても動き、すべてを外へ示せる会社にするよう勧められた。柳井はそこから上場へ向かう仕組みを作っていった。本人が2001年の講演で話した、拡大の裏の相談だった。[9]
1991年には社名をファーストリテイリングへ変え、1994年、広島証券取引所へ上場した。地域の紳士服店を引き継いだ会社が、複数の店を同じ仕組みで動かす会社へ変わっていた。全国で誰もが知る名前になる前に、店舗と資金を増やす土台が広がった。[5]
06悪口を聞くため100万円を出す
店舗の数とは別の評判
1994年に上場しても、安い店がよい店として受け入れられたわけではなかった。翌1995年、ユニクロは文句を募る広告へ、100万円という賞金を掲げた。自分たちで長所を並べる広告とは逆に、買った人から不満を送ってもらう。[8]
寄せられたのは1万通弱で、多くは品質への苦情だった。店を増やし、安く仕入れて並べるだけでは、買った後の服までよくならない。着て、洗って、また着る客から、会社へ答えが戻ってきた。柳井たちは素材や作り方へ、さらに踏み込んでいく必要に迫られた。買う前の安さだけでなく、買った後にも納得してもらう商品を作らなければならなかった。[10]
071900円でフリースを売る
暖かい服を普段の値札へ
1998年10月、ユニクロは1900円のフリースを売り出した。その翌月には東京の流行発信地、原宿へ店を出す。軽く暖かい服を、アウトドアの特別な買い物から、毎日着る服の棚へ持ってくる。郊外の道路沿いで見た名前が、若者の集まる街で、色を選べる1枚として現れた。[5]
売れたのは1998年に200万枚、翌年は850万枚。成功した商品の翌年は量を絞るという業界の見方に対し、柳井は2000年に1200万枚を売ると強気の計画を立てた。売れることを確認してから追加するだけでは、冬へ間に合わない。先に数量を決め、工場を動かし、店へ並べる必要があった。[9]
結果は2600万枚だった。家族の誰かが着る服から、家族で別の色を選ぶ服へ。同じ型を年齢や性別の違う人へ売ると、商品数を際限なく増やさず、1つの生産量を大きくできる。その服を見た人が別の店へ行っても、同じ名と価格で選べる。フリースは、地方の安い服屋だった名前を、何の店か説明しなくても伝わる名前へ変えていった。[11][5]
自分たちでつくるところまで
店で安く売りたいと思っても、仕入れた商品の原価や品質を後から自由には変えられない。ユニクロは、売場だけでなく企画と生産にも関わる体制へ進んだ。1999年には上海に生産管理の拠点を置いた。[7][5]
売れそうな商品を外から探すだけでなく、どんな服を何枚つくり、いつ店へ入れるかまで決める。売れ残れば、その分も自分たちが引き受ける。1900円という値札の後ろには、素材、生産量、品質と在庫を同時に扱う仕事があった。[7]
柳井が後に出した本の名は『一勝九敗』だった。フリースの大成功があっても、次に試すものまで当たるわけではない。そのことを、会社は海外で実際に経験する。[12]
08英国の21店から16店を閉じる
知られていない店を増やしてしまう
2001年9月、ユニクロは英国の首都ロンドンへ4店舗を同時に出した。国内の仕組みを外へ持ち出す、初めての海外進出だった。ところが、増えた店舗に見合う売上はついてこなかった。日本では客が店の名と商品を知っている。ロンドンでは、まず何の店なのかを知ってもらわなければならなかった。[5][13]
2003年、21店舗のうち16店舗を閉める方針を決めた。海外へ出て、短期間で増やした店の大半を閉じる。会社は英国市場そのものを諦めず、ロンドンとその近郊の5店舗へ絞って立て直す方向へ進んだ。[13]
服を運ぶ以外に足りなかったもの
日本で売れた品を送っても、その名前を知らない人が買うとは限らない。現地で店を任される人、客が比較する店、商品を見せる方法まで考え直す必要があった。柳井は後の取材で、海外の経営を任せる人材や、店を知ってもらう方法を課題に挙げている。[14]
一方、2002年には上海へ店を出し、2004年には韓国で合弁会社を設立した。海外の入り方は1つではなかった。失敗した英国を抱えながら、別の国では別の相手と事業を始めていく。[5][15]
095000億円の計画が崩れる
フリースの後に残った大きな会社
英国へ出た翌年、日本でも売上の勢いが折れた。2002年8月期、会社が描いていたのは5000億円ほどの売上だった。実際には3441億7100万円。前年の4185億6100万円から17.8%減り、営業利益は1020億8100万円から504億1800万円へ半減した。フリースを大量に売った2年間の先で、上場後初めての減収減益を受け止めることになった。[16]
柳井は株主向けの説明で、基本的な普段着へ寄せすぎた品ぞろえと、ブームの反動を挙げた。多くの客が1度買った服を、次の年も同じ勢いで買うとは限らない。売れたという過去を頼りに大きくした会社が、次に買いたい理由を作れなくなっていた。[16]
店を開ける手順や、工場へ大量に頼む仕組みが消えたわけではない。それでも商品の組み合わせを変え、女性向けの服を厚くし、企画から店へ入るまでの時間を短くする必要があった。柳井が玉塚元一へ社長を任せるのは、その建て直しの途中である。会長と新社長がそれぞれメッセージを出した2002年の年報には、柳井の創業期からチームによる経営へ変えるという玉塚の方針が並んだ。[16]
10野菜から退く9億円
SKIPを続けない
2002年11月、ファーストリテイリングはSKIPという食品事業を始めた。野菜や果物などを客へ届ける仕事だった。服と同じように品質と流通を変え、日常に必要な品を売ろうとした。[7]
だが黒字化の見通しは立たず、2004年4月末で事業を停止する方針を示した。整理に伴う損失は9億円。日本で売場と商品を変えた経験を、食品へ広げた挑戦は続かなかった。英国の店の整理と、国内で始めた別事業の終了が、同じ時期の会社へ重なった。[13]
カシミヤなら何ができるか
食品を試していた2003年の秋、服の棚には別の新商品が入った。カシミヤ100%のセーターである。女性用の半袖タートルネック4900円、長袖5900円、男性用のクルーネック7900円。高級素材を、いつも入る店の価格へ落とし込もうとした。[17]
会社の説明では、セーター1枚の原毛に必要な量はカシミヤヤギ約3頭分だった。原料を安い別の素材へ置き換えるのではなく、中国北部・内モンゴル自治区で、原料から製品へつなぐ。形も色も選べる商品群として棚へ出した。フリースの次は、触ったときの違いと値札で客を引きつけようとした。[17]
2003年9〜11月、カシミヤなどのニットが好調でも、暖かい日が続いて上着は伸びなかった。既存店売上は前年より6.1%減る。一方、単体の営業利益は25.5%増の220億円だった。売れた量だけでなく、粗利益率と経費を整えて利益を残す。その立て直しも、この頃の仕事だった。[18]
11渡した社長の席へ戻る
玉塚元一に任せた3年間
柳井は2002年に会長へ移り、玉塚元一を社長にした。店が増え、会社が大きくなり、家業に入った頃のように1人ですべてを動かす段階は過ぎていた。別の人物へ経営の先頭を任せた。[19][7]
しかし2005年、柳井は会長兼社長へ戻った。自分から経営者を替えた会社で、自分がもう1度指揮を執る。会社を伸ばすことと、自分の手を離れても伸びる組織へ変えることは、同じ速さでは進まなかった。[19][7]
この間には、米国発の服飾ブランドTheoryなどへ出資した。ユニクロの店を増やす会社から、複数のブランドと経営者を抱える会社へ変わる。柳井の判断は、1店の仕入れだけでなく、どの事業を持ち、誰に任せるかへ広がっていた。[15]
12米国のモールでも客が来ない
ニュージャージーの3店舗
2005年、ユニクロは米国東部・ニューヨークに隣接するニュージャージー州のショッピングモールへ3店舗を出した。だが翌年までに全店を閉めた。柳井は後の取材で、米国での失敗を最も大きなものとして挙げている。英国を経験した後でも、次の市場で同じようにうまく売れるわけではなかった。[20]
そこで、ニューヨークの、服やアートの店が集まるソーホーに仮店舗を出した。同じ服が、こちらでは郊外よりよく売れた。商品を全部変える前に、見せる場所を変えると反応が違う。柳井は、まず何の店かを理解してもらう大きな拠点をつくる方へ舵を切った。[14]
ソーホーをショーケースにする

写真:Fast Retailing提供(撮影者個人名未掲載)/出典/公式写真ライブラリーで自由利用を明示。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
2006年、ソーホーに旗艦店を開いた。色ごとに積んだカシミヤやTシャツ、建物の煉瓦を生かした空間。安い服が雑然とある店ではなく、何を選べるかを入った瞬間に伝える店にした。海外で何者なのかを見せる仕事には、クリエイティブディレクターのジョン・ジェイらも関わった。[21]
だが、話題の店をつくれば日々の運営も整うわけではない。会社の米国史には、ソーホー店の運営が難航し、英国の再建に関わった人材を投入した経緯も残る。人を配置し、商品をそろえ、店の姿を毎日保つ。開業の注目を、継続して売れる店へ変える仕事が、その先に待っていた。[21]
13中国では安くするほど埋もれた
同じ低価格で違う相手と戦う
英国だけが、最初からうまくいかなかった市場ではない。2002年に入った中国本土でも、ユニクロは価格の壁へぶつかった。輸入する原料には関税がかかり、売る服には増値税もかかる。日本の店と同じように、誰でも買える安さを目指せば、素材や型を変えて費用を削りたくなる。だが、そこまでして下げても、地元にはもっと安い服があった。商品を別物へ近づけたのに、最安値にはなれなかった。[22]
2005年末に中国本土を引き受けたのは、潘寧だった。北京で育ち、日本へ留学し、柳井の面接を受けて入った人物である。本人が後に話したところでは、入社した頃は掃除と挨拶を繰り返す店員から始めた。やがて仕入れ網を作る仕事へ入り、香港の事業を動かすようになった。柳井が自分で各地の店を回すのではなく、店員から仕事を覚えた別の人へ、市場の読み方を任せる局面だった。[22]
タクシーのラジオで見つけた客
潘は本土を担当すると、まず北京の2店舗を閉じ、上海へ力を集める仕事を引き受けた。第1財経の取材では、その頃の店は赤字で、社員の士気も低かったという。日本で大勢が選んだという実績だけでは、現地で明日店を開ける自信にはならなかった。[23]
2006年5月の大型連休後、タクシーに乗った潘は、ラジオで旅行者が1億5000万人に達したというニュースを聞いた。彼が見いだしたのは、全員へ最安値で売る市場より、暮らし方が変わり、新しい物へ関心を持つ人々だった。値札だけで地元の店と戦うのでなく、品質と接客を含む日本発の店として、その客へ見せる方向を選んだ。[23]
上海の商業施設に作った新店では、照明も店内の見せ方も変えた。別の大型商業施設へ続けて出した店は、初日に142万元(約3362万5600円)を売り上げたと、同誌は記録している。中国での売り方は、日本の安い店をそのまま置くという考えから離れた。ソーホーでは日本から来た店だとまず知ってもらい、中国では、その店の何を選ぶかを絞り直していた。[23][14]
14読めない日本語を看板にする
いつの間にか変わった赤
この旗艦店で柳井が組んだのが、アートディレクターの佐藤可士和だった。頼んだのは1軒の内装だけではない。ユニクロを世界で通じるブランドへ変える仕事だった。佐藤は、商品を知らない人へも店の力が伝わるように、名前と色から見直した。[24]
打ち合わせで佐藤は、ロゴの色を尋ねた。昔の赤が、いつしかえんじ色へ変わっていた。柳井もその変化を認めた。2人は鮮やかな赤へ戻し、四角い輪郭を残しながら文字を整えた。毎日見ていた名前にも、会社の拡大の中で見過ごした変化があった。[24]
英字の隣にカタカナを置く
佐藤は当初、海外向けには英字案を先に見せるつもりだった。ところが柳井は、説明を聞く前にカタカナの案を見つけ、そちらを選んだ。日本語を読めない客にとっても、日本から来た店だとわかる違いがある。英字とカタカナ、2つの赤いロゴが並ぶ方向が決まった。[25]
現地の店らしく見せるだけでなく、日本の店であることを特徴として見せる。柳井と佐藤は、服の見せ方と看板を一緒に変えた。ソーホーで始めたこの仕事が、世界中の店へ持ち出される店の顔になった。[25]
15Tシャツをボトルへ詰める
500種類あることが伝わらない
次の仕事はTシャツだった。ユニクロには500種類以上ある。それなのに、売場でたたんで積むと、どんな柄があるか探しにくい。種類の多さが、そのまま買い物の楽しさへつながっていなかった。佐藤は、Tシャツを容器へ入れて売る方法を考えた。[26]
2007年4月、原宿店はUT STORE HARAJUKUへ生まれ変わった。Tシャツをボトルへ詰め、飲料の棚を思わせる什器へ並べる。客が1本取れば、次のボトルが前へ滑る。店内の端末では、色や種類から探し、置いてある場所を調べられた。3つの売場階を使い、選ぶ行為そのものを店の体験へ変えた。[27]
数ミリを直しても看板は削らない
ボトルは長袖のXLまで入る形にする必要があった。棚を急に傾ければ商品は転がり出る。止める部分を高くすれば、見た目が重くなる。担当の小林均夫らは、細部を直し続けた。開業1か月前の試作でも佐藤は満足せず、修正が入った。[26]
入口の電光表示には費用がかかった。5行を1行へ減らす案が頭をよぎる中、柳井が残したのは元の迫力だった。棚の商品番号には3744個のLEDをそろえた。1枚を安く売るために原価を詰める会社が、その1枚をどう選んでもらうかには、金と手間を使った。[26]
169億5000万ドル(約1497億円)の提案から降りる
Barneys New Yorkを買うのか
2007年、ファーストリテイリングは米国の高級百貨店Barneys New Yorkの買収へ手を挙げた。ユニクロの店を出すだけでなく、高い服を選び、売る仕事をしてきた会社へ、まとめて入る計画だった。[28]
最初の提案は9億ドル(約1418億円)。対抗する買い手がいる中、8月には9億5000万ドル(約1497億円)へ上げた。1900円のフリースを売る会社が、高級百貨店へ、その規模の金を提示する。柳井は、すでに持つブランドとは別の顧客と売り方も求めていた。[28]
提示した額を支払わずに終える
しかし8月9日、会社は提案を撤回した。最後に競り勝つことより、その条件で買わないことを選んだ。交渉で引き上げた9億5000万ドル(約1497億円)を払うことなく、競り合いから降りた。[29]
英国で大量に店を閉じた後も、海外へ入る別の道を探し続けていた。その全てを完成させるのではなく、実行の手前で下りる案件もあった。次に客の前へ出したのは、買った百貨店ではなく、もう1度自分たちでつくったロンドンの店だった。
17ロンドンへ大きな店で戻る
22.5メートルの入口

写真:Fast Retailing提供(撮影者個人名未掲載)/出典/公式写真ライブラリーで自由利用を明示。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
2007年11月7日、ユニクロはロンドンの商業の中心、オックスフォードストリートへ2店舗を同時に開いた。大きい方の311番地の旗艦店は700坪。入口の幅は22.5メートルあり、2階まで届く円筒の中でマネキンが回った。壁では映像が流れる。小さな店を増やすのとは違う、街でまず見つけてもらう入口だった。[30]
カシミヤの色をそろえ、ヒートテックは12.99ポンド(約2,740円)で売る。何を選べる店なのか、その場で見せる。閉じた16店の数をそのまま埋め戻すのではなく、ブランドの姿を覚えてもらう店へ変えた。[30]
海外が初めて黒字になる
2008年、柳井は決算説明で、海外ユニクロ事業が初めて営業黒字になったと報告した。ソーホー店もほぼ黒字化へ進んでいた。英国だけの利益ではなく、海外を合わせた結果だった。[31]
次はパリのオペラ地区に大きな店を置き、アジアでも店舗を増やす。閉店を処理する段階から、都市の顔になる店と、広がる地域の店を組み合わせる段階へ進もうとしていた。英国で1度つまずいた後も、同じ店を出し直す仕事には戻らなかった。[31]
18暖かい肌着を着てもらえない
服になる前から東レと組む
海外の売場へ運ぶ服の中には、素材から変えたものもあった。繊維メーカー東レとは、完成した生地を買う関係から、商品を一緒につくる関係へ進んでいた。2000年には両社トップを含む打ち合わせが行われ、東レ側にはユニクロ専任の部署が置かれた。[32]
2003年に販売を始めたヒートテックは、その協働を象徴する商品になった。薄くても暖かい肌着にする。だが、機能だけあれば十分ではない。直接肌へ触れるため、柔らかさや伸び方も整えなければ、着続けてもらえない。素材を組み合わせ、客の声を次の改良へ戻した。[33][34]
2006年には長期の戦略的な協力関係を結ぶ。素材側が開発へ投じるためには、何枚売れるかの見通しも要る。大量に届けるユニクロの力が、服になる前の技術へ金と人を向ける理由になった。協働は後に、汗や暑さの不快感を減らすAIRismなどにも広がっていく。[35][36]
米国の売場では肌着に見えた
ところが、日本で好評でも、海外の商品担当者の発注は慎重だった。暖かい肌着は年配者やアウトドア向けの品で、おしゃれに着る服とは思われにくい。ニューヨークでも販売を控えめに考え、数量を抑えていた。世界向けの宣伝に関わった益田尚は、その反応を振り返っている。[37]
薄いから重ね着しても着ぶくれしにくい。型も色も増やし、冬の着方の中へ入れて見せる。開発した機能を説明するだけでなく、それを着た自分がどう見えるかまで、客にわかってもらう必要があった。[37]
19自販機の中でダンサーが踊る
街頭へ出したヒートテック
2008年11月、ニューヨーク、ロンドン、パリ、北京、ソウルで、変わったキャンペーンを始めた。巨大な自動販売機を置き、ボタンを押すと中のダンサーが踊って、ヒートテックの上下セットを渡す。各都市4000セットを配る計画だった。[38]
周囲では銀色の全身スーツを着たスタッフが、通行人の冷えをサーモグラフィーで見せる。防寒肌着を店の奥に置いて待つ代わりに、まだ知らない人の歩く場所へ、目を止める仕掛けごと持ち出した。[38]
自転車便の人も来た
ニューヨークで担当者が見たのは、早い時間から集まる人々だった。事前の投票で寒い仕事の1位になった自転車便の人も来た。用意した4000箱は短時間でなくなった。売場で控えめに見られていた商品へ、街で働く人が手を伸ばした。[37]
機能性素材、重ね着、街頭の自販機。それぞれ違う仕事をしていた人々が、1枚を着てもらうところへ合流した。柳井の会社は、よい服をつくるだけでなく、まだ必要だと思われていない服の理由まで、売場の外へ伝えようとしていた。
20990円と世界的デザイナー
GUで別の買い方をつくる

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2006年に最初の店を出したGUは、ユニクロより低い価格と、流行へ近い商品を打ち出した。[39]
2009年3月には990円のジーンズを発売した。1000円を切る値札が、まず試してもらう理由になった。[39]
だが、安い同じような服を並べるだけでは、ユニクロとの違いは小さい。GUは女性向けの流行商品へ力を入れ、2012年には、ゆるいシルエットのパンツや長いワンピースが売れた。店の看板ごとに、客が買いに来る理由を分けていった。[40]
2010年の心斎橋、2011年の池袋、2012年の銀座と、都心にも旗艦店を出した。低い価格で服を売る名前を、ファッションの店が集まる場所で見せる。2012年には売上500億円を超えた。経営を担った柚木治や商品をつくる組織が、ユニクロの隣で別の事業を育てていた。[41]
ジル・サンダー本人と組む
一方、2009年のユニクロは、デザイナーのジル・サンダーと組んで+Jを発表した。高級な服づくりで知られる本人の感性を、ユニクロの生産と販売の力へつなぐ。既存のJil Sander社を買ったのではなく、デザイナー本人との協働だった。[42]
パリのオペラ店を含む都市の店やオンラインへ、同じ企画を出していく。安い服を売るだけの店から、形や仕立てを選ぶ客も来る店へ。GUでは価格と流行の近さを強め、ユニクロでは別のデザインを加える。柳井は1つの価格帯だけへ会社を閉じ込めなかった。[42][43]
21何の広告かわからないジーンズ
UJのメッセージが届かない
2010年、ユニクロのジーンズを押し出すUJという企画が、決算説明会で問われた。柳井は、宣伝の狙いが曖昧で、ユニクロがそのジーンズを薦めているというメッセージを十分に届けられなかったと説明した。[44]
多くの人に見せても、何を買ってほしいかが伝わらない。ヒートテックでは街の中へ商品を出して着る理由を示したが、ジーンズでは、その結びつきがうまくできなかった。服と広告を同じ会社が扱っていても、客の頭の中でつながるとは限らなかった。[44]
世界共通にすれば解けるのか
柳井は、世界共通の広告をやめるのではなく、内容の伝え方を課題にした。日本語を読めない街へカタカナを掲げたときも、ただ読めればよいという判断ではなかった。今度は、印象を残すだけでなく、何の商品かまで結びつけなければならない。[44][25]
売場で、素材で、広告で、違う人々が同じ1枚を扱う。柳井の仕事は、そのそれぞれへ注文を出し、最後に客へ届いたかを確かめるところまで広がっていた。
5番街へ店を広げる

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2011年、ユニクロはニューヨークの大通り、5番街に旗艦店を開いた。ソーホーでの再出発から、さらに別の客が集まる場所へ出る。米国へ初めて出したモールの3店舗はすでに閉じていたが、都市でブランドを見せる拠点は増やしていった。[21]
22J Brandで削った138億円
J Brandの持分80.1%
2012年、ファーストリテイリングは米国のJ Brandの持分80.1%を取得する契約を結んだ。シルエットや素材で知られる、高価格帯のジーンズのブランドだった。取得対価の見込みは2億9000万ドル(約457億円)、助言費用などを含めて3億ドル(約472億円)程度と発表した。[45]
自社の店で普段着を大量に売るだけでなく、高い価格でも選ばれるデニムをつくる経験を取り込む。Barneys New Yorkでは途中で降りたが、こちらは実際に経営へ入る買収だった。[45][29]
帳簿の価値も下げる
ところが2013年8月期には、売上は計画に沿っていても営業利益は届かなかった。買った商品がよく知られていることと、会社の想定する利益を上げることは、同時には進まなかった。[46]
2015年にはJ Brandで51億円の減損損失を計上した。翌2016年にはさらに138億円。買ったときに期待した稼ぐ力を、そのまま資産の価値として帳簿へ残せなくなった。[47][48]
2016年は為替差損や店舗の損失も重なり、グループの最終利益は56.3%減の480億円へ落ちた。売上は増えても、得た利益は大きく減る。伸びるGUと苦戦するJ Brandが、同じ会社の中にあった。柳井が持つブランドを増やすほど、成功したユニクロとは違う経営の結果も、会社へ返ってきた。[48]
23働き方を報じた本と争う
2億2000万円を請求する
店を広げる過程では、働く人の負担を問う取材も向けられた。国内店舗での長時間労働や、生産委託先の労働環境を批判した報道に対し、会社は2011年、文藝春秋へ出版差し止めや2億2000万円の損害賠償などを求めた。会社側は、労働時間の管理や工場の行動規範、外部監査を行っていると反論した。[49]
裁判では会社側の請求が退けられ、2014年に敗訴が確定した。批判を名誉毀損として排除しようとした訴えは通らなかった。会社は、売れた服や新しい店だけでなく、そこで働く人をどう扱うかも、外から点検される立場になっていた。[50][49]
発言を切り取られる側にもなる
一方、柳井の言葉が別の意味で流布することもあった。2013年の取材をもとに広まった、若者へ年収100万円で働けと言ったという説明を、日本ファクトチェックセンターは不正確とした。元の取材では、国際競争による賃金の二極化を述べ、国内の賃下げは考えていないとも答えていた。[51]
24値上げした服を値下げする
品質を守るために上げた価格
2014年、国内ユニクロは平均5%程度の値上げを進めた。円安や素材、人件費の上昇が背景にあった。外国でつくった服を日本の店で売ると、仕入れへ必要な円の額も動く。会社は品質を落とす代わりに、価格を変える方へ進んだ。[52]
2015年秋冬には平均10%の値上げをした。柳井は品質を守りたい一方、必要以上の値上げは避けたいと説明した。安さで知られた店であるほど、数百円の違いでも客にとっては、店を選ぶ理由に触れる。[53]
暖冬か値段かを問い直す
2016年初めの説明会では、販売が弱い理由を暖冬と価格のどちらに見るかが問われた。寒くなければ防寒着は動かない。だが、必要になった人が値札を見て買わないなら、気温だけで説明はできない。会社は、その反応を見ながら修正することになった。[54]
3月から買いやすい価格へ組み直し、夏の説明会では、秋冬の多くの商品を値上げ前へ戻す方針を示した。同時に、週末の値引きへ過度に頼らず、普段から選びやすい価格へ整える。原価に応じて上げた値札を、客の反応に応じてもう1度変えた。[55]
25批判記者が名前を変えて働く
柳井の言葉から潜入へ
労働環境を取材していた横田増生は、売場の外から質問するだけでは終わらなかった。批判者にも実際に働いてみてほしいという柳井の発言を受け、今度は自分が店のアルバイトへ応募する。妻の姓へ改姓し、3つの店舗で約1年働いた。[56]
記録は30冊のノートになった。商品を売り、店の指示に従い、ほかの従業員と同じ職場へ入る。経営者が説明する理想と、働く人が経験する仕事を、同じ場所から確かめようとした。2016年末に記事が出ると、店での在籍も終わった。[56]
売場の内側から届く声
柳井は父の店で、人が辞めた後に自分で仕事を覚えた。会社が大きくなると、すべての売場を自分で動かすことはできない。遠くの店がどう回り、誰に負担が寄っているかを、ほかの人を通して知る立場になる。
批判する記者が、その店員の中へ入っていた。外からの記事に法廷で反論した会社へ、今度は内側からの記録が返ってきた。商品を知ってもらうために広告を工夫する仕事と並んで、働く現場へどう答えるかも、会社が避けられない仕事になっていた。[56][49]
26冬の下着が5月の倉庫をふさぐ
誰も全体をつかめていない
2015年、商品の流れも行き詰まっていた。秋から売るヒートテックが5月に大量に届き、倉庫を5か月ふさいだ。服はあるが、保管の費用がかかり、必要なものを動かす仕事にも負担が増える。店へ並べる前の段階で、商品が止まっていた。[57]
後に改革を率いた神保拓也は、会社が物流を外へ任せ、自分たちで十分に実態をつかんでいなかったと説明した。各地から送る流れを変えず、物流担当だけへ処理を求めても、倉庫に入る量と時期は変わらない。服を企画する人、つくる人、売る人の仕事が、同じ建物へ積み上がっていた。[57]
発送する前から変える
2016年9月からの改革では、物流部を解体し、企画、生産、販売も入る部署をつくった。賃料の安い生産国の倉庫で商品を1度止め、売る時期に合わせて送る。日本へ届いた後に速く動かすだけでなく、そもそも早く送りすぎない流れへ直した。[58]
そして、東京湾岸の有明で、自動倉庫を物流機器メーカーのダイフクとつくる。3年必要とされた工期を1年半へ縮め、商品の入出庫、箱の大きさの調整、通い箱の折り畳み、電子タグによる検品まで自動化した。人が歩いて運んでいた仕事を、機械へ任せる範囲を広げた。[58]
売場だけを変えても届かない
2018年の発表で示した入庫の生産性は80倍、省人化率は90%だった。倉庫内の入庫工程を変え、人が手で担う仕事を大きく減らした。[58]
同年、ファーストリテイリングとダイフクは長期の協力関係を結び、この経験を世界の物流へ広げる方針を示した。店舗へ大量に送る仕事と、オンラインの客へ1人ずつ送る仕事。その両方へ応えるため、服をつくった後の仕事も組み替えた。[59]
有明プロジェクトでは、客の声を企画や生産の数量へ戻す仕事も進めた。2024年の会社説明では、年間3000万件を超える声を集めている。売れ残ってから値引く前に、何を何枚つくるかを直す。父の店で仕入れを考えた仕事は、世界中の客と工場と倉庫をつなぐ仕組みへ広がっていた。[60]
27フェデラーの胸へ赤いロゴを置く
ウィンブルドンへ現れた普段着の名
2018年、ロジャー・フェデラーがユニクロの服でウィンブルドンへ現れた。英国の伝統あるテニス大会に、世界を代表する選手が、日本の普段着の店のロゴをつけて立った。素材の機能を宣伝するのとは違う形で、服を着る姿が世界へ届いた。[61]
契約の発表で柳井は、関係はコートの中だけに限らないと述べた。実際の服づくりには、クリストフ・ルメール率いるパリの開発拠点が関わり、選手の好む襟の形も採り入れた。大きな契約を結んだ後にも、着る人の好みを商品へ戻す仕事があった。[61]
引退後も関係を続ける
2022年、フェデラーが現役を退くと、株主総会では今後の関係を問われた。柳井康治は、多くの人にユニクロを知ってもらえたことや、これからの社会貢献活動について説明した。試合へ出る期間だけを買った関係ではなかった。[62]
東レとは素材をつくり、佐藤可士和とは店の見え方を変え、選手とは服の姿を世界へ見せる。柳井は、自分だけではできない仕事を、異なる分野の相手と組んで増やしていた。
285兆円を目指した年に店が止まる
世界中で同時に起きた危機
2009年、柳井は2020年の売上5兆円という目標を示していた。海外ユニクロ3兆円、国内ユニクロ1兆円など、世界で大きく売る会社の形を数字にした。[63]
その2020年、新型コロナウイルスの感染が広がった。国が違えば別の客が買うはずだった店舗が、各地で同時に閉まり、人が外へ出なくなった。服をつくり、運び、店で選んでもらう仕事の全体へ影響が出た。[64]
2020年8月期の売上収益は2兆88億円。前年より12.3%減り、営業利益は42%減の1493億円になった。10年前に描いた5兆円へは届かず、目標の年の現場では、拡大よりまず、店と働く人をどう維持するかが迫っていた。[63][64]
店の外の入口は残る
オンラインでは、国内ユニクロの売上が約3割、GUは約6割増えた。実店舗へ来ない客にも服を届ける仕組みが、売る場所として働いた。会社が整えていた通販と倉庫は、営業を止めた店の外にも入口を残した。[65]
同年3月には、医療用マスク1000万枚を寄贈する支援を発表した。服をつくって運ぶための調達と物流のつながりを、医療現場へ必要な物を送る方へ使った。商品を売る網は、店が止まる中でも別の役割を担った。[66]
29自分の財布から10億円を送る
社員も家族を失った震災
柳井は2011年3月11日、東京の仕事場で東日本大震災を経験した。東北出身の社員の中には家族を亡くした人もいた。翌年のCNNの取材で、その衝撃を話している。[67]
個人で寄付したのは10億円。3月23日に送金した。会社の寄付や顧客から集まった金とは別に、自分の資金を出した。会社も衣料を被災地へ送り、資金の支援を行った。何枚売るかを考えていた会社に、今は何を届けるべきかという仕事が加わった。[68]
研究へ渡す100億円
2020年には、京都大学などの研究へ総額100億円を寄付する合意を発表した。同じ宇部高校を卒業した本庶佑からの依頼も、きっかけだった。がん免疫研究に50億円、山中伸弥らが進めるiPS細胞のプロジェクトに45億円、新型コロナウイルス研究に5億円を充てる。[69][70]
服の売上と違い、翌月の成果を確かめられる仕事ではない。研究者が研究を続け、その次の人も育つための資金を渡した。大学とiPS細胞研究財団との寄付合意は、1つの商品を完成させて納めてもらう契約とは違う、長い仕事を支えるものだった。[69]
留学と日本を研究する時間へ
2015年には柳井正財団を設立し、海外大学で学ぶための奨学金事業へ関わった。若い頃、英語の学校を続けられず帰郷した本人は、今度は外へ学びに行く若者を、資金の面から支える側にいた。[71][2]
2024年には、米国西部・カリフォルニア州のUniversity of California, Los Angeles、UCLAへ3100万ドル(約48億円)の寄付を約束した。日本の文学、芸術、歴史などの人文学を支えるためだった。2014年の250万ドル(約3億円)から始まった取り組みを広げ、早稲田大学との連携なども進める。世界へ服を届ける以外にも、日本を知るための資料と研究を外へ開く仕事へ、自分の金を使った。[72]
30店で回収した服の次の行き先
難民に服と仕事を届ける
ユニクロは、客が着なくなった服を店で回収し、国連難民高等弁務官事務所UNHCRなどとともに届けてきた。必要な種類や現地の気候を確かめ、仕分けて送る。商品を売る店と物流の網を、着る服を必要とする人へも使う仕事だった。[73]
2011年の東アフリカの干ばつでは、会社から100万ドル(約1億円)、柳井個人からも100万ドル(約1億円)を出した。2015年には、会社とUNHCRが、3年間で総額1000万ドル(約15億円)の資金支援などを含む合意を結んだ。個人の寄付と会社の約束は別だが、両方で関係を続けた。[74][75]
店へ働きに来る人もいる
服を送る以外に、店舗での雇用や職業訓練も進めた。2018年のUNHCRの記録では、世界のユニクロ店舗で65人の難民が働いていた。受け取る側だった人が、店で働いて収入を得る側へ進む道もつくろうとしていた。[76]
2017年には、バングラデシュへ避難したロヒンギャ難民の支援へ、柳井個人で100万ドル(約1億円)を寄付した。会社の店舗を増やす仕事と、いま店舗の客になれる余裕のない人を支える仕事は、彼の中で並んで続いていた。[77]
31バングラデシュで売る服の値段
寄付ではない店を始める
2010年、グラミン銀行グループとソーシャルビジネスの合弁事業で合意した。貧しい人にも買える服を現地でつくり、それを売る仕事も生む。資本金は10万ドル(約1576万円)で、ユニクロ側の子会社が99%、Grameen Healthcare Trustが1%を出す計画だった。柳井自身も取締役に入る計画で、自分たちが経営へ関わる形を選んだ。[78]
訪問販売を経て、2013年7月、南アジア・バングラデシュの人口が密集する首都ダッカへ、初めて2店舗を出した。広さは28坪と23坪。材料も生産も現地で手配した独自の服を、190〜1190タカ(約241円〜1,510円)で売る計画だった。日本の大型店をそのまま移すのでなく、現地で買える価格と店の大きさへ合わせた。[79]
10店舗を閉じる結末
得た利益は、そのソーシャルビジネスへ戻す仕組みだった。現地でつくり、売り、収入を得る循環を、事業として続ける狙いがあった。[79]
だが2023年、会社はグラミンユニクロの全10店舗を6月18日までに閉じると発表した。経済発展や事業環境の変化を受け、当初目指した役割を一定程度終えたというのが会社の説明だった。[80]
バングラデシュで世界向けの服を生産する仕事は続けた。同じ国であっても、そこで服をつくる事業と、現地の人へ売る事業は別の結末になった。社会を変えるために開いた店にも、閉店を決める日が来た。[80]
32国が変わると服の意味も変わる
ロシア事業を止める
2022年、ロシアによるウクライナ侵攻の後、会社はロシア事業の扱いを問われた。衣服は生活必需品だから届けるという考えと、侵攻が続く国で営業することへの批判がぶつかった。3月10日、会社は事業の一時停止を発表した。[81]
国境を越えて同じ服を売れることは、会社を大きくする力だった。しかし戦争や制裁が起きれば、その土地で売ること自体が、企業の立場として問われる。日常着であることだけでは、営業を続ける判断を説明しきれなくなった。[81]
原料まで問いが戻ってくる
生産委託先の労働環境や、新疆ウイグル自治区の綿花についても、柳井と会社へ質問が向けられた。会社は、人権侵害を容認しない姿勢と、生産現場の確認を進めていると説明した。[82]
生地をつくる会社と組み、生産を管理し、世界へ運び、店で売る。その各段階がブランドの力になる一方、そのどこで起きた問題にも、店の名が結びつく。客に見える値札の後ろで、何が起きているかも答える立場になっていた。
33新人店長の月給を10万円上げる
2023年に変えた報酬
2023年1月、会社は国内の報酬改定を発表した。新入社員の月給は25万5000円から30万円へ、新人店長は29万円から39万円へ。役職手当を取りやめ、基本給と業績に応じた賞与などへ組み直した。職種や能力段階ごとの表を、数%から40%程度まで引き上げる内容だった。[83]
初めて入る人にもわかる月給の額で、日本の報酬を変える判断が示された。客が国を越えて商品を比べるように、働く人も企業や国を比べる。世界で人を集める会社に、国内だけの賃金感覚では足りなくなっていた。[83]
販売に詳しくなる道を残す
2025年にも報酬制度を変更した。販売員が店長と同水準の処遇を目指す道を整え、地域に応じて入職時の時給も上げる。販売職として専門性を高める制度は、2024年9月に始まっていた。必ず管理職にならなくても、売場の仕事で進む道をつくろうとした。[84]
父の店へ入った頃には、人が辞めた後の仕事を自分で埋めた。世界の店を抱える会社では、働く人が残り、力を伸ばせる条件を制度でつくらなければならない。労働の批判に向き合ってきた会社にとっても、給料と働き方は、商品とは別に更新し続ける仕事だった。
34宇部の店の先に世界があった
国内を追い越した海外

写真:Fast Retailing提供(撮影者個人名未掲載)/出典/公式写真ライブラリーで自由利用を明示。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
2026年8月期、ファーストリテイリングの連結売上収益は3兆9633億円に達した。国内ユニクロが1兆848億円なのに対し、海外ユニクロは2兆4111億円。初めて出した英国で大量閉店した経験は、海外展開の結末にはならなかった。[85]
同年の柳井のメッセージは、80億人の市場へ向かうというものだった。宇部の紳士服店に戻った若者が、世界で最も支持される服のブランドを目指す側へ来た。商品が行く場所も、誰と仕事をするかも、家業の頃とは比べられないほど広がっていた。[86]
まだ任せる仕事が残る
会社の取締役には、柳井の2人の息子、一海と康治も入っている。ただ、2人の取締役就任が、次の社長を確定したわけではない。柳井には、2002年に社長を任せ、2005年に戻った経歴がある。自分が決める仕事を、いつ、誰へ、どこまで渡すかは、売上とは別に続く課題だった。[87][19]
初めての会社勤めを続けられず、帰った店では従業員に去られた。柳井は、そこから商売を覚えた。その後も、英国で店を閉じ、食品をやめ、買収から降り、買ったブランドの価値を下げた。世界へ出る道は、昨日の判断を守り通すだけでは進めなかった。[1][2][13][29][48]
売れる服をつくる。客へ届く場所をつくる。それを動かす人と、運ぶ仕組みを変える。残っていた仕事を自分で始めた洋服店の息子は、いまは、自分1人ではできない仕事を世界につなぎ、その続け方を問われている。
参考文献・出典 87件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- 柳井正本人インタビュー:小嶋千鶴子との関わり ↩ 本文
- 柳井正本人インタビュー:退職・英語学校・帰郷 ↩ 本文
- 小川孔輔:当世ブランド物語ユニクロ前編 ↩ 本文
- Forbes: Tadashi Yanai & family ↩ 本文
- ファーストリテイリング沿革1949–2003 ↩ 本文
- 柳井正「家庭と仕事」の本人インタビュー ↩ 本文
- ファーストリテイリング2005年アニュアルレポート ↩ 本文
- 新しい「服」を創造するユニクロのブランド・イメージの変化とそのアイデンティティのマネジメントの考察 ↩ 本文
- RIETI 2001年6月8日BBL 柳井正講演/月泉博コメント:ユニクロ絶好調の秘密と日本の繊維産業 ↩ 本文
- 法政大学『経営志林』56巻1号 新・商業社会論(5)流通産業革命2.0(続) ↩ 本文
- ポーター賞2009年度 株式会社ファーストリテイリング ユニクロ事業 ↩ 本文
- 新潮社『一勝九敗』:波2003年12月号本人インタビュー ↩ 本文
- 2004年中間報告:英国事業の再構築 ↩ 本文
- Japan Policy Forum: Global Management Is Management by Everybody ↩ 本文
- ファーストリテイリング2004年沿革 ↩ 本文
- FAST RETAILING Annual Report2002 ↩ 本文
- 2003年9月17日:内モンゴル産100%カシミヤ発売 ↩ 本文
- 2004年8月期第1四半期:ニット販売と単体利益 ↩ 本文
- 2025年定時株主総会招集通知:柳井正略歴 ↩ 本文
- TIME: Tadashi Yanai wants Uniqlo to become the world's largest clothing retailer ↩ 本文
- UNIQLO LifeWear Magazine: The History of UNIQLO in the US ↩ 本文
- 潘寧口述:優衣庫は中国でいかに成長したか 中国企業家/i黒馬 ↩ 本文
- 第一財経周刊:潘寧と優衣庫 日本ブランドの中国的展開 ↩ 本文
- 佐藤可士和:ソーホー旗艦店のデザイン・2006年当時の本人寄稿 ↩ 本文
- 京都大学・山内裕による佐藤可士和対談:カタカナ案の採用 ↩ 本文
- 佐藤可士和・小林均夫の当事者取材:UT STORE HARAJUKUの舞台裏 ↩ 本文
- 2007年4月28日UT STORE HARAJUKU開店発表 ↩ 本文
- バーニーズ買収提案価格の引き上げ ↩ 本文
- Withdrawal of proposal to acquire Barneys New York ↩ 本文
- 2007年11月7日オックスフォードストリート2店開業 ↩ 本文
- 柳井正2008年決算説明:海外初黒字と旗艦店戦略 ↩ 本文
- 東レ採用プロジェクト:ユニクロとの協働 ↩ 本文
- 東レ2000年代沿革 ↩ 本文
- 東レ90年史:ユニクロとの共同開発 ↩ 本文
- 東レ・ユニクロの戦略的パートナーシップ ↩ 本文
- 東レのユニクロとの取り組み ↩ 本文
- 益田尚・山本慶子当事者取材:ヒートテック世界展開 ↩ 本文
- 2008年ヒートテック世界5都市キャンペーン発表 ↩ 本文
- 2012年GU事業説明会:GU沿革 ↩ 本文
- 2012年アニュアルレポート:GU事業 ↩ 本文
- 2013年GU事業説明会 ↩ 本文
- ユニクロとジル・サンダー:+J発表 ↩ 本文
- ファーストリテイリング2009年沿革 ↩ 本文
- 2010年決算説明会FAQ:UJ戦略の反省 ↩ 本文
- J Brand Holdings取得契約 ↩ 本文
- 2013年8月期決算:J Brandの業績 ↩ 本文
- 2015年決算:J Brand減損51億円 ↩ 本文
- 2016年決算:J Brand減損138億円と通期損益 ↩ 本文
- 東洋経済:ユニクロ対文藝春秋・控訴審判断 ↩ 本文
- ユニクロ対文藝春秋:最高裁で敗訴確定 ↩ 本文
- 日本ファクトチェックセンター:柳井氏の年収100万円発言 ↩ 本文
- 2014年7月決算説明会FAQ:平均5%値上げ ↩ 本文
- 2015年10月決算説明会FAQ:品質と値上げ ↩ 本文
- 2016年1月決算説明会FAQ:暖冬と価格 ↩ 本文
- 2016年7月決算説明会FAQ:価格体系見直し ↩ 本文
- 横田増生インタビュー:潜入取材の経緯 ↩ 本文
- 神保拓也当事者取材:物流混乱とヒートテックの早期入庫 ↩ 本文
- 神保拓也2018年物流改革説明資料 ↩ 本文
- ダイフクとの物流改革パートナーシップ ↩ 本文
- 有明プロジェクトとサステナビリティ ↩ 本文
- ロジャー・フェデラーとのグローバルブランドアンバサダー契約 ↩ 本文
- 2022年株主総会:フェデラー引退後の関係 ↩ 本文
- 2009年柳井正事業説明会:2020年5兆円構想 ↩ 本文
- 2020年8月期決算 ↩ 本文
- 2020年アニュアルレポート:EC事業 ↩ 本文
- 2020年ニュース:医療用マスク支援 ↩ 本文
- CNN Talk Asia: Tadashi Yanai, 2012-03-02 transcript ↩ 本文
- 東日本大震災支援の実績報告 ↩ 本文
- 京都大学:2020年柳井氏研究寄付記者会見 ↩ 本文
- テレビ朝日:柳井氏100億円研究寄付 ↩ 本文
- 柳井正財団について ↩ 本文
- UCLA:柳井氏3100万ドルの寄付約束 ↩ 本文
- UNHCR:ユニクロ支援担当者インタビュー ↩ 本文
- UNHCR:ファーストリテイリングの難民支援 ↩ 本文
- UNHCR:3年1000万ドル支援合意 ↩ 本文
- UNHCR:柳井氏グランディ高等弁務官会談 ↩ 本文
- UNHCR:ロヒンギャ難民へ柳井氏100万ドル寄付 ↩ 本文
- グラミン銀行グループとの合弁事業設立合意 ↩ 本文
- グラミンユニクロ:ダッカ初2店舗と現地商品・価格 ↩ 本文
- グラミンユニクロ全10店舗閉店・事業終了発表 ↩ 本文
- ロシア事業の一時停止 ↩ 本文
- テレビ朝日:新疆綿と柳井氏の対応 ↩ 本文
- 2023年報酬改定:初任給・新人店長・役職手当 ↩ 本文
- 2025年日本の報酬制度強化 ↩ 本文
- 2026年8月期通期決算 ↩ 本文
- 柳井正トップメッセージ2026年5月8日 ↩ 本文
- 2023年株主総会招集通知・取締役報酬 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円、1英ポンド=211.0円、1バングラデシュタカ=1.269円、1人民元=23.68円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD / GBP / BDT / CNY
本文更新:2026-11-02


