NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

ココ・シャネル

Gabrielle Bonheur Chanel

孤児院を出た縫い子から、帽子、服、香水で女性の装いを変えたCHANEL創業者。借りた資金で自分の店を開き、70歳で再起。自由な服を生んだ仕事の裏には、支援者との対立と、戦時中の暗い行動も残る。

1883–1971年 / フランス出身 / ファッション・ラグジュアリー

物語を読む
ロサンゼルス滞在中のココ・シャネル(1931年3月18日)。
ロサンゼルス滞在中のココ・シャネル(1931年3月18日)。
写真の出典写真:Los Angeles Times/出典/CC BY 4.0。表示用にサイズ調整・切り抜き。

ラグジュアリーは貧しさの反対ではない。下品さの反対である。

Some people think luxury is the contrary of being poor. No, it is the contrary of vulgarity.

1960年8月22日付TIMEの本人取材記事に記録された発言。 原文 · 日本語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

個人資産

—

現在の推計対象外

生前の資産・持分

  • シャネル香水事業

CHANEL

創業者・デザイナー

服、バッグ、香水、化粧品、時計・宝飾品を展開する高級ブランド。

年間売上

192億ドル

約3兆367億円

出典・詳しい補足

個人資産と会社売上は別の指標。現在の事業規模には、創業後の経営陣や社員による成長を含む。

会社売上は1971年の創業者の死後、後継経営で成長した現在の規模。ヴェルテメール家の個人資産をシャネル本人の資産として表示しない。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円、1ユーロ=175.9円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 フランは法定単位換算(6.55957新フラン=1ユーロ、100旧フラン=1新フラン)を経た名目額です。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • CHANEL — 年間売上 / 2025年12月期・通期売上高 / 会社公表(決算表)

主な保有資産・持分の出典

掲載する割合は、会社の株式に対する各開示基準での保有比率です。本人の資産全体に占める割合ではなく、議決権比率とも異なります。家族・信託・報酬株・オプションなどの算入範囲は各出典に記載しています。生前の持分は当時の時点を示し、現在の遺族・財団の財産とは区別します。

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +59 / 100

1883年のフランスに生まれ、幼少期から青年期には衣服を作る技能や都市の商業へつながる道があった。一方、医療と衛生は現在より大幅に限られ、女性の行動と職業上の選択にも制約が強い。同じ国の恵まれた家庭だけと比べず、社会基盤と権利を共通尺度へ置いて評価した。

成人後は国際的な顧客、観光地、パリの服飾産業へ接近できたが、二度の世界大戦と占領を経験する。戦争で商機が生まれた事実を、社会全体が安全だったことへ読み替えない。後半の都市・市場の発展は20%に含め、本人の政治的な行動の善悪を点数として加減していない。

詳しい評価方法はこちら →
親・環境ガチャなぜこの点数? +37 / 100

母を失い父が去った後、親から安定した経済支援を受ける道は断たれた。孤児院と学校による住まい・裁縫の機会はあったが、豊かな家庭のように希望する進路へ広く投資してもらえる状況ではない。幼少期の喪失と生活の制約を厳しく置き、同時代の世界80%と共通尺度20%で評価した。

若い時期の終わりから、裕福なバルザンやカペルとの近しい関係が、住まい、資金、顧客との接点を変えた。とくに独立期の融資と社交界への入口は大きい。成人後の支援も公平に20%へ入れるが、後に得た支援で幼少期の孤児としての制約を消さない。

ヴェルテメール家との香水会社の資本契約を、そのまま愛情や無償の家族援助に置き換えない。本人が稼いだ収益、返済した資金、後のブランド価値も出生時の資産とは分けている。

詳しい評価方法はこちら →

THE STORY

ココ・シャネルの物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01名前より先に針を持った

百貨店より遠かった世界

ロワール地方のソミュールに生まれる。全体図と、海・湖・主な河川・市街地を示す拡大図
ロワール地方のソミュールに生まれる。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。

1883年8月19日、フランス西部のロワール川沿いにあるソミュールで、ガブリエル・シャネルが生まれた。父は各地を回って品物を売る行商人、母は洗濯の仕事をした。裕福な家の娘が仕立て屋へ服を注文する生活は、まだ遠かった。大人たちはまず、今日の暮らしをつないでいた。[1][2]

1895年、母が亡くなった。父も子どもたちのもとを去り、ガブリエルと姉妹はフランス中南部・コレーズ県の村オーバジーヌにある修道院の孤児院へ預けられた。父が暮らしを用意して迎えに来ることはなかった。まだ子どもの彼女が身につける必要があったのは、施設を出た後に自分を養える仕事だった。[2][3]

孤児院で覚えたのが裁縫である。白いブラウスと黒いスカートを着る暮らしの中で、布の扱いを学んだ。後に彼女の服を象徴することになる黒と白は、この時には特別な趣味でも、高価な商品の配色でもなかった。同じ施設で暮らす少女たちが着る、決められた装いだった。[2]

やがてガブリエルはフランス中部・アリエ県の地方都市ムーランへ移る。貧しい少女を受け入れるNotre-Dameの寄宿学校では、家事をして学費や住まいを補った。年の近い叔母アドリエンヌもいた。2人は裁縫を学び、下着や靴下を扱う店で縫製の仕事を得た。施設の中で学んだ針仕事が、外の世界で賃金を受け取る手段になった。[2][4]

歌手になれなかったココ

昼の仕事のほかに、騎兵将校たちが集まる店の舞台にも立った。ガブリエルは歌手を目指した。この時期についていった呼び名が「ココ」だった。歌う仕事で長く身を立てる道は開けなかったが、短い名前だけは残る。失敗した舞台の名が、後に世界中の店で売られる商品の名へ変わることになる。[2]

そこで出会ったのがエティエンヌ・バルザンだった。繊維業で財を築いた一族の青年で、乗馬や競馬を楽しみ、馬を育てていた。シャネルは彼の邸宅で暮らすようになる。働いて住まいを確保していた生活から、裕福な男性の保護の下へ入った。[2]

邸宅へ出入りする人々には、女優も、社交界の女性も、上流の男性もいた。彼女が針を動かして賃金を得ていた間、こうした人々は何を着るかを選び、どこへ出かけるかを決めていた。今度はその様子を客席の外から眺めるのでなく、同じ場所で見ることができる。新しい生活は、住まいだけでなく、後に客になる人々への近さも与えた。[2]

男性の襟と小さな帽子

シャネルは、そこで見た女性と同じ装いにはならなかった。自分で作った簡素な帽子をかぶり、男性の白い襟やネクタイ、シャツの線を取り入れた。乗馬をする男性は、動くための服を着ている。同じ競馬場へ来る女性は、羽根や花、リボンを載せた大きな帽子をかぶり、長い裾を引き受けていた。[2]

飾りを減らした帽子なら、頭の上で大きな形を支えずに済む。男性の衣服から借りた線なら、体の周囲に余計な量を足さずに済む。シャネルは自分が着られる形を選んだ。それを見た周囲の女性たちが、同じものを欲しがり始めた。縫い物の技術は、今度は賃金をもらう仕事から、自分の商品を売る仕事へつながっていく。[2]

02恋人の部屋から自分の店へ

借りた部屋から始める

1909年、帽子の商売を始める足場になったのは、バルザンが使っていたパリの住まいだった。店を構える前から、自分や知人のために作った帽子が売れた。客を見つけるため、見知らぬ人へ1軒ずつ売り込むところから始める必要はなかった。身につける物へ金を使う女性たちが、すぐ近くにいた。[2]

その輪の中で、英国人のアーサー・カペルと知り合う。「ボーイ」と呼ばれたポロ選手で、シャネルの恋人になり、事業に資金も出した。バルザンの場所と交友関係から始まった商売が、カペルの金で独立した店へ進む。[2]

自分の名前を掛ける

帽子を扱うシャネルを描いたセムの風刺画(1919年)。
帽子を扱うシャネルを描いたセムの風刺画(1919年)。
写真:Georges Goursat (Sem) (1863-1934)/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

1910年、パリの服飾店が集まるカンボン通り21番地に、帽子店Chanel Modesが開いた。縫製の働き手だった女性が、他人から資金を借り、自分の名を客の見える場所へ掛けた。[5][2]

女優たちが、その名前を店の外へ運んだ。ルシエンヌ・ロジェやジャンヌ・ディリスらが帽子を着用し、1912年にはガブリエル・ドルジアが舞台『Bel Ami』でかぶった。劇場へ来た女性は、服飾店で品物を見るときとは違う形で、その帽子を見る。舞台上で動き、役を演じる女優の姿と一緒に目に入る。雑誌へ載れば、さらに遠くの客へ届く。[2][5]

03下着の生地で上流の客をつかむ

保養地に現れた身軽な服

次に店を広げたのは、フランス北西部・ノルマンディーの海辺の保養地ドーヴィルだった。帽子に加えて、体を締めつけず動ける服を扱う。1913年には、柔らかく伸縮するジャージーを使った服を打ち出した。男性の下着や運動着にも使われる生地である。それを、高級保養地で過ごす女性が外へ着ていく服にした。[5][6]

生地が体の動きについてくる。胴にはゆとりがあり、腰には柔らかなベルトを結ぶ。海軍の上着を思わせる襟も取り入れる。従来の服に装飾を追加して目新しくするより、着ている間の体の扱いを変える提案だった。歩くにも座るにも、服のために姿勢を合わせなくていい。[7]

買っていたのは、その日暮らしの働き手ではない。避暑地へ滞在し、好きな服を選べる女性たちだ。シャネルは、庶民や男性が着る服の素材を高級店へ持ち込み、仕立てと着こなしで欲しい商品に変えた。高価に見せるために生地を重くする必要はなくなった。[2]

1914年には、ドーヴィルの店へダイアン・ド・ロスチャイルド男爵夫人も来た。同行したのは女優セシル・ソレルだった。金を持つ女性と、人前で装いを見せる女性が、同じ新しい店を訪ねていた。彼女たちは帽子や服を買うだけでなく、それを着た姿を社交の場へ運べる客だった。[2]

戦争の外へ逃れた人々

1914年、第1次世界大戦が始まった。パリを離れることのできた裕福な人々が、ドーヴィルやフランス南西部・大西洋岸の保養地ビアリッツへ集まる。いつもの舞踏会のための服とは違う、移動や生活に使える服が必要になった。シャネルは、その客のいる場所で店を動かした。[5][2]

1915年にはビアリッツでクチュールの店を開く。客の体に合わせて服をつくる事業だった。公式年表は、この時点の従業員を300人と記している。自分と知人の帽子を売っていた商売が、数百人の手を動かす仕事になっていた。[5]

その拡大には、縫える人を集める仕事もついてきた。1916年4月20日の地元紙La Gazette de Biarritzには、熟練の女性縫製職人とボーイを求める求人が載っている。応募者が訪ねる時間は午後1時から2時。店が評判になったという話の裏で、工房へ来て働く人を実際に募っていた。[8]

帽子なら限られた人数で作れても、客ごとに寸法を取り、服を仕立てて渡す店には別の手数が要る。戦争で流れてきた注文を受けるには、売場の看板と同時に、布を切り縫う現場も大きくしなければならなかった。[5][2]

戦地へ向かう人、働く家族を失う人がいる一方で、保養地へ逃れ、新しい服を買える人もいる。その戦時の需要を彼女はつかんだ。売れたのは、もう少し身軽に暮らせる服だった。シャネルの事業は、戦争の最中に大きくなる。[2]

04借りた金を返しても帽子屋だった

借りた資金を返す

シャネルとボーイ・カペルを描いたセムの風刺画(1913年)。
シャネルとボーイ・カペルを描いたセムの風刺画(1913年)。
写真:Georges Goursat (Sem)/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

1916年の終わりまでに、シャネルはカペルからの融資を返済した。店が売上を上げ、その利益で、店を始めるために借りた金を返す。恋人が持たせてくれた店から、自分の稼ぎで維持できる事業へ変わった。[2]

1918年にはカンボン通り31番地の建物を購入した。服を売る店、顧客へ見せるサロン、仕立てる工房を1つの拠点へ集める。借りた住まいで帽子を売り始めてから、8年。パリに自分の仕事の場所を持つところまで来た。[5]

たかが帽子屋という壁

店が売れても、同業者から歓迎されたわけではなかった。マドレーヌ・ヴィオネらは、正式な服飾教育を受けていないシャネルを帽子屋として低く見た。伝統的な技術を積み上げてきた人々の前で、彼女は外から来た成功者だった。[2]

実際、シャネルが得意なのは、望む線を目の前の布から引き出すことだった。マネキンへ布を当て、切り、留め、違えばほどく。その意図を完成した服へ変えるのは、プルミエールと呼ばれる工房の熟練責任者たちだった。彼女は欲しい形を伝えるための専門用語さえ、うまく見つけられないことがあった。[2]

先に強く反応したのは米国だった。1916年にはHarper’s Bazaarに服が紹介され、海外の顧客へ評判が届く。パリの服飾界が仲間として迎えるのを待たずに、彼女の服は買われ、着られた。店の中では注文が増えていく。それでも、専門家たちの間には「帽子屋」という呼び方が残っていた。[2]

Harper’s Bazaarが示したのは、灰色のジャージーで作る、襟や硬い胴を設けない簡潔なドレスだった。胸元をV字に開き、低い位置へ帯を置く。服だけを見ても、それまでの重い装いから何を取り除いたかがわかる。[2]

フランスのLes Élégances parisiennesに彼女の作品が出たのは1917年だったが、そこでは名前が「Gabrielle Channel」と綴られた。作品が誌面へ入っても、名が正確に知られているわけではない。後に世界中で識別される看板も、最初から完成した権威として扱われてはいなかった。[2]

05ボーイのいないヴェネツィア

芸術家たちへつないだ友人

ルノワールが描いたミシア・セール
ルノワールが描いたミシア・セール(1906年頃)。
絵画:Pierre-Auguste Renoir/出典/パブリックドメイン。

建物を買う前年の1917年、ミシア・セールと出会っていた。彼女は、ピアニストであり、画家や音楽家を支える女性だった。芸術家たちのモデルにもなり、夫の画家ジョゼ・マリア・セールとともに、パリの創作の世界へ深く入り込んでいた。彼女との友情から、シャネルの生活には、客や商売相手とは違う人々が増えていく。[9]

その2年後、カペルが自動車事故で亡くなった。店を開く資金を出し、事業の成長をそばで支えた人物だった。借金はすでに返していたが、返済で終わる関係ではなかった。彼は遺言でシャネルへ4万ポンド(約844万円)を残した。仕事で自立した彼女の人生には、その後もカペルの支えが残る。[2]

1920年、ミシア夫妻の新婚旅行にシャネルも同行した。向かったのは、イタリア北東部の運河の街ヴェネツィアである。そこでバレエの興行を率いるセルゲイ・ディアギレフを紹介される。カペルの死の翌年、彼女の周囲に新しく広がったのは、別の恋人の社交界だけではなかった。友人が、作品をつくる人々のいる場所へ連れていった。[9]

ミシアには、すでに独自の世界があった。芸術誌La Revue blancheを率いた夫との生活を経て、画家や作曲家たちの中心にいた女性だ。シャネルはそこへ、裕福な客に服を売る商売人としてだけでなく、彼らと一緒に新しいものを作れる相手として迎えられていく。[2]

今度は自分が金を出す

この年、シャネルはディアギレフの活動へ30万フラン(約8万447円)を提供した。以前は、商売を始めるために金を借りる側にいた。今度は、自分の仕事で得た金を、他人の作品を実現するために出す側へ回る。音楽家イーゴリ・ストラヴィンスキーには、パリ郊外の家Bel Respiroを滞在先として提供した。[2][10]

服を買ってくれる客のいる社会から、舞台や音楽が生まれる場所へ。彼女は、その両方に出入りするようになった。詩人で劇作家のジャン・コクトーらとの関係も深まり、衣装の仕事へつながっていく。[2]

06番号をつけた香りを売る

N°5を選ぶ

1921年、調香師エルネスト・ボーとの協働からN°5が生まれた。1種類の花を思わせる香水とは違い、複数の香料を組み合わせる。瓶には華やかな物語のような名前を飾らず、番号を置いた。[11][7]

ボーはロシアで香水を作っていた経験を持つ調香師だった。N°5では、ジャスミンやローズなどの天然の香りへ、アルデヒドという合成の香料も組み合わせた。花を1本摘んで瓶に閉じ込めたような香りではなく、人の手で構成した香りを選ぶ。服を作る人が、専門家の技術を使って、目に見えない商品へ自分の判断を入れた。[12]

香りを包む瓶も、宝石や彫刻のような形ではなかった。輪郭をはっきりさせ、白いラベルへ商品名を置く。1924年には、丈夫さと密閉性を改善するため瓶を作り直した。見慣れた簡潔な容器は、そのまま大量の客へ渡せるよう、実用品としても手を加えられていた。[12]

衣服は、体に合わせて裁ち、縫い、試着して渡す。香水なら、同じ瓶を離れた土地の客へ届けられる。パリの工房で何着つくれるかという限界を越えて、彼女の名が広がり始める。服を注文する客とは別に、香りでCHANELを手にする客ができた。[2]

07亡命した貴族へ仕事を出す

刺繍で暮らす女性たち

この頃、交際していたロシアのドミトリー大公を通じて、革命を逃れてきた貴族たちの世界にも入った。大公の姉マリヤ・パヴロヴナは、パリで刺繍工房Kitmirを始めていた。国外へ出た貴族の女性たちには、かつての身分をそのまま生活費へ換える方法がない。針仕事が、新しい土地で暮らすための仕事になった。[13]

シャネルはその刺繍を買った。さらに、仕事を効率よく進めるために3台の機械を買い与えた。簡素な線を好むデザイナーの工房で、装飾をつくる亡命貴族の仕事が育っていた。[14][13]

高い身分に生まれたことは、パリで注文を取る仕組みまでは与えてくれない。マリヤたちには技術を使って稼ぐ仕事が必要で、シャネルには希望する装飾を安定して仕上げる工房が必要だった。かつて孤児院で針仕事を習った女性が、革命で生活の土台を失った貴族の女性へ、働くための設備を渡した。[14][13]

1922年の服では、赤や緑の植物模様が表面へ広がり、そろいのスカーフへ続く。シャネルの簡素さは、装飾を消す1本の方針ではなかった。全体の形を決めた上で、別の手が作る模様をどこまで使うか選んでいた。[13]

08自分の名前の会社を他人と分ける

10%の自分と70%の相手

1924年、香水と化粧品を大規模に製造販売する会社Parfums Chanelが設立された。シャネルが持つのは10%。ピエール・ヴェルテメール側が70%、百貨店Galeries Lafayetteのテオフィル・バデールが20%を持った。[2][11]

彼女には名前と商品があった。ヴェルテメール側には、化粧品をつくり、売り、世界へ届ける事業の経験があった。その相手と組み、香水は衣服の工房と別に伸びられるようになる。瓶に載るのは自分の名でも、その会社の大部分を所有するのは自分ではなかった。[2]

パリのサロンなら、服を見せ、寸法を取り、できた品を客へ渡せる。香水の工場と流通では、同じ品質を繰り返し作り、瓶へ詰め、遠くの販売先まで届ける必要がある。彼女の個人客だけに頼る規模から出るには、客の目に見えない仕事へも投資しなければならなかった。[2]

N°5が広がるほど、この10%と70%は、ただの契約上の数字ではなくなっていく。彼女の名前で売れる香水から、誰がいくらを得るのか。後に何年も続く争いの形は、拡大のために結んだ契約の中に、すでにできていた。[2]

09舞台と街へ出ていく服

泳ぐ人たちがバレエになる

1922年、コクトーは舞台『Antigone』の衣装をシャネルへ、舞台美術をピカソへ頼んだ。服の批評家に新参者として扱われていた女性が、別の分野で評価を持つ作り手と同じ作品を作る。衣装は好評を得て、服飾雑誌でも取り上げられた。芸術家たちとの仕事が、彼女の服を見る目も変えていった。[2][10]

1924年のバレエ『Le Train bleu』では、保養地へ向かう列車の名を題へ掲げ、水着やテニス、ゴルフの装いを踊り手へ渡した。コクトーが台本、ダリウス・ミヨーが音楽、ブロニスラヴァ・ニジンスカが振り付けを担い、ピカソの図案による幕も使われた。海辺で買われた生活の服が、今度は踊り手の動きを受け止め、客席へ見せる衣装になった。[2][15]

黒いドレスがFordになる

1926年、米国版Vogueは、シャネルの黒いドレスをFordになぞらえた。自動車を一部の富裕層だけのものではなくした、その名前である。黒は、喪の服にも働く人の服にもすでに使われていた。彼女が出したのは、飾り方によって昼にも夜にも使える簡潔なドレスだった。[2][7]

服の形を複雑にしなくても、首元や腕へ何を合わせるかで印象を変えられる。何もかも新しく買いそろえず、同じ黒い服を別の場へ着ていける。その考え方は、パリで注文服を買う客の外へも広がっていった。似た線のドレスなら、別の店、別の価格でつくることもできる。[2]

シャネルの商売は高級服だったが、彼女の形を取り入れるのに、全員が彼女へ注文する必要はなかった。帽子の客の輪から始まった影響が、今度は、彼女が一生会うことのない女性たちの服へ入っていく。[2]

公爵の上着の先にいた織物屋

英国の上流社会との交際からは、ツイードが服へ入ってきた。屋外で過ごす人々の丈夫な織物を、女性の街着へ仕立て直す。ウェストミンスター公爵との関係は英国で暮らす機会を増やしたが、求める布を継続してつくるには、織物の専門家が必要だった。[6][16]

エドワード・モリヌーの紹介で知り合ったウィリアム・リントンは、イングランド北部・スコットランドとの境に近いカーライルの織物業者だった。[17]

1927年には、ロンドン中心部の高級住宅や店が並ぶメイフェアへ、サロンと工房を開いた。モデルと縫製の働き手には英国人を選び、上級スタッフはパリから送る。競馬やボートレース、社交の季節に合わせ、英国の客が着る服を用意した。[16]

1928年までにはLintonの生地がコレクションへ入る。色や手触り、織りの表情を選び、その取引は手紙の往復とともに続いた。[17]

10飾りを作り方から変える

花をなくした人ではなかった

1926年、シャネルは造花を作る方法について特許を出願した。ドイツ特許商標庁が紹介するフランス特許FR619721Aに、その仕事が残る。簡潔な服を出す女性は、装飾をすべて不要だとしたわけではない。花をどこへ置くかだけでなく、どう作るかにも関わっていた。[3]

その年頃の夜会服には、生地と同じ素材で作る花やリボンが残っている。光沢のあるサテンを使い、布を斜めに交差させ、体へ沿う線を出す。後の1930年頃には、透けるレースとサテンを交互に使った夜の服も作った。下着に近かった素材を外へ出す仕事は、ジャージーの昼の服だけで終わらなかった。[18][19]

羽根や飾りが重なる帽子を脱いだからといって、夜のドレスにまで同じ無装飾を求めるわけではない。昼には歩ける服を、夜には光と体の線を生かす服を作る。服を着る場所が変われば、残すものも変えた。[18][19]

11人を迎える家を持つ

寝室のない自分の部屋

パリのカンボン通り31番地には、客を迎えるシャネルの部屋があった。中国の屏風、革装丁の本、鏡、シャンデリア、動物をかたどった小物。簡潔な服を売る女性の部屋には、好きな品物が集まっていた。そこへ人を招き、仕事の合間にも過ごした。[20]

ただし、寝室はない。眠るためには、近くのRitzへ戻る。翌朝には、またカンボン通りへ来る。店と工房、サロンと自分の部屋。その全部が同じ建物にあり、夜を過ごす場所だけが別だった。[21]

鏡張りの階段からは、コレクションのモデルと客の反応を確かめられた。自分が客の正面へ出なくても、鏡越しに動きが見える。服を見せる建物には、服をつくった本人が見るための場所まで組み込まれていた。[21]

客として行く邸宅から自分の邸宅へ

1928年には、フランス南東部の地中海沿いにあるロクブリュヌ・カップ・マルタンで土地を買い、La Pausaという家をつくった。バルザンの邸宅へ住み、自分とは違う暮らしを見るところから始まった人生だった。今度は、自分が招く側になる。[22]

ウェストミンスター公爵、コクトー、詩人ピエール・ルヴェルディらが訪れ、後の1938年にはサルバドール・ダリも滞在して制作した。店で稼いだ金は、工房を増やすだけでなく、人が集まり、作品をつくれる家にもなった。[22]

この頃の彼女の周囲には、かつて裕福だったが、働かなければ暮らせない人もいた。シチリア出身のフルコ・ディ・ヴェルデュラは、公爵の身分を持ちながら、シャネルのもとで布の図案を描き、後に宝飾を手がけた。1929年、パレルモの屋敷で大規模な仮装舞踏会を開き、残った遺産を費やした人物でもある。シャネルやコール・ポーターも招かれたその催しは、彼の名を広めた。[23]

ヴェルデュラがつくる幅広の腕輪には、十字と大きな色石が置かれた。古いビザンティン美術、ラヴェンナの皇后テオドラのモザイクなどから、鮮やかな色を引き出したものだ。シャネルの簡素な黒い服に、その腕輪が重なる。本人の名前で記憶される装いは、別の人生と技術を持つ作り手によって、次の姿になっていた。[23][24]

12ハリウッドの100万ドル(約1億円)

画面に映る服は同じではない

ロサンゼルス訪問中のシャネル。1931年3月18日。
ロサンゼルス訪問中のシャネル。1931年3月18日。
写真:Los Angeles Times/出典/CC BY 4.0。表示用サイズ調整。

1931年、映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンがシャネルをハリウッドへ招いた。映画は撮影から公開までに時間がかかり、衣装がすでに古く見えることがある。パリの流行を動かす本人へ頼めば、その問題を避けられる。提示された契約額は100万ドル(約1億円)だった。[25][26]

彼女は米国へ渡り、仕事を進めた。衣装はパリの工房でもつくられ、海を越えて送られた。グロリア・スワンソンの『Tonight or Never』、アイナ・クレアが出演した『The Greeks Had a Word for Them』。パリの店で富裕な女性へ渡す服が、スクリーンの中で女優の体に乗る。[27][26]

ところが、そこで必要とされた見せ方は、彼女の得意とする抑制と合わなかった。街で自然に着られる服は、当時のハリウッドでは控えめすぎた。パリで魅力だったものが、そのまま画面上の強さにはならない。100万ドル(約1億円)で始まった組み合わせは、長い協働にならなかった。[25]

それでも、映画の仕事から手を引いたわけではない。フランスへ戻った後も、映画の衣装や女優の装いへ関わり続けた。ハリウッドで求められた派手さと彼女の服はかみ合わなかったが、彼女の服を必要とする映画は、後に現れる。[28][29]

13偽物の真珠から本物のダイヤへ

不況の街で星を売る

装いには模造の真珠も使った。高い石だけを並べるより、服にどう合わせるかを選ぶ。その同じ女性へ、1932年、ロンドンのダイヤモンド業界が仕事を持ち込んだ。世界恐慌で需要が落ちる中、宝石を新しく欲しくさせる見せ方が必要だった。[7][30]

11月、パリの邸宅でBijoux de Diamantsを発表する。45点を超す作品の形には、星、彗星、羽根、リボンがあった。石を持っていることを見せるだけでなく、首や髪へ沿わせ、体の動きと一緒に見せる。会場では、髪や衣服を備えたマネキンに作品を着けた。[26][30]

この高級宝飾の企画は、生涯で1度だけだった。後に会社はその作品群を受け継ぎ、別の時代の宝飾へつなぐが、この時点の彼女は、服の店から来た新参者である。帽子から服へ入ったように、今度は宝石の専門家と組み、高価な石の見せ方へ手を入れた。[26][31]

布をつくる会社へも進む

同じ1932年、英国では繊維メーカーと組む会社も設けた。40社以上へ参加を呼びかけ、公開企画で130を超す組み合わせを見せる。英国の生地を使った服を、社交界の女性たちが着た。この会社は長くは続かなかった。[16]

それでも、仕入れ先との仕事は残る。ハダーズフィールドの毛織物業者とは別に会社をつくり、工場を拡張し、甥のアンドレ・パラスとその家族を現地へ送って生産を見てもらった。顔と名前を広告にするだけの商売ではなかった。客へ見える服の裏で、その布を用意する事業まで動かしていた。[16]

14コピーは歓迎しても権利は渡さない

訴えた相手は百貨店

1925年3月10日付Le Gauloisは、シャネルが百貨店La Samaritaineを模倣品で訴え、6000フラン(約1,608円)の損害賠償を得たと報じた。だが1933年には、自分の名を冠した文章で、模倣が流行を広める働きを擁護している。フランス国立図書館の新聞アーカイブを紹介するRetroNewsが、当時の記事をたどっている。[8]

彼女の服は形がはっきりしていて、似せやすかった。黒いドレスの線を取り入れれば、パリで注文する余裕がない女性も、その装いへ近づける。そこから名前と形が広がる一方、商品そのものを複製して売る相手には権利を行使した。すべての模倣へ同じ態度を取ったわけではなかった。[2][8]

帽子を女優がかぶれば次の客が来た。黒いドレスを別の店がまねれば、もっと遠くへ形が届く。広がることを商売へつなぐ力と、自分の売る物を守る必要の両方を抱える。後の正式な複製販売は、この関係を契約の中へ入れる方法にもなっていく。[2][32]

15自由を売る店で仕事が止まる

1人の名前の後ろに

1931年の事業規模を、経営史の研究は売上1億2000万フラン(約3217万8938円)、工房で働く女性2400人と記している。1935年には、衣服から繊維や装飾品へ広がった事業の従業員は4000人を超えた。歌手を諦めた女性が始めた帽子の商売は、数千人の暮らしを抱える企業になっていた。[2]

その数千人が、彼女の欲しい服をつくった。簡素に見える形も、裁ち、縫い、試着へ合わせて直す人がいて初めて仕上がる。シャネルは完成した服の印象を決める。工房の人々は、その判断を実際に着られるものへ変える。彼女の名前を世界へ届ける仕事は、彼女が直接動かす手の数を、はるかに超えていた。[2][33]

1936年、その工房で仕事が止まる。フランス全土へ広がったストライキの波が、カンボン通りにも届いた。従業員は職場を占拠し、経営側へ要求を突きつけた。服を注文する顧客へは自由を届けてきた店で、服をつくる人々が自分たちの条件を変えようとしていた。[34]

扉の向こうから要求が来る

1936年6月、従業員が求めたのは賃金だけではなかった。働く時間、休暇、集団で交渉する権利。フランスでマティニョン協定とその後の改革が進み、週40時間労働と2週間の有給休暇が現実の制度になろうとしていた。服を着る女性へ動きやすさを売る会社で、縫う女性たちも、自分の時間を取り戻そうとしていた。[4]

争いには、出来高払いをどうするかという具体的な要求もあった。RetroNewsが紹介する1936年6月15日付L’Intransigeantは、経営側がこの変更を受け入れられないとして閉鎖を決め、300人を解雇したと伝える。働き手は解雇後も建物を占拠し、代表を労働省へ送ろうとしていた。後の1939年の全面閉鎖とは別に、この時点での閉鎖と解雇が報じられていた。[8]

伝記研究を紹介したThe New York Review of Booksによると、シャネルは店へ自由に入れない状況を経験し、ロックアウトで対抗しようとした末に譲歩した。職人へ仕上がりを指示する立場にいた彼女が、今度は、職人たちから条件を示される側になった。[35]

1939年、第2次世界大戦が始まると、彼女はクチュールの事業を閉じた。香水からの収入はシャネルに残ったが、工房で服をつくる仕事は止まり、多くの人々が職を失った。[34][33][2]

16香水の争いに持ち込んだ迫害

占領下で使われた人脈

ナチス・ドイツに占領されたパリで、シャネルはドイツ側の情報活動に関わったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと関係を持った。高級店と社交界で築いた人脈は、戦時下では別の意味を持つ。英国の上流社会や政界へ接点のある女性は、敵国との接触を求める側にとっても利用価値があった。[36]

フランス国防省の文書を扱った調査報道では、ドイツ軍情報部Abwehrの記録に、彼女はF-7124、コードネームWestminsterとして現れる。服の顧客と親しくなるための社会的なつながりが、情報活動の世界へまで延びていた。[36]

1941年の要求

1941年、シャネルは反ユダヤ政策を利用して、ユダヤ系のヴェルテメール家から香水事業の支配権を取り戻そうとした。会社を設けたときの持分は、自分が10%、ヴェルテメール側が70%だった。その取り分を変える手段として、占領下の迫害制度へ手を伸ばした。[2][37]

相手を説得して株式を売ってもらうのではない。ユダヤ系所有者の財産を奪う制度へ、自分の事業上の要求を持ち込んだのである。だが、ヴェルテメール家はフランス人実業家フェリックス・アミオへ事業を託し、所有権を守っていた。彼女の企ては実らなかった。[2][37]

ドイツ側が求めたのは、シャネルが作る服ではなく、彼女が会える人物だった。ドイツ特許商標庁の歴史紹介も、1943年の失敗したModellhut作戦への関与説を取り上げる。英国の首相ウィンストン・チャーチルとの知己を使い、SS側から英国へ接触を図る計画だったとされる。[3]

戦時のシャネルには、別の方向の記録を報告する研究もある。伝記作家ジャスティン・ピカルディは、La Pausaの地下室が隠れた送信機やユダヤ系避難民のために使われ、設計者ロベール・ストレイツが抵抗活動への支援を彼女へ求めたと記している。著者は、連合国側へ情報を渡したERICという組織の文書にも、彼女の名前を見つけたという。[38]

それは、ドイツ側との関係や、迫害を事業争いに使おうとした行動を消す記録ではない。華やかな社交の輪を広げてきた女性の名が、戦時には互いに相容れない側の記録へ残る。その行動と責任をめぐる調査は、彼女の服が再び称賛された後も続いている。[36][38]

17決裂した相手から再び金を得る

N°5に別の香水をぶつける

1944年、パリ解放後のシャネルはRitzでフランス国内軍に逮捕され、短い尋問の後に解放された。戦後はスイスを拠点にし、パリや南仏などを行き来する。カンボン通りのクチュールは閉じたままだった。[34]

服をつくらなくても、N°5は売れ続けた。ただし、その名前の会社を動かすのはヴェルテメール側である。シャネルは、別の香水Mademoiselle Chanel N°1を出して対抗した。自分の名前が入った商品を、自分の名を広めた香水の競争相手にする。戦後の争いは、商品を売る場所へも持ち込まれた。[39]

同じ女性の名を持つ香水が、別々の側から売られる。彼女自身は新しい香水を大規模に流通させる仕組みを十分には持っていなかったが、N°5を買う客へ混乱を生むことはできる。ヴェルテメール側にとっても、名前の主と争ったまま売上を増やすことには危うさが残った。[39]

1947年に契約が再交渉され、彼女は世界の香水販売から収入を得る仕組みを確保した。後にクチュールへ復帰するときも、その費用を支えたのはヴェルテメールだった。戦時に持分を奪おうとした相手と、再び仕事をする。服の新作を出すための金は、その壊れた関係の先から来た。[39][2]

友人を自分の手で送る

1950年10月、ミシア・セールがパリの自宅で亡くなった。シャネルは遺体を清め、身なりを整える仕事を引き受けた。カペルの死の後にヴェネツィアへ同行し、芸術家たちへ紹介してくれた友人だった。人を迎える邸宅や舞台の華やかさを共有してきた関係が、最後には、亡くなった体を整える仕事まで続いた。[9]

その一方で、世界では香水の名声がさらに大きくなった。1952年、マリリン・モンローが、眠るときに身につけるものとしてN°5を挙げる。本人が服の工房を閉じていても、その名は消えなかった。新しい世代のスターが、小さな瓶を別の憧れに変えていた。[40]

もう1度服を出す

パリの服は変わっていた。1947年にChristian Diorが打ち出したNew Lookは、細く絞った腰と大きく広がるスカートを特徴にする。シャネルが若い頃に服から取り払おうとした硬さや量感が、戦後の新しさとして受け入れられていた。[33]

彼女には、売れ続ける香水と、暮らす場所があった。それでも、閉じた工房へ人を集め直し、生地を選び、新しい服を用意する方へ進んだ。次に客の前へ出すのは、過去の名作の展示ではない。いまの女性が買うかどうかを決める、新作のコレクションだった。[2][33]

1953年9月24日、Harper’s Bazaarを率いるカーメル・スノーから電報が来た。コレクションがいつできるかを尋ね、協力を申し出るものだった。シャネルは手紙で、この夏また働くことを思いついたと返す。誌面を持つ相手へ新しい服を見せる日を伝え、復帰が具体的な仕事の日程へ変わっていく。[38]

1870歳の新作は古いと言われた

番号5から始める

1954年2月5日、カンボン通りで復帰のコレクションが開かれた。シャネルは70歳。先頭に出したのは、番号5をつけたジャージーの組み合わせだった。若い日の商売を支えた生地と、香水で世界へ届いた数字。その2つを、新しい服の最初へ置いた。[40]

しかし、パリの反応は冷たかった。長い空白を経て戻ってきた服は、当時の流行に対して古く映った。細い腰と華やかな量感が求められる市場へ、彼女は、体を締めない服を持って戻ったのである。[33][41]

その服を欲しがる読者がいる

フランスで味方になったのが、ELLEを率いるエレーヌ・ゴードン=ラザレフだった。扱いやすく飾りすぎないスーツに、現代を生きる読者へ届ける価値を見つけた。発表会の評判が悪いから誌面から外すのではなく、その服が役に立つ女性へ見せる。編集者の選択が、シャネルの次の客へつながった。[41]

スノーも支持を続けた。Harper’s Bazaarでは、コクトーに文章と挿絵を頼んで彼女を取り上げる。昔の友人に新作を見せ、昔の友人がそれを読者へ伝える。ただ懐かしむ記事を作るだけでなく、今着る服の注文へつなげるための働きかけだった。[38]

米国でも支持が広がった。彼女は方向を変えてDiorを追うのではなく、ジャケットとスカートの形を直し、自分の服を続けた。衣服の事業を続ける資金があり、それをつくる工房がある。初回の批評だけで終わらず、次のシーズンにも服を出すことができた。[33][2]

若い頃、パリの同業者から帽子屋と呼ばれていた彼女の服を、米国の読者と客が先に受け入れた。再出発でも、評価は同じ速さでは動かなかった。パリで不評だった服が、別の場所では、着たい服として求められていく。[2][33]

19両手が空くバッグと6cmの靴

2.55という日付

1955年2月、鎖のついたキルティングのバッグ2.55が登場した。名に入るのは発売の年月だった。手で持ち続けるバッグを肩へ掛ければ、両手を別のことに使える。服のゆとりと同じように、今度は持ち物が体へかける負担を変えた。[40]

内側には物を分けて入れるポケットがあり、口紅のための場所もある。ラムスキン、ジャージー、絹サテンを使い、活動に合わせて選べる複数の大きさを用意した。外側の印象だけでなく、開けて物をしまい、必要なものを取り出す時まで商品に含めた。[42]

柔らかなキルティングの面に、重さを支える金属の線が組み合わされる。日常で使う仕組みが、そのまま外から見て識別できる形にもなった。[40][7]

1957年には、靴の専門会社Massaroとベージュと黒の靴をつくる。ヒールは6cm。足の甲へ肌に近い色を置き、つま先を黒くした。脚を長く、足先を小さく見せる配色だった。細く高いヒールの方向へ競うのでなく、高さと色の使い方を選んだ。[43]

服からバッグへ、バッグから足元へ。商品が増えるたびに、革を裁ち、形をつくり、使う人へ合わせる専門家が要る。シャネルはその人々と組んで、自分の服を着る女性に必要だと考えるものをそろえていった。[7][43]

3年後の表彰

同じ1957年、米国ダラスでNeiman Marcusの賞を受けた。復帰から3年。最初のコレクションが不評だった70歳の女性は、その服をつくり続け、海外の有力百貨店から表彰されるところへ戻った。[44][2]

20700ドル(約11万320円)のスーツを35回直す

1週間前の服がもう古い

1959年2月6日、シャネルはテレビ番組『Cinq colonnes à la une』でピエール・デュマイエの取材を受けた。服や優雅さ、模倣について話し、マリー=エレーヌ・アルノーらがコレクションを見せた。その最後、階段にいた本人は、出来て1週間の服を、もう流行遅れだと評した。[45]

70歳で戻った後も、過去の成功品だけを並べているつもりではなかった。見せたばかりの新作にも、次の手直しが待つ。変わらない形が欲しい客へ服を渡しながら、彼女自身は、目の前の形を直し続けていた。[45][46]

裾の鎖まで着心地のために

1965年頃のシャネルのツイードスーツ。2012年撮影の展示資料。
1965年頃のシャネルのツイードスーツ。2012年撮影の展示資料。
写真:Mabalu/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

復帰後のジャケットには、裾へ鎖を縫い込む工夫があった。バッグなら肩へ掛けるための鎖が、服の内側では重りになる。柔らかい生地を使いながら、裾の落ち方を落ち着かせる。外からは簡潔なスーツに見えても、その着姿を支える部品が内側に隠れていた。[33]

軽いジャケットは硬い詰め物で体を作り替えるのでなく、カーディガンのようにまっすぐ落ちる。スカートも腰を強く締めず、上部の腰骨へ載るように作る。体を立たせたまま眺めるだけでなく、実際に座り、立ち、腕を動かすときに、服がどこへ残り、どこへついてくるか。その関係を調整する仕立てだった。[42]

縁のブレードは線を示し、ポケットやボタンも装いの特徴になる。外へ見える部分と、内側に隠す裾の重り。それぞれに別の働きを持たせた。[33][42]

1965年のシャネルのスーツとシルクのブラウス。2012年撮影。
1965年のシャネルのスーツとシルクのブラウス。2012年撮影。
写真:Mabalu/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

こうした服をつくる作業は、1度形になったら終わるものではない。1960年のTIMEは、シャネルが満足するまでスーツを35回直した例を伝えている。個人客への価格は1着700ドル(約11万320円)。複製販売をする買い手には、そのほぼ倍だった。同誌は、衣服部門が香水の利益に支えられていたとも報じた。[47]

高い服を売り、何度も直し、それを続ける金は別の商品からも入ってくる。工房を止めた15年間にもN°5は売れていた。再開した服の仕事は、今度はその香水の利益を使って、納得するまで手をかけられる場所になっていた。[2][39]

コピーを着て本人の発表会へ

その服が広がる道には、正式に許可された複製もあった。ニューヨークのメーカーMatlick Zelinkaがつくった1960年のスーツは、シャネルの秋の発表会へ着ていくためのものだった。本人の服に似せたものを隠すのでなく、その服で、本人が新作を見せる場所へ出かける。[32]

似せようとした作り手が、共通の特徴を取り出せるほど、彼女の服にははっきりした輪郭があった。700ドル(約11万320円)を払ってパリで注文する人の外にも、その線や組み合わせは広がる。本人が望む形を守る仕事と、その形が他人の手へ渡ることは、同時に進んでいた。[2]

21大統領夫人が選んだ服

映画との30年越しの関係

1961年、映画『L’Année dernière à Marienbad』で、デルフィーヌ・セイリグがシャネルの服を着た。邦題は『去年マリエンバートで』。作品はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞する。1931年のハリウッドでは控えめすぎるとされた服が、30年後、別の映画の印象をつくる側へ回った。[48]

シャネルは服を供給し、映画の作り手たちは、その服を着た人物を別の映像へ置いた。スクリーンでの成功には、パリの権威を買う巨額契約だけでなく、その服を必要とする作品との出会いもあった。[48][29]

1956年の服を1963年に着る

1963年3月12日、ジャクリーン・ケネディはホワイトハウスで、黒いウールと白系のブラウスを合わせたシャネルのスーツを着た。1956年秋冬の作品だった。新作発表から何年も過ぎた服が、大統領夫人の公の装いとして使われている。[49]

シャネル自身は、見せたばかりの服まで古いと評する。だが、着る女性には、何年も使える服が届いていた。次をつくるデザイナーの時間と、その服で日々を過ごす人の時間は違う。彼女のスーツは、その両方を持つ商品になった。[45][49]

服を何年も使えるようにしても、工房では細かな手間を減らしていた。1963年頃の1着には、ブラウスを重ねなくても袖口が整って見える作りがある。翌年頃の夜の服では、上下に分かれて見える下の部分をドレスにし、ジャケットを合わせるだけで装いをまとめた。次の季節へ進む仕事は、見た目を変えるだけでなく、着る女性が何枚重ね、どこを整えるかを考え直す仕事でもあった。[50][51]

他方で、ジャン=ルイ・シェレルの1964年頃の服には、結ぶブラウスや鎖、獅子の頭のボタンまで、彼女に似た形が入った。色や生地だけではなく、衣服を組み立てる細かな特徴まで、他のデザイナーへ渡っていた。自分の工房で改良を続ける服は、その外では、取り入れたい様式になっていた。[32]

22生きているうちに舞台の主人公になる

膝を隠す側へ

1960年代後半のシャネルのスーツ。2012年撮影の展示資料。
1960年代後半のシャネルのスーツ。2012年撮影の展示資料。
写真:Mabalu/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。

若いシャネルは、女性の体を動きにくくする服へ異議を申し立てる側だった。その本人が、晩年にはミニスカートを嫌い、膝の下までの丈を守る。1960年代の若い女性たちが欲しがった新しさを、すべて受け入れたわけではなかった。[52]

彼女は、目の前の布をマネキンへ直接当て、つくって直す仕事を続けた。最初に絵を描き、その通りに完成させるより、実物を動かして形を決める。その手は新作へ向かうが、服の丈や体の見せ方には譲らない基準も残る。[46]

復帰がミュージカルになる

1969年12月18日、ニューヨークのMark Hellinger Theatreで『Coco』が開幕した。シャネルを演じたのはキャサリン・ヘプバーン。劇が取り上げたのは、1953年秋から1954年春、彼女がクチュールへ戻ろうとしていた時期だった。[53]

孤児院から上流社会へ上がった若い日の成功だけでなく、歳を重ねて仕事を再開する女性が、物語の主人公に選ばれた。パリで再び服を出すために工房を動かした日々が、今度は米国の劇場で、別の人の演技と音楽になる。[53]

本人はまだ生きていた。舞台のために衣装をつくり、芸術家を招き、仕事へ金を出してきた女性が、その最後の時期には、自分の人生そのものを舞台にされていた。劇場へ入る人は、服や香水を買う客とは限らない。名前は、商品から離れたところでも知られていった。[2][53]

23N°5の隣にもう1つの番号を置く

次の香水を頼む

N°5は、すでに世界へ売れていた。シャネルが晩年に求めたのは、それを売り続けることだけではない。別の女性用香水を出そうとした。既存の人気商品と競い合うことへの懸念がある中で、新しい調香をアンリ・ロベールへ依頼する。[54]

ボーと組んでN°5を出してから、半世紀近くが過ぎていた。技術を担う相手は変わる。それでも、自分の名で何を出すかを決める仕事からは離れなかった。服ではマネキンの上の形を直し、香水では、すでにある瓶とは違う香りを求める。[11][40][54]

最後の商品にも自分の日付

1970年に発表した香水はN°19と名づけられた。シャネルの誕生日、8月19日にちなむ番号である。青々とした印象に、アイリスの柔らかさを重ねた香りだった。N°5で知られる会社へ、その隣に置く別の番号を加えた。[55][54]

彼女が店の看板へ自分の名前を掛けてから、60年が過ぎていた。最初の帽子店には、カペルから借りた金が必要だった。最後の新作を出す頃には、その名前だけで世界へ届く会社があった。シャネルはその会社の過去を語るだけの人にはならず、新しく売る商品を決める側に居続けた。[2][5][55]

24寝室のない部屋に残った名前

87歳で終わった往復

シャネルは晩年までコレクションをつくり続け、1971年1月10日に亡くなった。87歳。Ritzで眠り、カンボン通りで服をつくる、その長い往復が終わった。[56][33]

最初に資金を出したカペルは、半世紀前に死んでいる。ミシアもいない。香水の事業を広げ、戦後の復帰を支えたピエール・ヴェルテメールも、1965年に亡くなっていた。彼女自身はその後も生き、工房で次の服を作り、N°19を出した。長く残った看板の下で、一緒に仕事をする人は入れ替わっていた。[2][39][55]

その名前の中には、服の美しさだけが残るわけではない。工房を動かした職人、最初に金を出した恋人、友人が開いた芸術の世界、対立した従業員がいた。戦時には、迫害の制度で香水会社の支配権を得ようとした。自由な装いを求める姿と、他人の権利を奪おうとする姿が、同じ人生に残った。[2][37]

別の手が同じ名前をつくる

1983年、カール・ラガーフェルドがクチュールを担うようになった。別のデザイナーが、ツイード、黒と白、鎖、キルティングを組み替える。シャネルが生きていた頃に選んだ素材や形が、彼女の知らない服になる。[33]

2025年、CHANELの年間売上は192億6900万ドル(約3兆367億円)に達した。帽子をつくった本人が亡くなって半世紀以上後の会社の数字である。香水を製造する人、布を織る人、店で売る人、次の服を決める人が、その名前のもとで仕事を続けている。[57]

カンボン通りには、自分の部屋を持ちながら、そこへ寝室をつくらなかった女性の仕事が残った。舞台で歌った「ココ」は歌手として成功しなかった。帽子へ移ったその名は、彼女自身の生涯が終わっても、他人の手でつくられ、世界へ渡っていく。[2][21][33]

参考文献・出典 57件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. CHANEL公式年表:1883年 ↩ 本文
  2. Gino Cattani・Mariachiara Colucci・Simone Ferriani, From the Margins to the Core of Haute Couture: The Entrepreneurial Journey of Coco Chanel, Enterprise & Society 24(2), 546–588(CC BY 4.0。史実の調査に参照し、日本語の構成・本文は本サイトが独自に執筆) ↩ 本文
  3. DPMA: Coco Chanel — ingenious women ↩ 本文
  4. Encyclopedia of Clothing and Fashion: Chanel, Gabrielle (Coco) ↩ 本文
  5. CHANEL公式年表:1910年代 ↩ 本文
  6. V&A, Gabrielle Chanel: dressing the modern woman ↩ 本文
  7. V&A, What makes CHANEL so iconic? ↩ 本文
  8. Emmanuelle Retaillaud, Coco Chanel : la création et ses ombres, RetroNews / BnF ↩ 本文
  9. Misia, reine de Paris — exposition et chronologie ↩ 本文
  10. CHANEL, Gabrielle Chanel: Patron ↩ 本文
  11. CHANEL公式年表:1920年代 ↩ 本文
  12. Fragrance Foundation France: Comment CHANEL N°5 est né il y a 100 ans ↩ 本文
  13. Metropolitan Museum: Ensemble, 1922, 2005.114a,b ↩ 本文
  14. Metropolitan Museum, A Mechanical Ruse, 2008-01-12 ↩ 本文
  15. V&A, Legacy of Le Train Bleu ↩ 本文
  16. Gabrielle Chanel in Britain ↩ 本文
  17. Our Story — Linton & Chanel ↩ 本文
  18. Evening dress, ca.1926, 1977.201.8a,b ↩ 本文
  19. Evening Dress, c.1930, AC4479 83-11-15 ↩ 本文
  20. British Vogue, Inside Coco Chanel’s Decadent 31 Rue Cambon Apartment ↩ 本文
  21. Susan Stamberg/NPR, 31 Rue Cambon: Coco Chanel’s Fabulous Paris Flat, 2009 ↩ 本文
  22. CHANEL, La Pausa ↩ 本文
  23. The Fulco di Verdura Story ↩ 本文
  24. Verdura loans to the Metropolitan Museum of Art’s Costume Institute ↩ 本文
  25. Vogue, Launch Party for Justine Picardie’s book Chanel, Her Life, 2011-09-23 ↩ 本文
  26. CHANEL公式年表:1930年代 ↩ 本文
  27. Sam Kashner, Coco Chanel’s Little-Known Flirtation with Golden-Age Hollywood, Vanity Fair, 2017-02-08 ↩ 本文
  28. Wallpaper, Chanel’s dazzling new haute jewellery collection zooms in on Hollywood’s golden era, 2025-09-09 ↩ 本文
  29. AP, Hollywood stars spend Oscars eve at annual Chanel dinner, 2023 ↩ 本文
  30. Country Life, Did Chanel’s spectacular diamond exhibition almost cure the Great Depression?, 2026-09-14 ↩ 本文
  31. CHANEL公式年表:1990年代 ↩ 本文
  32. Faking It: Originals, Copies, and Counterfeits — Chanel Suits ↩ 本文
  33. Jessa Krick, Gabrielle “Coco” Chanel and the House of Chanel, Metropolitan Museum of Art ↩ 本文
  34. Palais Galliera, Gabrielle Chanel Fashion Manifesto press dossier, chronology p.28 ↩ 本文
  35. Anka Muhlstein, The Cut of Coco, NYRB, 2014-10-09 ↩ 本文
  36. Mediapart, French TV “proves” Coco Chanel spied for the Nazis, 2014-12-02 ↩ 本文
  37. Le Monde, Chanel’s secretive owners, the Wertheimers, 2024-08-23 ↩ 本文
  38. Justine Picardie, Surprising findings and little-known facts about Gabrielle Coco Chanel, Harper’s Bazaar India, 2023-11-16 (UK print October 2023) ↩ 本文
  39. Philip Kraft・Christine Ledard・Philip Goutell, From Rallet Nº1 to Chanel Nº5 versus Mademoiselle Chanel Nº1, Perfumer & Flavorist, 2007-10 ↩ 本文
  40. CHANEL公式年表:1950年代 ↩ 本文
  41. Chanel Suit, fall 1959 — Paris Refashioned ↩ 本文
  42. National Gallery of Victoria / Palais Galliera: Gabrielle Chanel. Fashion Manifesto ↩ 本文
  43. La Maison — A Tradition of Excellence ↩ 本文
  44. CHANEL, 1957 fragrance: historical award note ↩ 本文
  45. 1959: Coco Chanel “Women are always overdressed” — INA Archive ↩ 本文
  46. National Gallery of Victoria, Gabrielle Chanel: Fashion Manifesto, exhibition artwork labels ↩ 本文
  47. TIME, High Priestess of High Fashion: GABRIELLE CHANEL, 1960-08-22 ↩ 本文
  48. CHANEL press office, CHANEL and Venice ↩ 本文
  49. Metropolitan Museum, Jacqueline Kennedy: The White House Years, photo gallery ↩ 本文
  50. Metropolitan Museum: Suit, ca.1963, 2009.300.971a,b ↩ 本文
  51. Metropolitan Museum: Dinner suit, ca.1964, 2009.300.970a,b ↩ 本文
  52. TIME, How Poverty Shaped Coco Chanel, 2015-08-19 ↩ 本文
  53. Broadway League/IBDB, Coco, original production ↩ 本文
  54. CHANEL, N°19 Eau de Toilette, inspiration ↩ 本文
  55. CHANEL公式年表:1970年代 ↩ 本文
  56. CHANEL公式年表:1970年代 ↩ 本文
  57. CHANEL LIMITED FINANCIAL RESULTS FOR THE YEAR ENDED 31 DECEMBER 2025, 2026-05-19 ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

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本文更新:2026-11-02

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