NOBRILO起業家たちの原点と、その物語。

ウォルト・ディズニー

Walter Elias Disney

会社の倒産、人気キャラクターの権利喪失、巨額の制作費、従業員との決裂。兄ロイと再出発した青年は、ミッキーと白雪姫を世に送り、映画の世界をディズニーランドという現実の街に変えた。最後に挑んだのは、人が暮らす未来都市だった。

1901–1966年 / アメリカ出身 / 映画・テーマパーク

物語を読む
ウォルト・ディズニー(1946年5月17日、Boy Scouts of Americaの広報写真)。
ウォルト・ディズニー(1946年5月17日、Boy Scouts of Americaの広報写真)。
写真の出典写真:Boy Scouts of America/出典/パブリックドメイン(米国・無表示公表)。表示用に縮小・カードでは切り抜き。

すべては一匹のネズミから始まったことを、忘れないでほしい。

I only hope that we never lose sight of one thing—that it was all started by a mouse.

本人を象徴する言葉。Disney公式アーカイブに掲載。 原文 · 日本語は編集部訳

資産と事業

WEALTH & BUSINESS

生前の個人資産

—

生前の資産との関係

生前の本人持分は未確認。現在の企業・遺族の資産は本人の財産へ含めない。

The Walt Disney Company

ウォルトとロイが創業した会社の現在

映画・テレビ・Disney+などの配信、ESPNのスポーツ、テーマパーク・リゾート、商品ライセンス。

年間売上

944億ドル

約14兆8,813億円

出典・詳しい補足

売上は2025年度の現会社全体。本人の生前売上や個人財産とは区別。買収した事業と後継者の仕事も含む。

会社の連結売上は94,425百万ドル。本人の死去から約60年後の事業規模であり、生前の本人の財産や売上とは異なる。

円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 元通貨の端数処理前の値から計算し、1億円未満を切り捨て。

金額の対象時点・集計範囲

  • The Walt Disney Company — 年間売上 / 2025年度(2024年9月29日〜2025年9月27日) / 連結・公表実績

主な保有資産・持分の出典

Historical ownership percentages and estate values not established. Founder died1966; do not present current family or foundation holdings as his personal holdings.

関連事業の確認日:2026-10-31。財務数値の確認日:2026-10-31。金額表示は1億通貨単位未満を切り捨てています。円換算には切り捨て前の元数値を使います。個人資産は保有株式などを含む推計値です。会社の売上は本人の収入や現金残高ではありません。円換算は金額感をつかむための参考で、取引当時の為替や物価を再現したものではありません。投資先・親子会社の売上を合算せず、売却済みの企業は現在の本人保有とは区別します。

THE STARTING CONDITIONS

2つのガチャから見る出発点

高いほど、選べる道や支えが多い。人生の価値ではなく、環境の有利さを表す編集評価です。

時代・場所ガチャなぜこの点数? +76 / 100

1901年のシカゴ、ミズーリ、十代のシカゴとカンザスシティは、同時代の戦場や植民地・教育の乏しい農村に比べ、学校・鉄道・印刷・映画市場に近い。本人は白人男性の米国市民で、当時の制度的排除を同じ強さで受けた立場ではない。現代医療の水準を遡って与えず、乳幼児死亡や感染症リスク、本人も患った1918年インフルエンザを考慮。

成人後も大恐慌と戦争による市場縮小はあった。一方、本土の長期的な戦闘被害を受けず、ハリウッドの人材・録音/カラー技術・銀行・テレビ・自動車旅行市場に接続できた。本人のヒットや資産そのものを社会環境の得点へ戻さない。

詳しい評価方法はこちら →
親・環境ガチャなぜこの点数? +72 / 100

父は家・農地・新聞ルートなど生計の資源を持ち、本人も学校と美術の授業へ届いた。同時代の世界で基礎教育にも届きにくい家庭と比較して資源は上位に置くが、大企業の相続や巨額の創業資金を持つ階層には置かない。幼年から午前3時半の新聞配達を長年担い、睡眠や自由時間の負担が大きかったため、養育の安全/余裕は教育資源と分けて低く置く。家族に対する未確認の医学診断や暴力の程度は採点根拠にしない。

最初の再出発は21歳で、兄ロイの送金・起業への参加、叔父の住まいと合計500ドルの貸付があった。これらを若年前半の実際の支援として数える。完全に一人、無資金からと扱わない。

25歳以降は兄ロイの資金管理と交渉の支援が長期継続し、妻リリアンも近い関係の支えに含む。ただし会社の売上、普通の雇用契約で働く全スタッフ、銀行の通常融資を、そのまま親族・近しい人の無償資産支援に置換しない。兄は共同創業者でもあり、本人の能力を差し引くための数字ではない。

詳しい評価方法はこちら →

THE STORY

ウォルト・ディズニーの物語

選んだ道。その先で、起きたこと。

01午前3時半に起きる少年

シカゴの家に生まれる

1901年12月5日、ウォルター・イライアス・ディズニーは、アメリカ中西部・イリノイ州の大都市シカゴで生まれた。後のウォルト・ディズニーである。父イライアスが建て、母フローラが設計に関わった家には、すでに兄たちがいた。8歳上のロイも、この家で生まれている。[1]

ウォルトとロイが生まれたシカゴの家。2017年撮影。
ウォルトとロイが生まれたシカゴの家。2017年撮影。
写真:WaltDisneyBirthplace/出典/CC BY-SA 4.0。サイズ調整。

父の仕事で変わる行き先

アメリカ・シカゴに生まれる。全体図と拡大図。
アメリカ・シカゴに生まれる。現代の都市代表位置。シカゴの出生宅や、その後の一家の移動経路を示す点ではありません。
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。

父は大工や農業など、仕事を変えながら一家を養った。1906年、家族はミズーリ州の小さな鉄道の町マーセリンへ移る。4歳のウォルトにとって、農場の動物と列車のある暮らしが、強く心に残る子ども時代になった。近所の人へ絵を売り、動物を描く。後に何度も訪れ、懐かしむことになる町だった。[2][3]

しかし一家は、その土地にとどまり続けなかった。父の仕事が変われば、子どもたちの暮らしも変わる。1911年、次の行き先になったのは、ミズーリ州の商業と鉄道の拠点カンザスシティだった。そこでウォルトを待っていたのは、絵を描くだけでは終わらない毎日だった。[2][4]

新聞が終わってから学校へ行く

父の新聞配達を手伝うため、少年は午前3時半に起きた。朝刊を配り、帰宅して朝食を取り、学校へ向かう。冬には、配達先の暖かい玄関で眠り込み、明るくなってから目を覚ましたこともあった。1965年に本人名義で発表された回想には、その失敗も残っている。[5]

ウォルトを引きつけたのは映画と舞台だった。友人と寸劇を演じ、人を笑わせる。絵を描くことに加えて、自分が何かを見せた時、相手がどこで笑うかにも興味を持った。後にスタッフの前で物語を演じるウォルトは、すでに少年時代に観客の反応を知る面白さを覚えていた。[6][7]

02売れた飲み物の空き瓶で損をする

列車に乗れる仕事

10代になると、ウォルトは車内販売にも挑んだ。菓子や果物、飲み物を乗客へ売る。兄ロイが経験した仕事を、列車好きの弟も選んだのだ。だが最初の商売は、飲み物の売れ行きだけでは決まらなかった。[5]

売った炭酸飲料の瓶を回収する前に、客の乗った車両が途中駅で切り離された。空き瓶の返金分が利益になる仕組みだったため、売り切ったはずの飲み物で利益を失った。汽車に乗る喜びと、商売の収支は別々に動いた。[5]

絵を描く道と父の仕事

1917年、一家は再びシカゴへ戻った。ウォルトは高校の新聞に絵や写真を載せ、夜には美術を学んだ。家計を支える働き手になってほしい父と、絵の仕事へ進みたい息子。将来の見え方は重ならなかった。[2][4]

そこへ戦争が割り込んだ。兄たちはすでに軍に入り、ロイは海軍の制服で帰ってくる。自分も海の向こうへ行きたい。だが、ウォルトはまだ16歳だった。[8]

03生年を1年早めて海を渡る

母の署名で開いた扉

1918年、ウォルトは年齢不足で軍への入隊を断られ、赤十字の救急車隊へ進もうとした。そこでも17歳以上が条件になる。父は渡航へ反対したが、母は同意書に署名した。ウォルトは書類の生年を1901年から1900年へ変えた。まだ資格のない少年が、紙の上では1歳年上になった。[8]

出発前にはインフルエンザにかかり、渡航が遅れる。フランスへ着いた時には、11月の休戦が成立していた。戦後も運転者は必要で、ウォルトは救急車や赤十字関係者の送迎を担った。戦争の後始末が続く国で、必要とされる運転の仕事へ就いた。[8][4]

運転の合間にも絵を描く

フランスでも、彼は絵を描いた。救急車の車体にも漫画を描く。暮らす国が変わり、制服を着る仕事になっても、絵は手放さなかった。海の向こうで自分の仕事を持った経験は、帰国後に家族の仕事から離れて進む時間へつながっていく。[9]

1919年、帰国したウォルトはカンザスシティへ向かった。父のもとへ戻って同じ商売をするより、絵を描いて給料を得る職場を探した。巨大な映画会社を作る前に、まず自分の描くものを買ってくれる相手が必要だった。[4]

04解雇された職場で相棒を得る

アブと始めた商業美術

ウォルトが入ったのは、広告や印刷物の絵を作るPesmen-Rubinのスタジオだった。そこで出会ったアブ・アイワークスは、後にミッキーの初期の動きを作る人物になる。だが、この時の2人に安定した職はなかった。繁忙期が過ぎると、ともに解雇された。[10]

それなら自分たちで仕事を取ろう。2人は商業美術の事業を始めた。ところが顧客を集めて食べていくのは、絵の腕だけでは難しい。短期間で再び雇われる道へ戻り、ウォルトは映画館用の広告映像を作る職場へ入った。そこで、静止した絵を動かす仕事に出会った。[10][11]

借りたカメラで仕事の外へ進む

ウォルトは勤務先からカメラを借り、自分の映画を試した。少しずつ違う絵を撮り、続けて映して動かす。その技術を会社の広告だけでなく、自分の笑い話にも使った。地元の劇場へ流すため、時事的な話題や童話を短い漫画に変えていく。[11]

映画を継続して作るには、絵を分担する仲間と撮影設備が要った。そして、完成したフィルムを映画館へ届ける相手も要る。ウォルトは作品を作れるようになったことで、配給という別の商売へ踏み込んだ。[11][12]

051万1000ドル(約173万3600円)の契約で100ドル(約1万5760円)しか入らない

売る約束があっても会社は倒れる

1922年、ウォルトはLaugh-O-Gram Filmsを法人化した。童話を現代風の笑いに変える短編を作り、継続して売れる会社を目指す。配給側からは、6本で1万1000ドル(約173万3600円)という契約が来た。ところが受け取れたのは、最初の100ドル(約1万5760円)だけだった。[4][11]

制作のためのお金は出ていく。納品しても残金が届かず、相手のPictorial Clubsは破綻した。映画を売る話を取れても、その契約が現金になるまで持ちこたえられなければ、給料も次の制作費も払えない。ウォルトの会社は、その間で追い詰められた。[11]

歯の衛生を教える映像など、別の仕事も手がけた。さらに、実写の少女が漫画の世界へ入る『Alice’s Wonderland』を試した。人間と絵を同じ画面へ置く、新しい売り物だった。しかし、それを作り切る資金まで足りなくなった。[13]

机も道具も担保になる

1923年、Laugh-O-Gramは倒産した。机や椅子、漫画映画を作る設備まで担保に入れた書類には、社長Walter E. Disneyの名が残る。会社を動かしていた品々が、負債の整理のために数えられる側へ回った。[12]

ラフ・オー・グラムが入っていたカンザスシティの建物。2010年撮影。
ラフ・オー・グラムが入っていたカンザスシティの建物。2010年撮影。
写真:Iknowthegoods at English Wikipedia; crop Smuckola/出典/CC BY-SA 3.0。サイズ調整。

本人の暮らしも崩れた。事務所で寝泊まりし、駅の設備で体を洗う。カリフォルニアにいたロイからは、そこを出るよう勧められた。ウォルトは西へ向かう列車に乗った。売り込めるものとして残っていたのは、実写の少女と漫画を組み合わせた試写用フィルムだった。[13]

06病院の兄とハリウッドで組む

映画を知らない兄が弟を信じる

ロサンゼルスには、結核の療養をしていたロイと、叔父ロバートがいた。カンザスシティにいた頃から、ロイは弟へお金を送っていた。ウォルトは今度、同じ場所で兄と事業を始めようとした。[14]

ウォルトは後に、兄は映画の商売を知らないまま、自分を信じて組んでくれたと振り返った。作りたいものへ向かうウォルトと、そこへ進む資金や条件を整えるロイ。2人が常に同意したわけではないが、その役割の違いが会社を続ける土台になった。[14]

叔父ロバートには500ドル(約7万8800円)を借りた。渋る叔父から得た貸付と、兄の協力と、自分のフィルム。それを組み合わせ、ウォルトはニューヨークの配給業者マーガレット・ウィンクラーへ『Alice’s Wonderland』を売り込んだ。[15][9]

家族ごと引っ越してもらう

1923年10月16日、制作・配給契約へ署名した。現在のThe Walt Disney Companyが創業日とする日だ。兄弟はハリウッドの不動産事務所の奥を使い、Disney Brothers Cartoon Studioとして仕事を始めた。[16]

ただ、契約が取れても、映画に出る少女が遠くにいた。試作でアリスを演じたヴァージニア・デイヴィスが必要だった。ウォルトは家族を説得し、カリフォルニアへ来てもらう。映像だけを郵送すれば済む仕事ではない。実際に制作を続けられるよう、人の暮らす場所まで動かした。[17]

07スタジオの仲間と結婚する

リリアンが知っていた小さな会社

1925年7月13日、ウォルトはリリアン・バウンズと結婚した。リリアンは、スタジオで線を写し、色を塗っていた。まだ小さかった職場で、仕事と暮らしの両方を知った相手だった。夫婦は新婚旅行で、アメリカ北西部・ワシントン州の山マウントレーニアや港町シアトルを訪れた。[6]

後に2人は、ダイアンとシャロンの2人の娘を育てる。仕事へ熱中するウォルトにも、夫として父として過ごす家があった。その家族との時間は、やがて映画の外に新しい事業を作るきっかけにもなる。[18][19]

スタジオでは『アリス』のシリーズが続いた。だがウォルトは、少女を撮影して絵と組み合わせる作品の次へ進もうとしていた。今度はアニメーションだけで見せる主人公。配給の先には、大手映画会社Universalがいた。[20]

08作ったウサギを連れて帰れない

値上げ交渉に出向いた先で

1927年に始まったオズワルドの短編は、スタジオへ継続した仕事をもたらした。長い耳のウサギが動き回り、大手の配給によって映画館へ届く。一方、制作を良くしようとすれば人手と費用が増える。ウォルトは契約更新で、もっと良い条件を求めようとした。[20]

1928年、ニューヨークで配給を仕切るチャールズ・ミンツから示されたのは、逆に低い制作費だった。しかも、スタジオの描き手たちには、ミンツ側がすでに声をかけていた。ウォルトが条件を断れば、彼らが別の契約で映画を作る。[21][11]

主人公まで自分のものではなかった。オズワルドの権利はUniversal側にある。ウォルトは、同じウサギの映画を作って別の相手へ売ることもできない。交渉で失いかけていたのは、報酬だけでなく、日々描いていた主人公と、それを動かす仲間だった。[20]

アブが残ってネズミを作る

ウォルトは条件を受け入れず、新しい主人公へ進んだ。残ったアブ・アイワークスと、若いレス・クラークらが制作を続けた。小さくなったチームで、ウサギの次を作る。[21][22]

生まれたのがミッキーマウスだった。ウォルトが発想を出し、アブが姿と動きを形にする。看板のキャラクターを失った会社が、次の看板を作り直した。だが、新しいネズミが紙の上に現れたところで、配給まで決まったわけではなかった。[23]

09売れないネズミに音をつける

最初の2本を越える方法

最初の作品『プレーン・クレイジー』は、ミッキーが飛行機を作って飛ぼうとする短編だった。1928年5月に試写したが、配給は決まらない。続く『ギャロッピン・ガウチョ』も道を開けなかった。世界で知られる顔になるネズミは、最初から買い手が殺到する商品ではなかった。[23]

その頃、映画は音を獲得しつつあった。映像と録音された音が合う体験に、観客が集まる。ウォルトは主人公を変えるだけでなく、その動きと音を結びつけることに賭けた。[24]

汽笛が鳴る。動作が音楽と重なる。『蒸気船ウィリー』では、何かが動く時に、その動きへ音がついてくる。絵が動く驚きの上に、画面全体が音で遊ぶ楽しさを載せた。1928年11月18日、ニューヨークのコロニー劇場で公開され、ミッキーは人気をつかんだ。[25][23]

成功したのにお金でもめる

録音と配給で組んだ相手はパット・パワーズだった。新しい仕組みで映画を届けられるようになった一方、兄弟は収益の扱いをめぐって、また配給側と対立する。作品が当たった後も、次の制作費を誰からどう受け取るかは難題のままだった。[21]

1930年には、アブが独立した。支援したのはパワーズだった。ミッキーに動きを与えてきた相棒が、別のスタジオを率いる。ウォルトはキャラクターを作り直してヒットへ届いた直後に、もう1度、大きな働き手を失った。[21]

10自分の手の代わりに人を育てる

会社の名前だけでは絵は動かない

アブの退場後も映画は作らなければならなかった。ウォルトは人材を集め、物語と動きを見直し、作品全体を判断する仕事を強めていった。自分が描ける枚数を増やすより、人に何を描いてもらい、どんな映画へまとめるか。その役割を会社の仕組みにしていく。[22][21]

家のゲームでは妻が勝つ

会社を動かす生活は、体調にも響いた。1931年には本人や家族が神経衰弱と呼んだ不調に陥り、休暇や運動の時間も作るようになった。[18]

娘ダイアンの回想では、家のクロッケーで父は理屈を説明し、リリアンは気楽に打って勝った。カードでも勝つまでやめたがらないのに、結局は妻に負ける。映画では大勢へ注文を出す男が、家では小さな勝敗にこだわっていた。子どもに残る父の姿には、そんな不器用な負けず嫌いもいた。[18]

11白黒で進めた映画を作り直す

色を使う条件まで押さえる

ミッキー以外にも、ウォルトはSilly Symphoniesという短編シリーズを育てた。決まった主人公へ頼らず、音楽、動き、物語を試す。次の映画に使う技術を、短い作品の中で磨ける場所になった。[26]

1932年の『花と木』では、白黒で進めていた制作を途中でやり直し、Technicolorの3色方式へ切り替えた。すでに描いた仕事を捨て、色のついた画面へ進む。新しい方式の契約によって、一定期間、短編アニメーションで先行する立場も得た。作品を良くするだけでなく、その技術を使える条件まで事業の強みにした。[27][28]

1933年の『三匹の子ぶた』では、似た姿のキャラクターを違う性格へ描き分けた。働く態度も、危険に遭った時の反応も違う。観客は線の集まりを見るのでなく、それぞれの人物として追えるようになる。この違いが、やがて何十分も観客を引きつけるために重要になった。[29][30]

映画の外でもミッキーが売れる

キャラクターを使う商品も増えた。1932年に兄弟が契約したケイ・ケイメンは、時計、玩具、衣類などの商品化を広げた。映画館を出た人が、店でもミッキーと出会う。上映していない時にも、スクリーンの外で仕事が続いた。[31]

スタジオがすべての商品を製造するわけではない。別の会社がキャラクターを使って品物を売り、その使用料が入る。商品を扱う営業網によって、映画の人気が別の収入になる。オズワルドを自由に使えなかった兄弟は、今度は自分たちのキャラクターを、映画の外へも広げていった。[31][20]

12童話を演じて長編へ賭ける

少年時代に見た白雪姫

1934年、ウォルトは『白雪姫』を長編アニメーションへする計画を進めた。本人が子どもの頃に見たのは、マーガリット・クラーク主演の実写映画だった。カンザスシティの大きな会場で、4つの面へ別々の映写機が投影する上映だったという。15歳の少年が夢中になった物語を、今度は自分の会社で作ろうとした。[32]

スタッフの前では、物語を話すだけでなく登場人物を演じた。白雪姫になり、こびとたちになり、場面の動きを見せる。まだ画面にない映画を、先に自分の声と体で伝えた。スタッフがこれから何年もかける仕事の輪郭を、その場に置いた。[30]

7人を同じ集団にしない

長編では、観客は長い時間を同じ登場人物と過ごす。背の低い7人が同じように動けば、誰を見ているか分からなくなる。怒りっぽさ、気弱さ、周囲とのずれ。性格が表情と動作に表れなければ、こびとたちは単なる集団になってしまう。[30]

白雪姫本人にも難しさがあった。1枚の顔をきれいに描けても、多くの描き手が、同じ人物として動かし続けなければならない。実際の人の動きも参考にし、体の重さや表情を描き分ける。短編を長くつなげるだけでは、目指す映画にならなかった。[33]

アニメーターたちは学び直した。1935年のウォルトのメモは、若手だけでなく、すでに仕事のできる描き手にも、足りない技術を補う訓練を求めている。人が立っている形を描けても、体重を移して動き、反応する人物を描けるとは限らない。長い物語へ進むには、その差を埋める必要があった。[33]

1935年、パリでのウォルト。
1935年、パリでのウォルト。
写真:Agence de presse Meurisse / Bibliothèque nationale de France/出典/PD-old / PDM; Commons also PD-US-no notice。サイズ調整。

森の奥行きも撮影から作った。前景と背景を複数の層へ分け、距離を変えながら撮る多層式の装置を使う。1937年の『風車小屋のシンフォニー』などで試された仕組みは、平面の絵の向こうに空間があるように見せた。人物、背景、撮影のすべてで、人と時間が必要になっていた。[34]

13銀行家の前で未完成の映画を流す

返事の短い観客

制作費が膨らみ、完成前に追加融資が必要になった。ロイはBank of Americaのジョセフ・ローゼンバーグへ、できている部分を見せる段取りをつけた。ウォルトが見せるのは、まだ仕上がっていない『白雪姫』だった。[35][36]

娘ダイアンが父の話を基に残した回想では、完成した映像の間に鉛筆画が混じっていた。ウォルトは、仕上がればどうなるかを説明する。だが銀行家は短い返事をするだけだった。上映を終えて外へ出ても、作品以外の話が続く。ようやく帰り際、大きく稼ぐ映画になるという趣旨の言葉が出た。融資は続いた。[36]

兄が整えた面会と、すでに作っていたフィルムが、残りの制作をつないだ。完成した夢を見せて拍手をもらう前に、未完成のまま資金を出す相手へ見せなければならなかった。[36][35]

映画館へ長い物語を届ける

1937年12月21日、『白雪姫』はハリウッドのカーセイ・サークル劇場で初公開された。ディズニーの公式作品史が示す初回公開時の世界興行収入は850万ドル(約13億円)。短い漫画で笑いを取っていた会社が、83分の物語へ観客を集めた。1939年には、通常の大きさの像1つと小さな像7つという特別なアカデミー賞も贈られた。[32]

成功で得た余地を、ウォルトは次へ使った。会社を小さく守るために抱えておくより、もっと良い環境で、次の長編をいくつも作ろうとする。スタジオは新しい土地へ広がり、働く人も増えた。今度は、その大きくなった組織を支える興行が必要になった。[37][38]

14親へ贈った家で母を失う

成功した息子たちの贈り物

ウォルトとロイは、両親をロサンゼルスへ呼び、家を贈った。『白雪姫』が当たり、兄弟は親へ住まいを用意できるようになった。結婚50周年を祝い、ウォルトは昔話をする両親の声も録音した。[39]

1938年11月26日、母フローラが亡くなった。家の暖房設備に不具合があり、一酸化炭素中毒が起きた。父は助かったが、母は戻らなかった。親へ成功の一部を渡した家が、家族を失う場所になってしまった。[39][40]

新しいスタジオの重さ

会社では、ロサンゼルス近郊の街バーバンクに、新しい制作拠点を整えていた。物語、原画、動きの間を埋める絵、背景、色。仕事が部門に分かれ、多くの人をつなぐ場所になる。小さな部屋で顔を合わせていた頃とは違う規模だった。[37]

建物と組織を作れば、次の映画が売れなくても、その維持費は出ていく。『白雪姫』の成功は次の挑戦を可能にしたが、次の失敗を軽くしてはくれなかった。ウォルトが求める完成度は、そのたびに制作費を押し上げた。[38]

15傑作を2本作って資金が苦しくなる

260万ドル(約4億円)の木の人形

1940年2月、『ピノキオ』が公開された。木の人形が本当の少年へなろうとする物語に、スタジオは260万ドル(約4億円)を投じた。水、光、複雑な背景まで描き、原作では小さな存在だったコオロギを、案内役のジミニー・クリケットへ変えた。主人公をどう見守ってもらうかまで、映画のために組み直した。[41]

だがヨーロッパでは戦争が始まり、海外市場が狭くなっていた。作品を作る手間はかけ終わっているのに、売れる場所の一部が失われる。大きく稼ぐ必要のある映画が、その条件から崩れていった。[38]

やがて1940年、アブはスタジオへ戻った。再び同じ役で大量の絵を描くのではなく、技術開発や特殊撮影へ力を発揮する。離れた相棒との関係は、新しい仕事の形でつながり直した。[42]

音を良くすると上映館が限られる

同年11月には『ファンタジア』を公開した。指揮者レオポルド・ストコフスキーと組み、クラシック音楽へアニメーションを合わせる。曲から広がる印象を、形や生き物の動きとして見せる作品だった。[43]

音にはFantasoundという多チャンネルの再生方式を用意した。だが、劇場へ専用設備を入れなければ、その体験を届けられない。良い音を追求した結果、普通の映画のように上映館を増やせなくなった。新しい表現と、その費用を回収する仕組みがかみ合わない。[43]

2本は後に名作として残ったが、公開当初の会社へ十分なお金を戻さなかった。1940年には優先株を発行し、外から資金を入れた。兄弟で始めた事業は、大きな設備を持ち、投資家も抱え、映画が売れなければ多くの支払いが苦しくなる会社になっていた。[38]

16会社の門の外へ従業員が並ぶ

同じ映画でも取り分は違う

バーバンクには、優れた設備と多くの仕事があった。それでも全員が同じ条件で働いていたわけではない。上位のアニメーターと補助のスタッフでは、給料や待遇に開きがあった。作品へ時間をかけるほど生活も豊かになるのか。働く側にとって、会社の理想は毎月の報酬と切り離せなかった。[44]

組合づくりで中心になったアート・バビットは、評価の低い若手ではなかった。約9年働いた熟練の描き手で、裁判記録では、31人のアニメーター中、彼と同等以上の給料を受け取るのは6人だけだった。待遇の良い側にいる人物が、従業員の組織を作る側へ動いた。[45]

1941年5月29日、ストライキが始まった。バビットの解雇が引き金になり、裁判記録によれば、1100人のうち400人が参加し、9週間続いた。映画を作る人々が仕事を止め、門の外で会社へ要求する。新作で資金を戻したい会社が、その新作を作る人たちと対立した。[45]

スタッフを率いて南米へ行く

ウォルトは労使紛争を、自分の育てた会社への攻撃として受け止めた。作品へ良い環境を用意したという自負と、従業員が抱える不満は、同じものを見ていなかった。相手の要求を聞けば、そのまま解ける距離ではなくなっていた。[44]

夏、ウォルトはスタッフと南米へ渡った。米政府の善隣政策に関わる訪問で、ブラジルやアルゼンチンの文化と音楽を取材する。国内では会社への抗議に直面し、海外では有名な映画人として迎えられる。そこで得た題材は、後の作品へ取り込まれた。[46]

会社では組合と折り合いをつけ、制作を再開する仕事が続いた。ロイもその役割を担った。ウォルトが新しい題材を探す間にも、従業員のいる職場を維持し、契約をまとめる人が必要だった。[47][45]

17戦争が映画の注文を変える

軍が顧客になる

1941年12月、アメリカが第2次世界大戦へ参戦した。スタジオでは軍の訓練映像、納税や協力を呼びかける短編、部隊のマークなどを手がけるようになる。映画館の一般客を楽しませていた技術が、戦争の手順を教え、人を動かす仕事へ向かった。[48][49]

機械の内部や地図上の動きも、アニメーションなら必要な順序で見せられる。実写だけでは説明しにくいことへ、絵を使う利点があった。同時に、受注は通常の興行が厳しい会社を支えた。[49]

バンビの森を変えた画家

戦時下の1942年には『バンビ』も公開された。その森を作るうえで重要だったのが、中国出身の画家タイラス・ウォンである。彼は原画の間を補う絵を描く仕事をしながら、鹿と森の絵を見せた。[50]

木も葉もすべて描き込むのでなく、淡い色と輪郭で森の雰囲気を出す。主役が背景の細部へ埋もれず、その動きへ目が向く。その仕事がウォルトに認められ、作品全体の美術へ影響した。細かく作ることへ力を注いだ会社に、細部を省くからこそ届く美しさが入った。[51]

ウォンは1938年から1941年まで在籍し、公開前に会社を去っていた。ディズニーという看板の映画に、すでにそこにいない画家の仕事が残る。ウォルトの選ぶ力と、選ばれる表現を持ってきた人の力が重なって、画面ができた。[50]

1943年の『空軍力の勝利』は、航空戦力の重要性を訴える作品になった。政府からの注文をこなすだけでなく、ウォルト自身が伝えたい主張を映画にした。彼の会社が作る映像には、政治と戦争のための仕事もあった。[52]

裁判で残った解雇の責任

ストライキ後の1941年11月、バビットは再び解雇されていた。全米労働関係委員会は組合活動を理由とした不当な扱いと認定し、1944年の連邦控訴審も、中心となる不当解雇の認定を支持した。[45]

裁判所は命令の範囲や賃金補償の起算日を修正しつつ、復職と補償を含む命令の執行を認めた。経営難があっても、組合活動を理由に扱いを変えてよいことにはならなかった。ウォルトの作品を作る力と、会社の雇い主としての責任が、別の場所で評価された。[45]

18主演俳優が初演の客席に座れない

南部の物語へ集まった反発

1946年、ウォルトは実写とアニメーションを組み合わせた『南部の唄』を公開した。白人の少年ジョニーが、語り手アンクル・リーマスからウサギやキツネの話を聞く。実写の人物が語り始めると、画面は動物たちの漫画へ移る。幼い頃から親しんだ昔話を、映像の違う世界を行き来する映画にした。[53][54]

だが、その南部の描き方には、制作中から懸念が届いていた。黒人を類型的な姿へ押し込め、白人との関係を美化するのではないか。役を断った黒人の芸能人もいたことが、当時の新聞へ残る。完成後には、全米黒人地位向上協会NAACPが、奴隷制や主従関係を実態以上にのどかなものとして伝えると批判した。楽しい昔話として見せる側と、その背景で何が見えなくなるのかを問う側は、同じ映画を違う場所から見ていた。[54][55]

作品の中の声と上映館の外

アンクル・リーマスを演じたジェームズ・バスケットは、歌と演技で映画を支えた。『ジッパ・ディー・ドゥー・ダー』はアカデミー歌曲賞を受け、バスケットにも1948年に名誉賞が贈られた。人々へ知られる歌と、評価される演技があった。[53]

しかし1946年11月、アメリカ南部・ジョージア州の大都市アトランタで行われた初演に、バスケットは参加できなかった。街には黒人と白人を隔てる人種隔離があった。主人公の少年へ物語を語る俳優が、その映画を祝う白人たちと同じ場へ入れない。ウォルトは作品を届ける行事へ出席したが、作品をつくった人が全員そろえる行事ではなかった。[56][54]

19かつての争いを議会で語る

共産主義者と考える相手を名指しする

1947年10月24日、ウォルトは米下院の非米活動委員会、HUACで証言した。映画界に共産主義の影響があるかを調べる場で、戦時中に政府機関と宣伝映画を作ったことも説明した。納税を促す映画や反ヒトラーの作品を挙げ、映像には人の行動を変える力があると認めた。[57]

証言では、1941年のストライキへ話が及んだ。ウォルトは組合側のハーバート・ソレルらの名前を挙げ、自分が共産主義者だと考える人々や、その影響について述べた。[58]

かつてスタジオの門の外で向き合った相手が、今度は国家の委員会で語られた。作品の中へ害のある宣伝を入れないよう気を配ると説明する一方、労働運動には政治的な脅威を見ていた。大勢へ娯楽を届ける人物の強い反共の立場が、公の記録へ残った。[57][58]

20シンデレラが会社を立たせ直す

再上映でつないだ戦後

戦争が終わっても、すぐ大作を並べられるわけではなかった。古い長編の再上映や、短い話をまとめた作品で収入をつないだ。次の大きな作品を作る組織を、まず維持しなければならなかった。[59]

1950年、『シンデレラ』が公開された。『バンビ』から8年を経た、1つの物語を通して見せる長編アニメーションだった。変身、舞踏会、真夜中までの時間。知っている童話でも、動きと歌を備えた映画として楽しめる。その成功が戦後の会社の足場を強くした。[60]

同年の取材で、ウォルトは仕事の変化を話した。初期は物語も作画も編集も自分で扱っていたが、今は組織へ作るものを与える立場になっている。大きくなったスタジオは多くの仕事をできる。その人々が取り組む次の題材を選ぶことが、本人の仕事になった。[60]

イギリスで使えないお金を使う

同じ年に実写長編『宝島』も公開した。アニメーションと実写を混ぜるのでなく、全編を俳優が演じる映画だ。その制作には、お金の事情もあった。イギリスで稼いだ興行収入が、戦後の規制によって自由にアメリカへ戻せなかった。[59]

それなら現地で制作へ回す。イギリスの俳優や映画技術者と組み、閉じ込められた資金で別の種類の作品を作った。送金できないという制約が、アニメーションとは違う制作への入口になった。[59]

21家の庭にも鉄道を作る

家族を乗せる機関士

1950年、ウォルトはロサンゼルスの自宅に、人が乗れる小型鉄道を作った。Carolwood Pacific Railroadである。小さな機関車にまたがり、家族や友人を乗せる。会社で大勢へ注文する男が、庭では自分が機関士になった。[61]

1965年の本人名義の回想には、鉄道が家の周囲を走ることへ妻が反対し、弁護士に通行のための合意書を作らせ、妻が署名し、娘たちが証人になったという話まである。線路の取り回し1つにも、家族との交渉が必要だった。[5]

列車に乗ることが目的だった少年が、今度は線路と風景と客を迎える場所を持った。鉄道好きは、画面の外で楽しむ体験を作る関心と結びついていく。[61]

娘を待つ父が見つけた空白

娘たちを遊びへ連れていく時、ウォルトは自分が待っているだけになることに目を向けた。子どもが乗り物で遊ぶ間、大人は外にいる。親子が同じ場所を一緒に楽しめないか。家族がそろって体験できる場所を考え始めた。[19]

スタジオ近くに小さな公園を作る案は、やがてその敷地へ収まらなくなった。列車、昔風の街、遊ぶ場所。映画を作る会社の創業者が、また映画とは違う巨大な計画へ人と資金を向けようとしていた。[62]

22テレビ番組と遊園地を一緒に売る

まだない街を1枚の絵へ描く

1952年、ウォルトはパーク開発のために別の会社を設けた。後のWED Enterprisesで、WEDは本名の頭文字だった。映画の背景を描く人々が、今度は、観客の歩いて入れる建物や街並みを考える。画面なら描かなかった裏側にも、壁と道と設備が必要になった。[63]

候補地を調べ、ロサンゼルス南東の街アナハイムを選んだ。当時はオレンジ畑が広がっていた。周辺の人口、道路の発達、車で来られる範囲。映画館へ作品を届ける代わりに、客が1日を過ごしに来られる土地を探した。[62]

しかし資金を出す人へ見せる肝心の絵が、まだなかった。1953年9月の土曜日、ウォルトは以前スタジオで働いていた画家ハーバート・ライマンを呼ぶ。月曜日には、ロイが銀行家たちへ計画を示さなければならない。急に全体図を描くよう頼まれたライマンは、いったん断った。[64]

ウォルトは一緒に残って仕事をすると申し出た。そこから42時間、2人は鳥の目で見たDisneylandを描いた。昔風の通りの先に別の世界があり、それらを鉄道が囲む。ウォルトの言葉をライマンが線へ変え、ばらばらの構想を、資金を出す相手が指差せる1枚へまとめる。ロイが持って出るのは、実物もない場所へ大金を出してもらうための絵だった。[64]

番組だけ買う相手には売らない

ウォルトはCBS、NBC、ABCのテレビ局へ、番組とパークをまとめて持ち込んだ。毎週の番組をつくる。その代わり、まだ存在しない遊園地にも出資してほしい。テレビは映画館から客を奪うだけの相手ではなく、建設するための資金と、開園前から観客へ届く放送枠を持つ相手だった。[65]

応じたのは、当時まだ弱い立場のABCだった。50万ドル(約7880万円)を出資し、建設のための借入も支える。ウォルトたちは毎週番組をつくり、ABCは放送する内容を得る。本人の資産、映画会社、銀行、テレビ局。いくつもの財布と約束をつなぎ、1700万ドル(約26億円)規模の建設を進めた。[65][66][62]

兄弟には、作品を売る相手が倒産した経験も、主人公の権利を持つ相手との交渉で敗れた経験もあった。今回は映画の完成を待つ買い手を探すだけでなく、建物が立つ前から、別の会社を事業へ入れた。後にDisney側は、ABCが持つパークの3分の1の権益を750万ドル(約11億円)で買い戻す。入口の50万ドル(約7880万円)は、成長した事業の中で別の値段になった。[65][11]

23画面で見せた夢に客が来る

開園する前から名前を売る

1954年10月27日、テレビ番組『Disneyland』が始まった。ウォルト自身が案内役として出て、映画や新しい計画を見せる。パークはまだ建設中でも、その名前と、行けば何があるかは家庭へ届く。上映館へ出向く客だけでなく、家で画面を見る人々が次の観客になった。[67]

番組からは『デイビー・クロケット』の人気も生まれた。西部の英雄がかぶるアライグマの帽子を、子どもたちが欲しがる。歌はレコードへ、主人公は玩具や衣類へ広がる。映画館で終わらないキャラクターの商売が、テレビでも動いた。[68]

1955年7月17日、Disneylandは招待客を迎えて開園行事を開いた。テレビはその様子を生中継する。何年も構想を話し、絵を見せ、建設費を集めた場所へ、本物の客が入ってきた。[69]

撮り直せない開園日

予定していなかった客まで入った。偽造の招待状などで人が膨らみ、暑さの中で食べ物が足りず、乗り物も不調になる。舗装したばかりの路面では、靴の踵が沈んだ。映画なら公開前に撮り直せる。ここではすでに、お金や時間をかけて来た人が、その場を歩いていた。[70][69]

客が来た瞬間、絵になっていた街には別の仕事が生まれる。人をどこへ流し、何を食べてもらい、動かない乗り物へどう対応するか。画面で夢を届けてきたウォルトは、現実の運営を丸ごと抱えることになった。[69][66]

24開いた後も完成させ続ける

初日の失敗で終わらせない

混乱した初日だけで、客は来なくならなかった。Disneylandにはその後も人々が訪れ、設備と運営は修正された。映画を完成させたらフィルムを送る仕事とは違い、次の客へ見せる場所を、毎日変えられた。[71]

開園翌月、ディズニーランドの駅馬車。1955年8月撮影。
開園翌月、ディズニーランドの駅馬車。1955年8月撮影。
写真:ljpelletier/出典/CC BY-SA 2.0。サイズ調整。

ウォルトも園内を歩き、消防署の上に仕事や滞在のための部屋を持った。観客へ見せる昔の街並みのすぐ裏で、現代の設備とスタッフが動く。その場所を、自分も繰り返し確かめた。[72]

本人はDisneylandを、想像力がある限り成長し続けるものとして語った。1度公開すれば同じ映像が上映される映画と違い、新しい技術や思いつきを、そのまま次の来園体験へ足せる。ウォルトの仕事には、終わりを決めずに育てられる場所ができた。[73]

鳥が歌い未来の乗り物が走る

1959年にはモノレール、潜水艦の体験、山を使ったコースターなど、大きな拡張を行った。入口では昔の街を見せ、その先では未来の交通に乗せる。映画館で数分の驚きを売っていた会社が、1日を使って違う世界へ人を運ぶようになった。[63]

1963年には、鳥などが動いて歌う『魅惑のチキルーム』が登場した。音と機械の動作を合わせる技術である。かつて絵の動きと音楽を結びつけた会社が、今度は立体の物体を、声と一緒に動かした。[63]

25スポンサーの予算で次を試す

リンカーンを立ち上がらせる

1964年、ニューヨーク万国博覧会でディズニーは4つの展示を作った。イリノイ州のリンカーン、General Electricの電化された暮らし、Fordの乗り物、PepsiがUNICEFを支援する『イッツ・ア・スモールワールド』。それぞれ違うスポンサーへ、別の物語と装置を用意した。[74]

リンカーンの展示では、等身大の人形が立ち上がって話す。肖像を見せるだけでなく、観客の前で歴史上の人物が動くようにした。幼い頃から関心のあったリンカーンを、ウォルトは新しい機械で舞台へ立たせた。[74]

スポンサーは自分たちの展示を得る。ディズニーは費用を受け取り、新技術を試し、アメリカ東海岸の客の反応を見られる。成功した体験は、西のパークへ持ち帰る。研究開発と収入と市場の試験を、博覧会の仕事でつないだ。[75]

宇宙を家庭へ届ける

1950年代から、ウォルトは宇宙の技術にも関心を向けていた。ロケット技術者ヴェルナー・フォン・ブラウンらと、宇宙を説明するテレビ作品を作る。模型とアニメーションを使い、まだ多くの人が見たことのない未来を、家庭の画面へ載せた。[76]

宇宙のテレビ作品で協力したフォン・ブラウンとウォルト。1954年。
宇宙のテレビ作品で協力したフォン・ブラウンとウォルト。1954年。
写真:U.S.government / NASA Marshall archive;individual photographer unlisted/出典/PD-USGov / NASA。サイズ調整。

1965年にはNASAの施設を訪れ、宇宙へ向かう技術に触れた。古い童話を新しい映像へする仕事と、まだ実現していない未来を先に見せる仕事。その両方が、同じ会社の表現になっていた。[77]

26原作者とぶつかったメリー・ポピンズ

返事を待ち続けた乳母の物語

ウォルトの手元には、1934年に出版社から贈られた『メリー・ポピンズ』があった。10年ほど後、娘ダイアンもその物語を気に入っていると知る。空からやって来た不思議な乳母が、子どもの毎日を別のものへ変える。映画にしたかったが、原作者P・L・トラヴァースは、簡単に主人公を渡さなかった。[78]

兄ロイと連絡を取り続け、交渉は長く延びた。1959年、英国へ立ち寄ったウォルトは、ロンドンでトラヴァースへ直接会いに行く。映画化の権利へ道を開いても、そこから先の物語まで自分の好きな形にできるわけではない。原作者には、脚本を承認する権利が認められた。[79][78]

ウォルトがスタッフと話をつくる時には、面白いと感じた動きや歌へ思い切って変えてきた。しかし今回は、変えようとする人物を生んだ人が、制作の相手側にいた。どの章を使うか。歌を入れるか。絵の登場人物と実写の人間を同じ画面へ出すか。映画の楽しさをつくる核心が、そのまま交渉の争点になった。[78]

バーバンクに縮んだロンドンを建てる

1964年の映画では、ジュリー・アンドリュースが乳母を演じ、ディック・ヴァン・ダイクが大道芸人バートを演じた。シャーマン兄弟の歌と、実写へ絵を合わせるアブらの技術が入る。初期のミッキーを動かした相棒は、別の方法で、新しい人物の世界を支えていた。[80][81][42]

画面のロンドンは、英国の街をそのまま撮ったものではなかった。美術家ピーター・エレンショーは、バーバンクの撮影所でロンドンを見せるための背景画を100点つくった。ガラスの絵に小さな穴を開け、裏から光を通すと、夕方の街の明かりが少しずつ灯るように見える。絵を動かすだけでなく、絵の向こうの光まで映画へ使った。[79]

街路を建てる時には、さらに大きさを変えた。乳母が歩いて入る手前は実物大。バンクス家は8分の7、その先の家は4分の3、さらに半分、4分の1と小さくなる。桜の木も奥へ行くほど小さくした。撮影所の限られた空間へ、遠くまで続く通りを収める。実際には縮んでいく家々が、画面では奥行きのある街になった。[79]

金曜日に聴く1曲

映画の中で、ウォルトがとりわけ好んだ歌が『Feed the Birds』だった。シャーマン兄弟は、鳥へえさを売る老女の小さな話から、その曲をつくった。にぎやかに踊る曲とは違い、ゆっくりと静かに進む歌だった。[82]

兄弟の回想によれば、1960年代半ばの金曜日の午後、ウォルトは2人を自分の部屋へ呼び、その歌を求めた。リチャードがピアノへ向かい、ロバートと一緒に歌う。曲を聴き終えると、週末を楽しむよう伝えて帰した。新しい計画と大勢のスタッフを抱える経営者が、何度も繰り返して聴く1曲が、その部屋にあった。[82]

映画は広く支持された。だがトラヴァースの不満は残った。アンドリュースの演技は認めながらも、アニメーションの場面には反対し、取り除くよう求めたという。上映された映画から、その場面が消えることはなかった。観客の喜ぶ完成形と、原作者の望む完成形は、最後まで同じにならなかった。[78][83]

次に作る人のための学校

ウォルトはスタッフを探すだけでなく、次の表現者が育つ場所にも関わった。1961年、ロイとともに美術学校と音楽学校の統合を進め、California Institute of the Arts、CalArtsの設立へつなげた。絵、音楽、演劇などを、同じ場所で学ぶ学校だった。[84]

1964年9月14日には、ホワイトハウスでジョンソン大統領から大統領自由勲章を受けた。映画とパークで広く知られる人物になった一方、本人がつくったものの外にも、次の人材へ残す場所を置こうとしていた。[85][84]

ジョンソン大統領から大統領自由勲章を受けるウォルト。1964年9月14日。
ジョンソン大統領から大統領自由勲章を受けるウォルト。1964年9月14日。
写真:Cecil Stoughton / Executive Office of the President/出典/PD-USGov-POTUS。サイズ調整。

27山の谷にも家族のリゾートをつくる

3500万ドル(約55億円)の山岳計画

フロリダと同じ頃、ウォルトは西海岸でも別の土地を考えていた。アメリカ西部・カリフォルニア州、Sierra Nevada山脈の山あいにあるMineral King。スキーをする人だけでなく、家族で季節を問わず泊まれるリゾートをつくろうとした。[86]

以前からスキーを楽しみ、1960年の冬季オリンピックでは開閉会式などを担当していた。そこでつながったスキーの専門家ウィリー・シェフラーや、Disneylandの立地を調べたバズ・プライスと、新しい候補地を探す。画面の中へ雪山を描くのではなく、その山へ人を運んで泊まらせる仕事だった。[86]

1965年12月、森林局はDisney側へ、計画をまとめるための3年間の予備的な許可を与えた。当時報じられた事業費は3500万ドル(約55億円)。リフトや宿泊施設、レストランを備えた山の村をつくる構想だった。後のテーマパークで知られる、熊たちが歌うCountry Bear Jamboreeも、この山のレストランで客を楽しませるために考えられた。[87][86]

美しいまま残すという言葉の違い

ウォルト側は、景観を守りながら人を迎えられると考えた。村の奥へ自動車を入れず、入口に車を置いて別の乗り物で移動させる。リフトや建物を目立ちにくくし、裏方の施設は地下へ収める。遊びに来る人の便利さと、谷の美しさを両立させる設計だった。[87]

しかし、そもそも大勢の人を受け入れるには、山へ入る道を変えなければならない。谷へ通じる道路は、別の管理下にあるSequoia国立公園を通る。建物を景色へなじませるだけでは、増える車や人、道路の工事は消えなかった。開発せずに谷を残したい人々もいた。[87][88]

同じ景色を前にして、ウォルトたちは、家族がその自然を楽しめる村を描いた。反対する人々は、その村をつくらないことが自然を守る道だと考えた。遊園地の新しい乗り物なら、会社の敷地へ建てればよい。この計画では、土地の外へ続く道路と、自然の使い方についても、他の人を納得させる必要があった。[87][88]

28最後に見せたかったのは人の暮らす都市

パークの外側まで自分たちで作る

アナハイムの成功の後、ウォルトはアメリカ南東部・フロリダ州へ目を向けた。今度はパークの外にホテルや交通まで持ち、周囲の環境を広い土地の中でつくりたかった。1963年11月には、娘シャロンや幹部らと候補地を見て回る。計画をつくる前に、まずその土地を手に入れなければならなかった。[89]

取得を任された弁護士ボブ・フォスターは、半年で済むと見積もっていた。だが土地の所有者はばらばらだった。地図を調べ、遠くに住む人まで探し、売買をまとめる。本人が後に語った実際の作業は、18カ月に及んだ。交渉の間にはBob Priceと名乗り、Disneyとの関係を表へ出さなかった。ロイもホテルでRoy Davisという名を使った。荷物のイニシャルを変えずに済む偽名だった。[89]

社内でも、限られた7人が知るProject Xとして動いた。名の通った会社が広大な土地を欲しがっているとわかれば、相手の求める金額も変わる。買い手の正体を伏せ、複数の会社へ所有権を集めながら、土地をつないでいった。[90][89]

購入した土地は2万7440エーカーを超えた。約111平方キロメートルに当たる。平均取得額は1エーカー当たり200ドル(約3万1520円)未満だったと、会社は後に記録している。新聞にとっては、誰がこれだけの土地を買うのかという大きな謎だった。1965年10月24日、Orlando SentinelがDisneyだと報じ、翌日、会社は州知事へ確認を認めた。秘密の買い手が、ついに名前を持った。[90]

11月15日、ウォルトとロイはフロリダ州知事と並び、計画を発表した。絵を持って資金を集めたアナハイムとは違い、今度の背後には、時間をかけてつないだ巨大な土地があった。[90]

その中心へ置きたかったのが、実験的未来都市EPCOTだった。人が実際に暮らし、働く共同体である。移動手段、住宅、商業、新しい技術を試す仕組み。それらを1つの生活環境として設計しようとした。[91]

そこへ来る人は、閉園時間になっても帰らない。働き、買い物をし、子どもを育て、次の朝を迎える。ウォルトは、映画とパークで見せてきた街を、人々が生活し続ける場所へ進めようとした。[91]

1966年10月にカメラへ向かう

1966年10月27日、ウォルトはEPCOTを説明する映像の撮影に臨んだ。模型や図を置いた専用セットで、これから作る共同体を語る。記録には、スタジオの第1ステージへ呼ばれた少人数のスタッフが残っている。未来都市もまずは、他の人が見て仕事を始められる映像へ変えた。[92]

未完成の『白雪姫』を銀行家へ見せた。まだないパークを鳥瞰図にした。最後には、人の暮らす街を模型と映像で説明した。本人の頭にあるものを、人が資金や時間を投じられる形へする仕事を、ウォルトは続けていた。[36][63][92]

29兄が弟の名前を残す

見届けられなかった開園

1966年12月15日、ウォルト・ディズニーは肺がんで亡くなった。65歳だった。フロリダの開発も、実験都市も、本人が完成を見届けることはできなかった。[93]

事業を引き継いだのはロイだった。1923年、療養中に弟と組んだ兄が、今度は弟のいない会社を率いて、次の開園へ運ぶ。1971年、フロリダの施設はWalt Disney Worldとして開いた。名前に弟のウォルトを加えたのは、ロイだった。[47][63]

山のリゾートは、フロリダとは違う道をたどった。会社はウォルトの死後もMineral Kingを進めたが、自然保護団体Sierra Clubが政府の許可を争った。1972年の連邦最高裁は、団体が具体的な被害を主張していないとして、訴える資格を認めなかった。環境への影響をすべて調べ、開発の安全を保証した判決ではない。[88]

その後も争いと計画変更が続き、1978年、連邦議会はMineral KingをSequoia国立公園へ編入した。山のリゾートは建たなかった。本人の残した計画でも、残された人々と社会が、そのまま完成へ運ぶとは限らなかった。[94]

実際に人が暮らす都市というEPCOTの計画は、そのまま実現しなかった。1982年に開いたEPCOTは、未来の技術や世界の文化を見せるテーマパークになった。創業者の構想を全てそのまま作るのでなく、残った人々が選び直して事業を続けた。[91]

名前の先に続く会社

2025年度、The Walt Disney Companyの売上は944億2500万ドル(約14兆8813億円)に達した。映画、番組、配信、スポーツ、テーマパークへ広がった現在の企業の数字だ。ウォルトの死後にも事業と買収を重ねた会社は、本人が最後に見た規模をはるかに越えている。[95]

その名前の原点には、机や道具を担保へ入れた小さな会社がある。連れて帰れなかったウサギと、残ってネズミを描いた相棒がいる。融資をつないだ兄も、工場のように大きくなった職場へ抗議した従業員もいる。その人々の仕事と衝突から、映画と街が残った。[12][21][14][45]

午前3時半に新聞を配っていた少年は、やがて観客が画面へ見入る時間をつくり、家族が一緒に歩く街をつくった。最後の頃には、雪山のリゾートと、人々の暮らす未来都市が、同時に彼の仕事場にあった。どちらも本人は完成させられなかった。弟の名を施設へ残した兄と、違う道を選び直した会社が、その後の地図を描いた。[5][19][92][47][94]

参考文献・出典 95件

本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。

  1. D23 — Restoring the Disney Family Home in Chicago ↩ 本文
  2. WDFM — Elias Disney: The Man Who Raised Walt Disney ↩ 本文
  3. D23 — The Magic of Marceline ↩ 本文
  4. WDFM — Walt Disney Timeline ↩ 本文
  5. Walt Disney — I Have Always Loved Trains (Railroad Magazine, October1965; WDFM reproduction) ↩ 本文
  6. WDFM — Who Did Walt Disney Marry? ↩ 本文
  7. Jim Korkis — Walt Disney’s Hollywood Theaters ↩ 本文
  8. WDFM — Over There: Walt Disney’s World War I Adventure ↩ 本文
  9. D23 — About Walt Disney ↩ 本文
  10. Thank You Walt Disney — History of the Laugh-O-Gram studio ↩ 本文
  11. WDFM — Mickey’s Follies: Distribution Deals, Defeats, and Decisions ↩ 本文
  12. National Archives — Walt Disney and Laugh-O-Gram Bankruptcy Case4457 ↩ 本文
  13. D23 — Take a Look Back at Disney in the Year1923 ↩ 本文
  14. Walt Disney interview with Pete Martin — His Brother Roy (WDFM transcript) ↩ 本文
  15. WDFM — So Dear to My Heart: Uncle Robert ↩ 本文
  16. D23 — Here’s How a Four-Page Contract Started The Walt Disney Company ↩ 本文
  17. WDFM — 100 Years Ago: The First Disney Bros. Movie ↩ 本文
  18. Diane Disney Miller — My Dad,Walt Disney Part5, Saturday Evening Post1956-12-15, excerpt reproduced by DIX ↩ 本文
  19. Disney Parks Blog — Walt Disney Was Born in1901; daughters and Griffith Park ↩ 本文
  20. D23 — Oswald the Lucky Rabbit ↩ 本文
  21. WDFM — Ub Iwerks: Master of Animation and Technology ↩ 本文
  22. WDFM — The First of the Nine: Les Clark ↩ 本文
  23. WDFM — The Birth of a Mouse ↩ 本文
  24. WDFM — Multiplane Educator Guide, innovations chronology ↩ 本文
  25. D23 — Mickey Mouse ↩ 本文
  26. WDFM — Composing Silly Symphonies: Stalling After Mickey ↩ 本文
  27. D23 — Flowers and Trees Premieres ↩ 本文
  28. D23 — Technicolor ↩ 本文
  29. D23 — Three Little Pigs ↩ 本文
  30. WDFM — 80 Years Later: The Legacy of Snow White ↩ 本文
  31. WDFM — The Season of Giving:Walt,Kay,and Disney Gifts ↩ 本文
  32. D23 — Snow White and the Seven Dwarfs ↩ 本文
  33. Animation World Network — The Birth of Animation Training; Walt’s1935 memo ↩ 本文
  34. Disneyland Paris — The Multiplane Camera ↩ 本文
  35. D23 — Bank of America ↩ 本文
  36. Diane Disney Miller as told to Pete Martin — Disney’s Folly, Saturday Evening Post1956-12-22 ↩ 本文
  37. WDFM — Spotlight Talk Recap: The Burbank Studio ↩ 本文
  38. Walt Disney Productions — First Annual Report1940, company text reproduced by DIX ↩ 本文
  39. PBS American Experience — Walt Disney, transcript (parents’ house and Flora’s death) ↩ 本文
  40. D23 — Disney, Flora ↩ 本文
  41. D23 — Pinocchio Premiered ↩ 本文
  42. D23 — Iwerks, Ub ↩ 本文
  43. D23 — Fantasia ↩ 本文
  44. Tom Sito — The Disney Strike of1941, Animation World Network ↩ 本文
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  48. Smithsonian National Museum of American History — Mickey Mouse morale ↩ 本文
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  51. WDFM — Look Closer:Concept Art by Tyrus Wong ↩ 本文
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  60. WDFM — The History, Debut, and Impact of Cinderella ↩ 本文
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  62. Anaheim city Heritage Services — The1950s–1980s ↩ 本文
  63. Walt Disney Imagineering — Our Story ↩ 本文
  64. D23 — Walt discusses plans with Herb Ryman,26Sep1953 ↩ 本文
  65. D23 — ABC and Disney Boards Approve Financing Deal1954 ↩ 本文
  66. TIME/LIFE — See Photos of Disneyland When It Opened in1955 ↩ 本文
  67. D23 — Television ↩ 本文
  68. Tennessee State Museum — The Davy Crockett Craze ↩ 本文
  69. Associated Press — Disneyland’s70th anniversary: then and now ↩ 本文
  70. D23 — Child Letter to Walt (opening-day counterfeits) ↩ 本文
  71. D23 — Disneyland, chronology and attendance ↩ 本文
  72. Walt’s Apartment — Walt Disney’s apartment above the firehouse ↩ 本文
  73. D23 Archives Dave Smith — Disneyland promise was made to a reporter ↩ 本文
  74. WDFM — Look Closer:1964 New York World’s Fair ↩ 本文
  75. WDFM — Walt’s World’s Fair ↩ 本文
  76. NASA — MAVEN Continues Mars Exploration Begun50 Years Ago by Mariner4 ↩ 本文
  77. WDFM — Walt Disney and Space Exploration:50 Years After Apollo11 ↩ 本文
  78. Jeffrey Moffit,WDFM — Spotlight Talk:P.L.Travers Mary Poppins,24Jan2014 ↩ 本文
  79. WDFM —60Years MaryPoppins:Creating London in the Lot,13Sep2024 ↩ 本文
  80. D23 — Mary Poppins ↩ 本文
  81. University of Texas Harry Ransom Center — Sherman Brothers Mary Poppins Collection inventory ↩ 本文
  82. WDFM —Feed the Birds:Examining Walt favorite song,3Dec2024 ↩ 本文
  83. TIME — How Mary Poppins Has Evolved Over the Years ↩ 本文
  84. California Institute of the Arts — History ↩ 本文
  85. The Walt Disney Family Museum — Presidential Salute(1964年9月の授与) ↩ 本文
  86. WDFM —MineralKing LostLastProject:programrecap,27Jan2012 ↩ 本文
  87. Werner Weiss,WDFM —NewHeights:Walt Disney MineralKing,13Jan2012 ↩ 本文
  88. US Supreme Court —SierraClubvMorton405US727(1972),CornellLII ↩ 本文
  89. Steven Vagnini,D23 —How Walt DisneyWorld Found ItsHome inFlorida,28Sep2016 ↩ 本文
  90. The Walt Disney Company —Origins of ParksExpansion:FloridaProject pressconference,15Nov2012 ↩ 本文
  91. D23 — EPCOT, original city and later theme park ↩ 本文
  92. D23 — Behind the Scenes of Walt’s Last Dream,1966 production sheets ↩ 本文
  93. US Congressional Record1967-01-12 — contemporaneous1966 obituaries and Roy statement ↩ 本文
  94. UniversityColoradoBoulder —WhyDisneyland onMountain neverhappened,16Oct2023 ↩ 本文
  95. The Walt Disney Company — FY2025 Annual Financial Report, consolidated income statement ↩ 本文

写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。

※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD

本文更新:2026-11-02

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