THE STORY
アマンシオ・オルテガの物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01母が買えなかったもの
鉄道員の家に生まれる
1936年3月28日、アマンシオ・オルテガはスペイン北部・レオン県の山あいの村、ブスドンゴ・デ・アルバスに生まれた。父は鉄道員だった。家族は仕事に伴って移り住み、1944年、スペイン北西部・ガリシア地方の港町ア・コルーニャへ来た。[1]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。
生まれた年の夏には、スペイン内戦が始まった。戦後も経済は停滞し、外国との取引を厳しく制限する政策の下で、物資とお金の足りない暮らしが続いた。少年が育ったのは、後年の観光地として豊かなスペインとは違う国だった。[2]
そのころの家族について、本人が公認伝記の著者コバドンガ・オシェアに語った出来事がある。母が食料品店で掛け売りを断られた。必要なものがあっても、今はお金を払えない。彼は母の受けた扱いを知り、働こうと決めたという。[3]
やがて世界の主要都市で大きな建物を買う人になるが、最初に直面したのは、家の食料をどう買うかだった。父には仕事があっても、子どもたちが長く学校へ通い、ゆっくり職業を選べるだけの余裕はなかった。オルテガは衣服を売る店へ入った。[1]
窓を磨いて商品を運ぶ
1950年、14歳のオルテガはア・コルーニャのシャツ店Galaで働き始めた。仕事は使い走りだった。ショーウインドーを掃除し、仕上がった品を客へ届ける。最初から売り場の中心に立ち、仕入れを決められたわけではなかった。[4][1]

写真:Nemigo/出典/CC0。表示用の縮小・圧縮。
客は生地や色、形を選ぶ。店はその希望を受けて服を用意する。自分たちが作りたいものを先に大量に作り、誰かが買うのを待つ商売ではない。届ける品を通じて、オルテガは客の注文から服が生まれる流れに触れた。[1]
店の用事を覚え、働くうちに接客もするようになった。衣服はまだ、自分の名前がつく商品ではない。それでも、何を求める人に、どんなものを渡すのかという経験が、毎日の仕事として積み上がった。[1]
02閉店後に始まる家族の仕事
La Majaで出会ったロサリア
次に移ったLa Majaは、より大きく、商業地のよい場所にある衣料品店だった。兄アントニオや姉ペピタも働いていた。この店でオルテガは、のちに結婚し、事業をともに始めるロサリア・メラと出会った。[5][1]
メラも11歳で学校を離れた。家の暮らしが苦しく、叔母のもとで過ごした時期もあった。15歳で友人とLa Majaへ仕事を求めに行き、採用されたのは自分だった。売り場でオルテガと出会うまでに、彼女も既に、暮らすため働くことを知っていた。[6]
店の大切な役職は、経営する家の子どもたちが占めていた。メラが後に語ったところでは、店員のままで終わりたくないというオルテガの不満と意欲が、独立のきっかけになった。自分の職場で上へ進めないなら、別の仕事をつくる。2人の事業には、今の店の中では手に入らない役割を、自分たちで持つという面もあった。[6]
La Majaの仕事が終わると、兄弟や仲間はSarriónという酒場へ集まった。商品を作る会社と、客へ売る会社の間に人が入る。そこを自分たちでつなげられないか。店で得た知識を持ち寄り、仕事の後にも、自分たちで売る服の話を重ねた。[1]
ミシンを動かした人々
初めの作業場は、兄アントニオの家だった。仕事はまだ辞めない。昼の勤めを続けたまま、自分たちの商品も用意する。手狭になると、ア・コルーニャのオス・マジョス地区、サン・ロセンド通りのガレージへ広がった。[1]
ミシンは信用で買った。手元の現金だけで道具をそろえたのではなく、これから作る服で支払いへつなげる。ロサリア、兄の妻プリミティバ、母ホセファが、兄弟から聞く客の希望やほかの店の商品を形へ変えた。生地を縫い合わせ、売れる衣服へ仕上げる。姉ペピタは帳簿を担った。[1][6]
オルテガと兄は、La Majaの客と接する仕事を続けながら、自分たちの服も売る。店へ立つ人と、家で縫う人が、同じ暮らしの中にいた。初めの工場には、縫製機械だけでなく、その人々の仕事が必要だった。[1]
小さな部屋では、裁断するためテーブルを動かし、床に生地を広げた。まだ大きな裁断台を並べられる場所はなかった。メラは後に、その事業へ本腰を入れるため、仲間より先にLa Majaの仕事を辞めたと振り返っている。オルテガたちが勤めの給料を保つ間、彼女は自分たちの服を作る仕事へ移っていた。[6]
03最初の商品はガウンだった
1963年の小さな事業
1963年、オルテガは衣服を作る事業を始めた。後のGOA、そしてInditexにつながる出発点である。主力は、詰め物を入れたガウン。家で羽織り、近所へ買い物に出るときにも使われる服だった。[7][6]

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高価なガウンに手が届く人は限られていたが、同じような服を欲しい人はほかにもいた。見栄えのする生地を使い、作り方と値段を工夫できれば、買える人を増やせる。彼らが挑んだのは、誰も着たことのない奇抜な服ではなく、欲しくても高かった身近な服だった。[8]
卸先の向こうは見えない
1963年に仕事を始め、1972年にはConfecciones GOAという会社組織が設立された。ZARAが開くより前に、製造の仕事を10年以上重ねている。衣服を作る小さな試みは、外へ商品を供給する会社へ育っていた。[9]
ただ、工場から卸先へ渡すと、その先で客がどう反応したかは直接つかみにくい。どの色が売れ、何が嫌われ、どれだけ値下げすれば買われたのか。作る側へ届く情報は、売り場から離れるほど遅くなる。[8]
04ZARAの前に失敗した店
Sprintが続かなかった
1971年、ア・コルーニャのトレイロ通りにSprintという店を始めた。ZARAより先に、自分たちの売り場を作ったのだ。しかし、この試みは成功しなかった。服を製造できることと、店に客が入り、買ってもらえることは違った。[4]
その時点で衣服の事業を捨てたわけではない。卸先へ売る仕事を続け、会社を整える。後に大成功する看板から振り返ると見えにくいが、最初の自分たちの店は、ZARAではなかった。[4]
1975年には、ドイツの卸売客による大口注文の取り消しが、直接販売の店を開く契機になった。[10]
注文が消えても、出来上がった服は残る。生地や働いた人への支払いも消えない。自分たちで客へ売れる場所は、工場で作ったものをお金へ戻す出口になった。そして店を持つと、誰が何を買ったのかという情報も手に入った。[8]
Zorbaの文字を組み替える
1975年、ア・コルーニャのフアン・フローレス通りに最初のZARAが開いた。オルテガは39歳。シャツ店で働き始めてから、すでに四半世紀がたっていた。[11]

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考えていた名前はZorbaだった。映画『その男ゾルバ』から取ったものだが、近くに同名の店があった。すでに作っていた看板の文字を組み替えて、別の名前を探す。そうしてZARAになったと、会社の広報責任者は後年説明した。[12]
自分の名前を大きく掲げるブランドではなかった。店へ来る客は、アマンシオ・オルテガを知っている必要がない。並んでいる服と値段が、店に入る理由になればよかった。[8]
05外した服を作り続けない
売り場から工場へ戻る情報
自分たちで店を運営すると、卸売りの向こう側にあった反応が見える。どんな商品がすぐになくなり、どれが残るのか。店で起きたことを、次に作る服へ戻せるようになった。[13][8]
新しい服を少量ずつ入れ、反応を見ながら変える。何か月も前に大量生産を決め、売れなくても同じ商品を並べ続けるやり方とは違う。売れると思った服が外れても、その1種類へ資金と売り場を預けたままにしない。[8]
客が次に来たときには、別の服がある。いつ行っても同じものを買える店とは違い、見つけた今、買う理由が生まれた。商品を変える速さは、店へ戻ってくる回数にも影響する。[14]
2001年に公表された本社取材では、1店へ送る数量は、ある形の上着なら5着、別のセーターなら8着という小さな単位だった。よく売れるとわかれば、店長は追加を求める。その注文を本社が処理し、週に2度、補充するトラックを送り出す。ヨーロッパの外の店舗へは飛行機も使った。[15]
安く運ぶため、荷物が十分に集まるまで次の便を待つ。それだけでは、売り場に空いた場所を埋められない。入ってきた服は、見られ、買われ、なくなれば次の注文を動かす。小さな数量で切れる売り場と、それに間に合わせる発送を、同じ周期に乗せようとした。[15][8]
安い工賃だけでは決めない
需要に合わせて服を変えるには、生地の会社も一緒に動かなければならない。オルテガが取引したポルトガル北部の繊維会社Riopeleのジョゼ・アレシャンドレ・デ・オリヴェイラは、1980年代末に彼と出会った。自分は30歳、相手は50代。以後、長く服の材料を供給することになる。[16]
取引は、安い生地を決められた量だけ買うものではなかった。オリヴェイラが語る発注では、最初に4万メートルを求められ、数時間後にさらに6万メートル、そのまた数時間後には8万メートルとなる。注文に応えるには、電話が来てから考え始めるのでは遅かった。[16]
オルテガが求めたのは、今日の注文を明日へ間に合わせる速さだった。供給者には、交渉の厳しい人でもあったという。客が欲しいのは前日の魚ではなく新鮮な魚だという例えで、服を店へ送る速さを求めた。流行を変える店の裏で、生地の会社の働き方も変えようとした。[16]
遠くで安く縫っても、届いたころに売れなければ在庫になる。近くで作る費用が高くても、客の反応を見てから数量を変えられるなら、売れ残りを抑えられる。会社は自社の生産と外部の製造先を組み合わせ、納期と費用の両方を見た。[8][17]
Riopeleの工場へは、小さかった娘マルタも両親と訪れたという。父の会社は、自分たちの本社だけで動くものではない。娘は、服の材料を作る人々のいる場所も見ながら育っていった。[16]
06服屋に別の頭脳が来る
1976年のコンピューター
1976年、オルテガは事業のために最初のコンピューターを購入した。商品を作り、在庫を扱い、どこへ何を送るかを知る仕事に、早くから道具を入れようとした。店の表の装飾だけでなく、裏側の処理にもお金を使った。[18]
オルテガは10代から服を扱ってきたが、大規模な情報システムや企業財務を専門に学んだわけではない。店が増えれば、自分が知っている客だけを見て決めることもできなくなる。自分にできない仕事を担える人が必要になった。[19]
1980年代、ホセ・マリア・カステジャノがその隣に加わった。経済学の博士号と、情報システムや財務の経験を持つ経営者である。服を知る創業者と、会社の仕組みを作る専門家が組む。のちに20年以上続く協働の始まりだった。[19][20]
Inditexへまとめる
1985年、製造や店舗運営などの会社が、Inditexというグループへまとめられた。ZARAは店の看板であり、Inditexはその後も増えるブランドや仕事を束ねる企業になる。[11]

写真:Nemigo; perspective correction by Lojwe (2025)/出典/PD-author。表示用の縮小・圧縮。
本社は商品の企画から物流までをつなぎ、店から情報を受け取る。店長が毎日の客を見ていることと、本社が複数店の在庫を見ていることは違う。その両方を商売の判断へ使おうとした。[21]
1980年代末からは、Toyotaとの協力によるJust-in-Time方式の導入など、生産を連携させる改善も進めた。必要なものを必要な量だけ流す考え方を、形も色も需要も変わりやすい衣服へ持ち込む。服屋は、作る速さだけでなく、作らない判断を支える仕組みも整えていった。[18]
07国境が開いて競争相手も来る
外へ出る理由
1986年、スペインは欧州共同体へ加盟した。外国へ売りやすくなる一方、国外の企業も自国へ入ってくる。カステジャノは後年、競争が国際化するなら、自分たちも外へ行く必要があったと語っている。[22][19]
1988年、初めての海外店舗が、隣国ポルトガル北部の商業都市ポルトに開いた。翌1989年にはニューヨーク、1990年にはパリへ進む。海沿いの地方都市で始まった店が、世界の大都市でほかのブランドと並んだ。[11]
ニューヨークの店は、すぐに利益を生む成功ではなかった。カステジャノは後に、アメリカで黒字になるまで5〜6年かかったと説明した。近いポルトガルやフランスは物流の面で選び、遠いアメリカには、世界へ会社を見せるショーウインドーとしての役割も求めた。[19]
看板を出した年からもうかるなら、海外進出はわかりやすい。だが現実には、家賃を払い、服を送り、働く人を置いたまま、客をつかむまで続けなければならない。地方で育てた会社は、いちばん有名な街でも、自分たちが慣れた通りと同じには売れなかった。[19]
違う客へ違う看板
1991年、カジュアル衣料のPull&Bearを始め、同年にMassimo Duttiへの出資も進めた。若い客に向けたBershkaは1998年、Stradivariusは翌1999年にグループへ加わる。[23]
どの店にも同じ服を並べるのではない。落ち着いた装いを求める人にも、若い流行を追う人にも、別の入口を作る。各ブランドが商品と売り場の個性を持ち、その後ろをグループの管理や物流で支えた。[21]
広告の代わりに店へ投じる
ZARAは、有名デザイナーや創業者の顔を広告で押し出すことを中心にしなかった。主要な商業地の店とショーウインドーに力を注ぐ。通りかかった人が服を見て、中へ入れる場所にお金を置いた。[8]
よい場所を借り、内装を整え、服を入れ替える。その店を街の中の広告にする。新しい売り場の作り方も、いきなり世界へ同じものを配るのではなかった。2011年ごろ、オルテガがア・コルーニャ郊外の商業施設のZARAへ来た姿が報じられた。新しい店の構想を、自分で確かめるためだった。[8][24]
その後、2012年のニューヨーク5番街の大型店に、新しい売り場の形が現れた。3階に分かれた3000平方メートル超の店内を、長い通路が貫く。周囲には、まとまりごとの商品を見せる小さな売り場が並ぶ。各地へ商品を送る仕組みだけでなく、その服をどう見てもらうかを、地元の店から試していた。[24]
08家族は別々の人生へ進む
ロサリアが選んだ仕事
1986年、オルテガとロサリア・メラは離婚した。事業が大きくなっても、結婚生活は続かなかった。メラは株主であり続け、自分自身の活動を広げた。[25]
同年、彼女はPaideia Galiza財団を設立した。障害のある人たちの社会参加などを支える組織である。2人の息子マルコスには重い障害があり、メラは息子の暮らしを支えるため、事業の前線から離れていた。服を縫う場所でともに働き始めた2人には、同じ会社を成長させるだけでは引き受けきれない家族の時間もあった。[26][6]
Paideiaは、支援を受ける人を、何かができない人として置いておくのでなく、それぞれの力や働く可能性を広げようとする組織だった。メラは自分の持つ資産を、会社の売上とは違う形で、人が社会へ参加する仕事へ回した。離婚後も株主であり続けた彼女は、別の組織を率いる人でもあった。[26]
オルテガは後に、同じ会社で働いてきたフローラ・ペレスと結婚した。彼女自身も商品企画や買い付けの経験を持ち、その後はPontegadeaや財団の運営にも携わる。娘マルタも、やがて会社へ入る。[7]
0965歳で株式を公開する
1株14.70ユーロ(約2,585円)
2001年5月23日、Inditexは株式市場へ出た。公募価格は1株14.70ユーロ(約2,585円)。オルテガは65歳だった。ガウンの製造を始めてから約40年、最初のZARAから26年を経て、世界の投資家が会社の持分を売買するようになった。[27]
上場の準備は、特別な部門へ全部を渡して終わるものではなかった。カステジャノによれば、5人のチームが普段の仕事を続けながら、上場前、当日、その後に必要なことを準備した。かかった時間は約2年。会社を動かしながら、外から株主を迎える仕組みも整えていた。[19]
家族が持つ株式を現金にしやすくし、相続も考える。そして経営陣には、1人の大株主だけでなく市場へ説明する責任を持たせる。創業者が年を取っても同じ形では続けられないという事情を、上場で解こうとした。[19]
働いてきた人にも株を渡す
上場に合わせ、従業員へ株式を配る仕組みも用意された。在籍条件と勤続年数に応じ、最低50株、最大1000株。対象とされた従業員は当時2万3000人だった。公募価格で計算すれば、50株は735ユーロ(約12万9286円)、1000株なら1万4700ユーロ(約258万5730円)分に当たる。店や物流や工場で働いてきた人へ、会社の持分として渡す計画だった。[28]
少年時代に給料をもらうため店へ入ったオルテガは、今度は巨大企業の株式を持つ側になった。その資産額は、1日いくら売ったかだけでは決まらない。持ち続ける株の値段と、そこから受け取る配当が、後半生の富を大きくしていった。[29][30]
10相棒の退任
服ではない投資をめぐって
2005年、長年組んできたカステジャノがInditexを去った。同年に動いていたのは、電力会社Unión Fenosaの株式取得をめぐる案件だった。ガリシアの投資家たちがBanco Santanderの持分を買おうとしたが、実現しなかった。[31]
カステジャノは退任後、その案件を知らされたのが遅く、問題を直すには手遅れだったと批判した。会社は個人的な理由による退任と発表した。服の事業をともに世界へ広げた2人の最後について、本人の説明と会社の発表は同じではなかった。[32][31]
同じ2005年、CEOにパブロ・イスラを迎えた。Altadisを率いた専門経営者で、創業家の子どもではない。外から経営を担う人を招き、商品と商売に近い創業者を、専門性の違う人が支える体制が続いた。[33]
2025年、カステジャノが亡くなったとき、オルテガは会社の歴史に欠かせない人物として追悼した。別れたあとの長い年月を経ても、会社を育てた仕事まで消えたわけではなかった。[20]
111つのサイズが売り場を止める
ダラスで店長の仕事を見る
2000年代半ば、ZARAは店が増えるほど難しくなる問題を抱えていた。どの店へ、どのサイズを、何枚送ればよいか。ある店では足りず、別の店には余る。店長の注文を集めるだけでは、限られた在庫をうまく配れなくなっていた。[34]
改善に加わったMITの大学院生フアン・コレアは、アメリカ南部・テキサス州の大都市ダラスで、店長の仕事を見た。本社の表にある在庫数だけでは、売り場で何が起きるかが分からない。服があるのに、売れない状態があった。[34]
重要なサイズが欠けると、残りのサイズがあっても、その商品を陳列から外す場合がある。売れ残ったサイズだけをずっと置くより、新しい服へ場所を渡すための運用だった。[14]
在庫を均等に配ればよいわけではない
そのルールの下では、各店へ少しずつ同じ数を送ると、どこにも十分なサイズがそろわないことがある。逆に人気サイズを足すことで、ほかのサイズも売り場に残せる店がある。数だけでなく、組み合わせが重要だった。[14]
フェリペ・カロとジェレミー・ガリエンらは、各店の需要とサイズ、全体の在庫を組み合わせ、出荷の配分を計算する方法を作った。比較実験では売上が3〜4%増えると推定された。同じ服を作っていても、どこへ届けるかを変えることで、売れる数が変わった。[14]
流行の形や色を選ぶ人の判断を、数式がすべて置き換えたのではない。大量の店へサイズを配るところで、計算の力を使った。商品を見る現場の人と、店全体の在庫を見る仕組みが、同じ服を支えた。[35]
12成功した会社を疑う
教授たちに語った70代の創業者
2007年6月、オルテガはア・コルーニャ近郊の町アルテイショで、ビジネススクールの教授たちと話した。最初から大きな戦略を持っていたのではなく、事業を作りながら広げたと説明した。税務や財務、人事など、自分の専門でない仕事は人へ任せ、商品と流通へ力を注いできた。[36]
すでに大きな成功を手にした71歳だったが、自己満足には厳しかった。組織を根底から見直すため、支払いが行き詰まるほどの危機さえ想像する必要があると語った。実際の倒産経験を告白したのではなく、うまくいっている会社を疑うための言葉だった。[37]
その会社にも、新しい客との接点が来ていた。2009年の会長書簡では、交流サイトやスマートフォンを通じた変化に触れた。自分が立ってきた店の外側でも、客は商品を見て話している。その場所へ会社も出ていく必要があった。[38]
6か国でネット販売を始める
2010年9月2日、ZARAはスペイン、英国、ポルトガル、フランス、ドイツ、イタリアの6か国でオンライン販売を始めた。物理的な店で成長してきた会社が、別の売り場を開いた。[39]
写真を見せて注文を受けるだけではない。配送や返品に対応し、店舗の商品との関係を整える。客には同じZARAでも、店にはあるのにネットでは売り切れなら、その服は買えない。会社は店とオンラインの在庫をつなぐ方向へ進んだ。[40]
13会長の椅子を渡す
社員へ送った手紙
2011年1月、オルテガは従業員へ手紙を送った。次の株主総会でパブロ・イスラを会長に推薦し、自分は取締役会に残る。74歳の創業者が、会社を率いる役割を渡す予定を伝えた。[41]
手紙では、社員の働きによって会社が強くなり、専門家と確かな組織が整ったことを強調した。次の段階を担う人へ、仕事を渡せる状態になったという説明だった。7月にはイスラが会長兼CEOとなった。[41][33]
肩書きを渡しても、主要株主であることと、商品への関心はなくならなかった。オルテガはその後も本社へ通った。90歳を迎えた2026年の地元報道でも、仕事場へ来る姿が伝えられている。[42]
一緒に働く人も商品も近くにあるアルテイショ。生まれた村から港町へ来て、その近郊で会社を育てた彼は、世界へ店を広げたあとも、その土地を離れて暮らすことを選ばなかった。[7][42]
14縫っていたのは誰か
ブラジルの作業場
2011年、ブラジル南東部の大都市サンパウロで、ZARAの商品を縫う下請けの作業場に労働当局の調査が入った。取引先AHAがさらに仕事を出した2か所から、14歳の少女を含む15人が救出された。取材に同行したRepórter Brasilによれば、1日の労働は最長16時間。移住にかかった交通費などが借金として記録され、外へ出るにも許可を求める状態だった。[43]
そのうちの作業場では、AHAから服1着につき7ブラジルレアル(約202円)ほどが支払われ、縫う人へ回るのは平均2ブラジルレアル(約57円)だったと労働者が話している。新しい服を速く安く届ける商売の末端で、働く人は別の国から来るための借金を背負い、住む場所と仕事場を一緒にしていた。[43]
Inditexは、AHAが無断の再委託を隠していたと主張した。直接の取引先からさらに先へ渡った仕事を、どう把握し、止めるかが問われた。2011年12月、ZARAブラジルは労働検察と、供給網の監督などを含む是正合意を結ぶ。[44][45]
しかし、書面を結んで終わりにはならなかった。労働当局は、その後の確認で合意の付随条項への違反を認めた。2017年5月には新たな合意が承認され、ZARAは500万ブラジルレアル(約1億円)を、奴隷的労働や児童労働にかかわる権利回復などの社会事業へ出すことになった。供給網でそうした労働が見つかった場合の責任も、より明確にされた。[46]
この2017年の措置は、新たに奴隷的な労働が確認されたとの結論ではない。労働検察は、その回の調査でそうした実態は確認されず、旧合意の付随条項への違反があったと説明している。2011年の作業場の実態と、その後に会社が守るべき監督の約束。両方が、ブランドの責任として残った。[46]
協定を現場へ届かせる
Inditexは2007年から国際労働組合との枠組み協定を持っていた。供給網にも団結権や団体交渉の尊重を広げようとするものだ。2022年には、現地の労組や労働者代表が、実施により関われる体制へ更新された。[47][48]
家族が自宅で縫っていたころは、作る人の顔が見えた。世界へ広がった会社では、外部の工場や、さらに先へ出された仕事まで届かなければ、その距離は埋まらない。監査や、働く人が話せる仕組みが必要になった。[48]
15ロサリアを見送る
共同創業者の死
2013年8月、ロサリア・メラが69歳で亡くなった。Inditexは、創業と発展に大きく貢献した共同創業者として哀悼の意を表した。オルテガもア・コルーニャで彼女を見送った。[49]
メラは工場も大きな店もない時期に服を作り、株主となり、その後は自分の財団で仕事を続けた。創業者の元妻という呼び方だけでは、その働いた年月は伝わらない。ZARAの看板が生まれる前から、彼女の仕事があった。[6][26]
161着の場所を知る
小さなタグを回す
2014年、ZARAはRFIDを本格的に導入した。電波で商品を識別し、同じ商品が何枚あるかだけでなく、1着ずつを追うための仕組みだ。物流拠点から店へ動く服の情報を、もっと細かく扱えるようにした。[50]
盗難防止タグと組み合わせ、販売時に外して再利用する方式も使われた。何をつけ、誰が外し、どう回収して再び使うか。最新技術を買うだけでなく、店員が毎日扱える仕事へ組み込む必要があった。[51]
客がサイズを尋ねたとき、帳簿にはあるのに探せなければ売れない。どこに何があるかを正確につかむことが、店の在庫をオンライン注文へ使うための基盤にもなった。2018年には全ブランドを2020年までに世界中でオンライン購入できるようにする方針を示した。[40]
数時間で引き上げた服
同じ2014年、ZARAは子ども用のしま模様の服で強い批判を受けた。胸に黄色い星がついており、ナチスに迫害されたユダヤ人の衣服を連想させると問題になった。会社は西部劇の保安官をイメージしたものと説明し、謝罪した。[52]
店舗とオンラインから商品を撤去した。年次報告では、複数国からの苦情を受け、50か国以上で数時間のうちに引き上げたと記録している。世界へ服を送る仕組みが、今度は止めて回収するために動いた。[50]
売れない服を見つけて作り直すだけでは済まない。客がその服をどう受け取るかには、好みや価格と違う歴史もあった。多くの国へ同じ商品を運べる力が、問題の広がる速さにもなった。[52]
1780歳の朝に社員が待っていた
エレベーターの外に娘がいる
2016年、オルテガは80歳になった。アルテイショの本社へ来てエレベーターから出ると、娘マルタが待っている。社員たちが拍手で迎えた。創業者に隠して準備された、誕生日の祝賀だった。[53]
娘に付き添われて社内を歩く。通路には働く人が並び、歌と拍手が続く。遠い国のブランドや店、工場の人々も、映像で祝賀へ加わっていた。普段は取材やカメラの前へ出ない男が、この日は涙を見せた。祝われている人物は、かつてほかの店で商品を運び、窓を磨いていた少年だった。[53][54]
祝賀の映像が外へ広がると、ZARAという名前の後ろにいる人の姿も広く知られた。新商品の発表会で創業者を主役にするのではなく、社員に囲まれ、娘と一緒に歩く姿だった。会社を渡しても、本社へ来る生活は続いていた。[54]
成長の一部を働く人へ渡す
その頃、Inditexは社員へ利益の伸びを分ける制度も始めていた。2015〜2016年の特別な計画では、前年から増えた純利益の10%、ただし利益総額の2%を上限とする枠を用意する。[55]
会社の報告では、この最初の計画で50か国の8万4000人以上へ、合わせて7900万ユーロ(約138億円)超が分配された。上場の時には株式を渡し、今度は利益の増えた分を分ける。祝賀の日に拍手を送る社員たちの仕事は、売上表の後ろへ消えるだけではなく、支払いの条件にも反映された。[55]
18服のポケットから届いた訴え
縫ったのに給料がない
2017年、トルコ北西部の大都市イスタンブールの店舗で、服に置かれたメモが報じられた。その服を作ったのに給料をもらっていない、という訴えだった。背後には、閉鎖した工場の未払いの問題があった。[56]
服を作っていたBravo Tekstilは、2016年に操業を止めていた。Inditexの説明では、工場の所有者が、ブランドから支払われた金を持ったまま姿を消した。会社は、工場との契約上の支払いは果たしたとした。だが服を縫った人には、給料が届かなかった。[56]
客は店で服の代金を払う。ブランドからは製造の代金が出ている。それでも、実際に縫う人の生活費が途中で途切れる。売れた数量や納期を正確に把握する会社にも、取引先の先で働く人へ金が届くかという別の管理が必要だった。[56]
Inditexは、ほかに同じ工場へ発注していたMango、Nextと、労組を交えて救済基金を検討した。ブランド側へ責任を求めた労働者たちは、未払賃金や退職に伴う支払いを受けようと運動を続ける。[56]
基金ができても終わらない
2018年4月、支援するClean Clothes Campaignは、労働者140人が、一部の支払いを受け入れたと公表した。全額を受け取ったのではなく、ブランド側が用意した基金からの部分的な支払いだった。[57]
労働側の説明では、当初は一定の現場労働者だけを対象にする案に対し、監督職なども含めた全員を対象とするよう求めた。しかし対象が広がっても総額は増えず、取り残された人や、十分な金を受け取れない人が残ったとして、なお異議を唱えた。[57]
ブラジルでは、取引先がさらに仕事を出した作業場が問題になった。トルコでは、発注した工場へ金を払っていても、働く人へ流れない事態が起きた。店と工場を速くつなぐ仕事の裏で、誰が給料を最後まで届けるのかも問われた。[44][56][57]
19店が世界中で閉まる
2020年の休業
2020年、新型コロナウイルスの流行で、Inditexのすべての店舗が年のどこかで休業を経験した。最も厳しい時期には88%が閉まった。良い場所に店を持ち、客に服を見てもらう。その会社の強みが、突然使えなくなった。[58]

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新しい服を運んでも、客が店へ入れない。今ある商品の価値は季節とともに変わる。2020年度の売上は204億200万ユーロ(約3兆5887億円)へ落ちた。ネット販売の伸びだけでは、世界中の店で失った売上をすべて埋められなかった。[59]
この危機を動かしたのは、すでに会長を退いていたオルテガ1人ではない。イスラを中心とする経営陣と、店舗、物流、システムの人々だった。それまでつないできた店とオンラインの在庫を、売り場が閉まった状態で使うことになった。[58]
閉じた店の中から出荷する
店にある服を、ネットの注文へ回した。2020年には店舗の在庫を使い、4600万件、11億6000万ユーロ(約2040億円)分の注文を処理したと会社は報告した。店を開けられなくても、中にある服を動かせた。[58]
オンライン売上は66億ユーロ(約1兆1609億円)となり、為替の影響を除くと77%増えた。店舗とネットを別々にしていたら、閉じた店の在庫はそのまま眠ったかもしれない。1着の居場所を知り、別の注文へ使うための投資が、危機の中で働いた。[59]
20娘が座る椅子
会長とCEOを分ける
2022年4月、娘マルタ・オルテガがInditexの非業務執行会長に就いた。日々の経営を率いるCEOは、オスカル・ガルシア・マセイラスが担った。父の役割を、そのまま娘1人へ渡した形ではなかった。[60]
マルタは2007年に会社へ入り、海外や商品開発の仕事を経験していた。最初にロンドンの店で働いた時は、最初の1週間を乗り切れないのではと思うほどだったと、後のインタビューで語る。やがて店に夢中になる。父が10代で入った世界へ、大学で学んだ娘も、別の条件で入っていった。[7][61]
2021年のその取材で、彼女はアルテイショでほかの社員と机を共有して働くことにも触れた。父の長所として挙げたのは、何でも自分が最も上手にできることより、それぞれの仕事をする最適な人を見つけることだった。マルタは、できあがった企業の所有者の家で育ちながら、その会社を誰がどう動かすかも学んでいた。[61]
オルテガ自身は、支配する会社を通じて、2026年1月末にもInditex株の59.294%を間接保有していた。会長を渡しても、所有の面では過半数を握る。経営を担う役割と、持ち続ける力は、同じではなかった。[29]
店を減らして売上を伸ばす
2025年度のInditexの売上は398億6400万ユーロ(約7兆120億円)、純利益は62億2000万ユーロ(約1兆940億円)。年度末の店舗は5460店だった。前年より店を減らしても、売上は伸びた。[62]
小さな店を整理し、主要店舗を大きくし、改装する。オンラインと店舗を組み合わせて販売する。2024〜2025年には物流能力の拡張にも大きな投資を進めた。店がいくつあるかだけでなく、その1店が何を担い、どこまで商品を届けられるかを変えていた。[63][64]
21配当が巨大な建物に変わる
4億ユーロ(約703億円)のTorre Picasso
服の会社の株式を長く持つと、毎年の利益の一部を配当で受け取る。オルテガはその資金を、Pontegadeaを通じた不動産などへの投資へ回してきた。流行で入れ替わる服と、何十年も残る建物。その両方が、彼の資産を育てるようになった。[30]
2011年12月、Pontegadeaはスペインの首都マドリードにある高層ビルTorre Picassoを4億ユーロ(約703億円)で取得した。売主FCCが公表した金額だ。衣料品店へ商品を届けていた少年が、今度は大きな建物を買い、そこを使う企業から収入を得る側になった。[65]
会社の成長を株式の値上がりだけで持つのではなく、受け取った配当を別の収入源へ変える。長く貸せる建物は、次の季節にどんな服が流行するかとは違う条件で動く。Pontegadeaは、そのための組織になった。[66]
Amazonが働く建物も買う
2019年3月には、アメリカ北西部・ワシントン州の都市シアトルで、Troy Blockを取得した。Amazonが借りるオフィス群で、地元紙が登記を確認して報じた取引額は、7億3990万ドル(約1166億円)近くだった。ZARAへ客を呼ぶ店とは別に、今度はインターネットの巨人が働く場所を資産へ加えた。[67]
売主は、開発会社TouchstoneとUSAAの共同事業体だった。Pontegadeaは、服を売って得る利益から配当を受け取り、それを別の会社が長く使う場所へ置く。毎年の流行が変わる衣服の商売と、大きな企業から家賃を得る投資が、同じ資産の中へ並んだ。[67][30]
12億カナダドル(約1353億円)のRoyal Bank Plaza
2022年には、カナダ東部・オンタリオ州の大都市トロントで、Royal Bank Plazaを取得した。金額は12億カナダドル(約1353億円)。金融街に建つオフィスビルで、取引を助言したColliersの資料にも購入額が示されている。[68][69]
服を売る店とは違い、大きな企業が働く場所そのものを持つ。オフィスだけでなく、住宅や物流施設も資産に加わった。アイルランドの登記決算を追った報道では、ダブリンの住宅物件などから収入を得る様子も確認されている。[70]
物流の建物へも広がる
2022年には、アメリカの物流施設をまとめて取得する交渉が明らかになった。規模は9億500万ドル(約1426億円)。AmazonやFedExなどが借り、長期の契約で使う施設だった。PontegadeaがReutersへ示したのは、信頼できる借り手と、中長期の収入を見込める資産を求めるという方針だった。[71]
2026年6月、カナダのスペイン商工会議所は、会員企業Pontegadeaによる別の取得を伝えた。オンタリオ州の都市オシャワにある、乳製品大手Lactalisが使う物流拠点。取得額は1億8700万カナダドル(約210億円)で、広さは11万6000平方メートルだった。2024年に完成した施設を、商品を扱う企業ごと手に入れるのではなく、貸し手として持つ。[72]
世界へ店を出す会社の持分は残したまま、ほかの会社が働く場所を持つ。その広がりの中には、街の目印になる高層ビルもあれば、買い物客が普段入らない大きな物流施設もあった。[30][72]
2026年10月30日時点、Forbesはオルテガの純資産を1450億ドル(約22兆8520億円)と推定した。Inditexの大きな持分と、別の資産へ回した長年の蓄積が、その富の土台になっていた。[73]
Pontegadeaの連結決算には、傘下のInditexの事業も入る。投資会社の売上と服の会社の売上を足して、別々に稼いだ数字にはできない。大きくなった資産は、物件ごとの会社と、持株会社と、上場企業が重なる形で管理されていた。[66]
22風と太陽からも収入を得る
2億4500万ユーロ(約430億円)で風力へ
Pontegadeaが増やしたのは建物だけではなかった。2021年11月、エネルギー大手Repsolが運営する風力発電事業Deltaの49%を、2億4500万ユーロ(約430億円)で取得すると発表した。スペイン北東部・アラゴン州サラゴサ県で、同年3月から全面稼働していた335メガワットの発電事業だった。[74]
机の上だけにある未来の発電所へ賭けるのではなく、既に動いている事業へ共同出資する。Repsol側はその資金を次の開発へ回せる。Pontegadea側は、服の販売や不動産とは別の収入源を持つ。取引相手のCEOは新たな開発を速められると説明し、Pontegadeaのロベルト・シベイラは、全体の投資方針に沿う案件だとした。[74]
2023年には、さらにRepsolの風力と太陽光の資産群へ3億6300万ユーロ(約638億円)を入れ、49%を取得する。対象は風力発電所12か所と太陽光の拠点2か所。全体の評価額は7億4000万ユーロ(約1301億円)だった。[75]
会長を退いた後も、株式から受け取る富は止まらない。その金の置き場所を決める投資会社には専門経営者がいて、建物の管理会社やエネルギー企業が相手に加わる。家族と服を縫う仕事から始まった資産は、オルテガが全てを直接運営するのとは違う形で増えていった。[75][66]
23次の世代へ渡す費用
留学へ送り出す
2001年、オルテガは自分の名を持つ財団を設立した。元妻メラのPaideia Galizaとは別の組織で、教育や社会福祉を支える。妻フローラも運営に関わり、2023年に会長となった。[7]
2010年に始まった留学奨学金では、スペインの高校生がカナダやアメリカで学ぶ。渡航、授業、ホームステイ、保険などの費用を支える仕組みだ。本人は14歳で働き始めたが、次の世代には、働く以外の場所で時間を過ごせる費用も出した。[76]
3億2000万ユーロ(約562億円)に集まった賛否
財団は2017年、スペインの公的医療へ、がんの診断や治療の機器を提供するため、3億2000万ユーロ(約562億円)を寄付すると発表した。2015年にガリシアから始めた設備更新を、各地へ広げる構想だった。必要なものは各地域の医療担当者へ聞き、既にある計画を早めるのだと財団は説明した。[77]
医療機器を増やせる寄付へ、感謝の声が上がった。スペインの放射線腫瘍学の学会も、公の場で支援を評価した。一方、公的医療を大富豪の善意へ頼らせてよいのか、富を生む企業と税のあり方を先に問うべきではないかという批判も出た。[78]
病院へ2億8000万ユーロ(約492億円)
2021年、財団はスペイン政府などと、陽子線治療の装置10台を公的医療へ導入するため、2億8000万ユーロ(約492億円)を寄付することで合意した。がんの治療に使われ、小児がんや治療しにくい場所の腫瘍などで重要になる設備だった。[79]
縫製のミシンや物流設備へ使ってきたお金が、別の人が治療を受けるための機械にも向かう。店へ届く服とは違う形で、資産が現物へ変わった。財団の事業には、誰に何を渡すかという、会社経営とは別の選択があった。[79]
24売ったあとにも服は残る
速く入れ替える商売の外側
新しい服が次々に来ることは、ZARAへ通う理由になった。一方で、使い終わった衣服は店の決算から消えても、社会から消えるわけではない。生地を作り、染め、縫い、運び、洗い、捨てるまで、水やエネルギーや材料を使う。[80]
欧州環境庁は、長く着ること、修理や再利用、循環する事業の必要性を指摘している。Inditexも2022年、混合繊維を再び原料へ戻す技術を開発するCircへ出資した。生産と消費をどう変えるかは、納期を短くするだけでは解けない問題だった。[80][60]
国連環境計画も、素材や廃棄の対策に加え、過剰な生産と消費を含む仕組みの変更を課題にしている。売れ残りを減らせることと、衣服全体の環境負荷を減らせることには、同じではない部分があった。[81]
働く人が条件を交渉する
2023年2月、スペインの店舗では、地域やブランドごとに違っていた給与の条件をそろえる合意ができた。フルタイムの入社時の固定給は年1万8000ユーロ(約316万6200円)。勤続4年以上の販売員では年2万2000ユーロ(約386万9800円)など、仕事と勤続に応じた枠を設けた。担当する仕事は同じでも、地域の協約などで条件が違っていたことを改める交渉だった。[82]
合意に至る前には、会社の地元ア・コルーニャでの賃上げがあり、ほかの地域の労組も条件を広げるよう求めていた。働く人が要求し、会社が交渉へ応じ、給与と育児などの支援を決める。創業者を祝う映像に並ぶ人々は、仕事の条件を受け取るだけの側ではなかった。[83][82]
2024年には、スペインの製造部門で、賃金や育児支援などに関する労使合意が結ばれた。創業者の顔が見えなくなった巨大な組織の中でも、働く人は自分たちの条件を交渉している。[84]
安く、早く、流行の服を届ける力が会社を大きくした。その服を誰がどんな条件で作り、買ったあとに何が残るかという問いも、同じ事業から生まれた。創業者の成功や寄付が、その問題を消すわけではなかった。[45][81]
25看板に名前を残さなかった
90歳になっても商品へ近い場所に
オルテガは、服を買う余裕の少ない家庭から、店の使い走りへ出た。家族とガウンを作り、最初の店ではつまずき、39歳でZARAを開いた。店と工場をつなぐ発想は、その後、専門家の仕事と技術の力を借りて、世界の多くの売り場へ広がった。[4][7]
同じ人がすべてを担い続けたわけではない。ロサリアたちが服を仕上げ、カステジャノが会社を仕組みにし、イスラたちが危機の中で在庫を動かした。家族で始めた事業は、家族以外の判断で進める会社になった。[6][19][58]
2026年、90歳の本人は、なお事業を育てた土地にいた。世界の街角にはZARAの4文字があり、その持分から得た富は、別の街の大きな建物にも姿を変えている。[42][30]
店を訪れた客は、その創業者の名前を知らなくても、1着を選んで帰れる。かつて店の窓を磨いていた少年は、客が何を買うかを見る側に回り、その反応で次の服を変える会社を作った。自分の名前より、何度来ても違う服がある売り場を、世界へ残した。[1][8]
参考文献・出典 84件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
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- Crofton & Dopico:Zara-Inditex and the Growth of Fast Fashion(2007) ↩ 本文
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- USO Industria:2024年製造労使合意 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円、1ユーロ=175.9円、1CAD=112.8円、1ブラジルレアル=28.96円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD / EUR / CAD / BRL
本文更新:2026-11-02



