THE STORY
フィル・ナイトの物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01靴が売れるほど金がなくなる
銀行で断られたら9階へ上がる
靴は売れていた。それなのに、フィル・ナイトの会社には、次の靴を買う金が足りなかった。
日本へ代金を送り、船で届くのを待ち、米国の店や選手へ売る。代金を回収する頃には、さらに大きな注文へ支払わなければならない。売れた分を次の仕入れへ入れても、銀行の融資枠が先に尽きる。顧客が増えることが、会社を続ける危険も増やしていた。[1]
1971年、33歳のナイトは、アメリカ北西部・オレゴン州の都市ポートランドで、日本の銀行へ相談に行った。融資は断られた。しかし担当者は、同じビルの9階に日商岩井という商社があると教えた。ナイトは約束もなく、その事務所へ入った。[1]
当時の会社には30数人の社員がいた。日本の商社が、まだ小さな運動靴の輸入業者の将来へ賭けた。この取引は、後のNikeを支えることになる。だが最初にナイトが日本を訪れた時には、社員どころか、売る会社も持っていなかった。あったのは大学院の授業で書いた計画だけだった。[1][2]
02野球の選考に落ちた少年がコーチと出会う
父が紹介した大学時代の知人
フィリップ・ハンプソン・ナイトは1938年、オレゴン州ポートランドで生まれた。父ウィリアムは法律家で、後に地元の新聞Oregon Journalの発行人になった。大学へ進み、海外へ出て事業を試す道が、家庭から遠いものではなかった。[3]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。編集部作図。
高校で野球のチームに残れなかった時、母は、家で落ち込んでいるなら新聞配達をするか陸上をやるかと促した。ナイトは陸上へ行った。そこで走る力を伸ばし、地方の大会に出るようになった。[4]
ある大会で父が紹介したのは、オレゴン大学の陸上コーチ、ビル・バウアーマンだった。2人は大学時代の知人だった。1955年、ナイトもその大学へ進み、バウアーマンのチームへ入る。父がつないだ相手は、やがて息子の共同創業者になる。[4]
速さより試作品を引き受ける
厳しい指導を受け、1年目の後には戻るかどうか迷った。それでも、コーチのやり方で続けると決めた。バウアーマンは練習だけでなく靴も変える人だった。重さを削り、素材を替え、少しでも走りやすいものを探した。[4][5]
ナイトは、その試作品を履く選手になった。チームで最も速い選手ではなかったから、コーチも安心して実験に使えたと、本人は後に話している。売り場で靴を説明するより前に、足を入れて走り、その結果を返す側にいた。[5]

写真:University of Oregon/出典/Public domain。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
1959年に大学を卒業し、軍務を経て、Stanfordの経営大学院へ進んだ。世界の頂点で走る選手にはならなかったが、走ることからは離れなかった。今度は靴の中身より、その靴をどこで作り、誰へ届けるかを考え始めた。[2]
03授業の計画を神戸へ持ち込む
カメラの次は運動靴ではないか
大学院の起業の授業で、ナイトは日本製の靴を米国へ売る計画を書いた。日本のカメラがドイツ製へ挑んでいる。それなら運動靴でも、adidasやPUMAへ挑めるのではないか。自分が知るランナーに、品質が良く、価格でも勝負できる日本の靴を届けるという構想だった。[6]
自分で大きな工場を建てる必要はない。作れる会社を見つけ、米国で売る。授業の評価は良くても、父まで即座に熱烈な支持者になったわけではなかった。計画は、紙の上からまだ出ていなかった。[7]
1962年、MBAを取得したナイトは世界を回る旅へ出た。ハワイでは新聞広告を見て、百科事典を売る仕事に応募した。スーツを着て面接へ行き、2時間の研修を受ける。無料で百科事典を届ける話だと思っていたら、400ドル(約6万3040円)の年鑑を買ってもらう必要があった。客の玄関を回っても売れない。1週間で辞めた。靴を売って世界へ出る前に、営業の仕事で早々につまずいた。[8]
それでも旅を終わりにはしなかった。同行するはずの友人が先へ進まなくなっても、ナイトは1人で旅を続け、日本へ向かった。[7]
見本の代金を父に頼む
訪ねたのは、兵庫県の港町・神戸にあるオニツカだった。スポーツシューズを作る、後のASICSにつながる会社である。ナイトは米国で売る話を進め、見本を送ってもらう手配をした。大きな店も販売網もない若者が、まず商品の作り手へ会いに行った。[9][10]
その見本の代金には、父の助けを求めた。送金を頼み、靴が届くのを待った。大学院で計画を書ける教育と、海外へ渡れる機会。その先でも家族の資金が、最初の取引へ届くところを支えた。[10]
米国へ戻ったナイトは会計の仕事を始め、靴を大学時代のコーチへ見せた。自分が走る時に欲しい商品なら、知らない物を売る時とは違う。何を勧めているのかを、自分の足で理解していた。バウアーマンにとっても、改良した靴を実際に作れる相手につながる話だった。[11][5]
04500ドル(約7万8800円)ずつでコーチと組む
昼食を終えて握手する
1964年1月25日、ポートランドのホテルでナイトとバウアーマンは昼食を取り、事業を始める話をした。コーチと教え子は握手を交わし、Blue Ribbon Sports、BRSが生まれた。[4]
出し合ったのは、それぞれ500ドル(約7万8800円)。バウアーマンは選手の体と靴を知り、ナイトは日本へ行ってきた。コーチが製品を直し、教え子が仕入れて顧客を探す。2人のできる仕事を、そのまま会社へ持ち込んだ。[12]
ナイトは車に靴を積み、競技会へ行った。荷台から靴を取り出し、走りに来た選手へ見せる。会計事務所へ勤めながら、昼休みにはコーチへ連絡し、週末には競技場へ出た。売れた金を生活へ回すより、また靴を仕入れた。[6]
大量の手紙を送ってくる社員
1965年、ジェフ・ジョンソンが加わった。ロサンゼルスでソーシャルワーカーとして働き、仕事の後にもランナーへ靴を売る男だった。走る人へ近づき、連絡を取り、使い心地を聞く。ナイトの手の届かない場所へ、自分で顧客を増やしていった。[12]
ジョンソンは広告や製品や店の考えを、手紙にしてナイトへ送り続けた。ナイトは十分に返事をしなかった。返事がなくてもジョンソンは顧客へ会い、自分で必要だと思う仕事を増やした。[13]
1967年1月、カリフォルニア州の海辺の街サンタモニカに、BRSの店を開く。近くのランナーが来て、靴の話をする場所にした。競技場の荷台から始まった販売が、走る人の居場所へ変わった。[14]
靴の代金を残すために教える
ナイトは会計の仕事に加え、Portland State Universityで教えた。家計に使える収入を別に持ち、靴の事業へ金を残した。大学で出会ったペネロピ、ペニーと結婚し、後に3人の子どもを持った。[11][15]
靴が売れても、次の靴の代金に消える。生活の仕事と、育てたい事業の仕事を掛け持ちする時間が続いた。
05仲間の家の蓄えを借りる
8000ドル(約126万800円)を受け取る
会社へ加わったボブ・ウッデルは、大学で陸上に取り組んだ後、事故で車いすを使う生活になった。スポーツに関わる仕事を求め、会社の初期の中核を担うようになった。競技だけでなく、会計や法律など別の経歴を持つ仲間も集まった。[16]
資金が苦しい時、ウッデルと両親から金を借りた。ナイトの回想では、最初に5000ドル(約78万8000円)、さらに3000ドル(約47万2800円)。合計8000ドル(約126万800円)だった。息子の医療費もある家族が、蓄えを会社へ渡した。[17]
銀行の融資枠とは違い、数字の裏に仲間の家がある。受け取れば仕入れを続けられるが、失えばその家の蓄えも失う。ナイトの事業は、家族から受けた最初の送金の先で、社員の家族の金まで預かっていた。
社長もからかわれる集まり
初期の幹部たちは保養地へ集まり、2日、3日を使って会社の問題を話した。互いの案を遠慮なく批判し、あだ名でからかった。会計の出身であるナイトも、帳簿係としてその輪に入った。[18]
ジョンソンが別の拠点へ出て、営業や工場の仕事が分かれても、支払いの危機や取引先の問題が出れば連絡する。1人では抱えきれない仕事を持った仲間が、集まった時には同じ卓でぶつかった。ナイトの返事を待たず店を動かすジョンソンも、その輪に欠かせなかった。[16]
06商社の金で次の注文へ進む
靴の流れを増やす相手
売れる量は、銀行が貸す額より速く増えた。そこで1971年、冒頭の銀行から日商岩井の事務所へ上がることになる。商社はBRSの靴が広がる将来へ目を向け、取引を始めた。[1]
ナイトには、今より多く仕入れるための資金が要る。商社には、伸びる商品を世界へ動かす商売がある。靴の販売が増えれば双方の取引も増える。銀行で止まった話が、商品の流れを扱う相手との間で動いた。[1]
関係は1度きりの救援では終わらない。後には日本でNikeを売る仕事へ広がり、1981年には合弁のNike Japanができる。1990年、ナイトは本社の日本庭園を日商岩井ガーデンと名付けた。売れる靴だけでは足りなかった時、誰が会社を支えたかが、敷地にも残った。[1]
07売るだけの会社から自分のブランドへ
取引先と別れる準備をする
BRSとオニツカの関係は、売上とともに緊張した。米国で靴を広めたナイトたちのもとへ、製造元から会社の支配権に関わる条件が来た。51%を帳簿上の価値で売るか、それとも別の販売業者を置くか。ナイトは検討すると答え、日本へ渡って別の工場を探した。自分たちが作ってきた販路を守るため、今度は売る靴そのものを用意しなければならなくなった。[8][19]
後にCortezとして知られる靴には、バウアーマンの工夫が入っていた。オニツカは製造し、BRSは米国の顧客へ売ってきた。共同で育てた商品を、別れた後に誰がどう扱うか。靴そのものだけでなく、名前と契約も問題になった。[20]
別の工場の契約書へ署名する
自社の製品を探すため、メキシコ中部のCanadaという工場へも行った。ナイトは3000足の革の靴を注文した。契約しているオニツカ以外から仕入れてよいのか。本人の回想では、陸上靴の契約は別のフットボール靴まで禁止していないと判断し、署名した。[21]
取引先の靴を売りながら、別の工場へ自分の商品を発注する。販売先を替えようとする相手に備え、自分も商品を切り替える道を作った。どちらか一方が一方的に自由になるだけの話ではなかった。
35ドル(約5,516円)で印を頼む
新しい靴を注文するには、自分たちのマークも必要だった。Portland State Universityでデザインを学ぶキャロリン・デイビッドソンは、ナイトから図表などの仕事を受けていた。授業の費用を工面できないという話を、彼が耳にしたことがきっかけだった。[22]
靴に付ける印には、動きや速さが欲しい。デイビッドソンは案を作って見せ、先の曲がった1本の線、Swooshが選ばれた。請求は35ドル(約5,516円)だった。[23]
ナイトは、一目見て世界を取れると確信したわけではなかった。それでも発注する日が迫る中で決めた。後に何も読まずに会社が分かるほど有名になる線は、その時、まだ売っていない靴に付けるマークだった。[23]
夢から出た名前を採る
ナイト自身が推していたのはDimension Sixという名だった。社員の評判は悪く、それでも何度も推した。工場は生産を始め、広告にも名前を入れる必要がある。決めないまま待たせる時間がなくなっていた。[21]
Nikeという名はジョンソンが出した。勝利の女神の名を夢で見たという。選手へ手紙を書き、店を作った社員が、新しいブランドの名まで持ってきた。ナイトは最後にNikeを選び、工場へ送った。[21][22]
取引を失った社員へ話す
契約を打ち切られると、ナイトは社員を集めた。取引先を失うことを、自分たちの製品を売る機会として説明した。仕入れ先を失う危機を、自分たちの名前へ進む話へ置き換えた。[24]
1972〜1974年に法的な争いが続き、その後NikeはCortezの名を使い、オニツカ側はCorsairとして商品を続けた。ナイトは、売る靴を作ってくれた会社から独立した。元の契約が続く間に自社製品を準備した側でもあり、独立には、かつての相手と法廷で争う時間が付いてきた。[20]
あとから指輪と株を贈る
デイビッドソンはその後も箱や広告、販売店の資料を作り、1975年まで会社の仕事をした。1983年には金の指輪とNike株を贈られた。最初の35ドル(約5,516円)で線を売って消えた人ではない。会社の仕事を続けたデザイナーへ、成長した後で感謝を形にした。[25]
08台所で靴底を作る
ワッフル焼き器を固めてしまう
1971年、バウアーマンは新しい競技場の路面で使える靴底を探していた。スパイクでは刺さりすぎ、平らな底では滑る。軽く、きちんと路面をつかむ形が要った。[26]
朝食のワッフルの格子から、靴底の凹凸を思いついた。焼き器へ材料を流すと、固まって開かなくなった。結婚祝いにもらった台所道具は壊れた。それでも中古の器具を買い、型と材料を替えて試した。[27][26]

写真:Kazuhiro Keino/出典/CC BY 2.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
針金が足首を傷つけるものも、数分走ると崩れるものもあった。タイヤ店や職人の手も借り、実際に履けるものへ直していく。[26]
選考会で新しい靴を走らせる
1972年、オレゴン州の陸上の街ユージーンで開かれる五輪代表選考会へ、少量の手作りシューズを用意した。後にMoon Shoeと呼ばれる靴だ。月の上の足跡を思わせる底の模様だった。[26]
薄い底へ甲の部分を付けた試作品で、長距離を走るには課題があった。それでも履く選手がいれば、新しいマークを付けた靴が競技場を走る。完成度を上げ、日々の練習へ売れるWaffle Trainerへ育てると、1975年には注文が10万足を超えた。[26]
コーチが底の形を変え、選手が試し、会社が注文を取る。売れれば、今度はナイトがその数を作り、代金を払い続けなければならない。靴の成功と、会社の現金の心配は同時に大きくなった。
095000ドル(約78万8000円)で若いスターを支える
写真の中だけの契約ではない
1973年、スティーブ・プリフォンテーンが加わった。オレゴン大学で走り、前年のミュンヘン五輪5000メートルで4位になった人気選手だった。自分で前へ出て集団を引っ張る走りが、人を集めた。[28]
ナイトとバウアーマンは年5000ドル(約78万8000円)を出し、競技の費用を支えた。酒場で働く時間を減らし、練習する時間を増やすためでもあった。プリフォンテーンは店の仕事に関わり、自分で靴を紹介し、選手へ送った。[29]
1975年にはビル・ロジャースへ靴と手紙を送った。受け取った選手たちにとって、有名なランナーが勧めてきた靴だった。ロジャースがその後ボストンマラソンで優勝すると、若い会社の靴は、結果と一緒に見られるようになる。[29]
24歳で別れが来る
プリフォンテーンは、選手が競技で収入を得ることを厳しく制限する陸上団体にも異議を唱えていた。大会に人が集まっても、走る選手は生活のため別の仕事をする。その条件を変えようとした。[28]
1975年5月、交通事故で亡くなった。24歳。会社が何十人もの世界的スターと組む前に、店でも働き、靴を送っていた若い仲間を失った。その後もNikeは彼の名を冠する大会を支え、最初の頃に同じ靴を広めた選手を残し続けた。[30]
10作る場所を持ち空気を入れる
遠い工場にも走る選手がいる
1974年、BRSは東海岸にも靴を作る拠点を置いた。アメリカ北東部・ニューハンプシャー州の町エクセター。使われなくなった工場には、靴を作る職人のいる地域という利点があった。[31]
担当するジョンソンは、地元の高校の女子陸上チームも教え、新しい靴を試してもらった。西海岸から離れた工場でも、作り手の近くに履く選手を置いた。競技者の言葉を製品へ戻す方法は、新しい場所へも持っていった。[31]
航空技術者が持ってきた袋
1977年、フランク・ルディが空気のクッションの案を持ち込んだ。航空分野の技術者だった。袋へ気体を閉じ込め、着地した時に縮み、また戻る力を使う。別の企業へも提案していた技術を、Nikeで商品へ進めることになった。[32]
袋を入れるだけでは、何度も踏む靴には使えない。破れないこと、抜けないこと、周囲の素材と離れないこと。ルディとNike側で詰めた技術は、1978年のホノルルマラソンで登場したTailwindへ入った。初期の製品には、上部と底が離れる問題もあった。[32][33]
最初の製品を出した後も直す仕事が続く。やがてAirは、走る靴だけでなく、バスケットボールやテニスへ広がった。売り文句に使える名前になる前に、踏まれ続けても戻る製品へ仕上げる必要があった。
11税関の2500万ドル(約39億円)を争う
もっと売っても間に合わない
ナイトが後に2500万ドル(約39億円)の請求として語った関税問題は、靴の仕入れ方そのものに関わっていた。海外の工場へ払った値段より、米国内で売る似た靴の値段が計算の基準になる。輸入靴の価格を抑えて顧客を増やしてきた会社へ、別の会社が付けた価格が重くのしかかった。[10][34]
国内のメーカーが税関へカタログや価格表を提出すると、税関は輸入品と似ているかを判断する。Nikeは、競争相手が虚偽の証明を出して関税をつり上げたと主張し、業界団体やメーカーを訴えた。関税を争っている間にも、店へ送る商品は海を渡ってきた。[34]
1980年8月21日、BRS、輸入を担う日商岩井、保証会社と米政府が和解した。対象は1977年11月から1979年10月初めまでの輸入分で、日商岩井への追加請求は1211万3206ドル(約19億円)。合意した支払額は950万ドル(約14億円)、年利7%で24回以内の分割払いだった。一括で会社から出ていくはずの金を、月々の支払いへ分ける余地を得た。[34]
和解には代償もあった。対象の関税をこれ以上争わないという条件である。翌1981年、裁判所は、1979年10月2日より前の関税に関するNikeの請求を退けた。競争相手に妨害されたという訴えを、会社の主張どおりに認めさせた結末ではなかった。それでも、分割で払う額と期限が決まり、会社は靴を仕入れ、売る仕事を続けられた。[34]
株主7500人の名前を置く
1980年、Nikeは株式を公開した。上場前の1980年度の売上は2億6977万5000ドル(約425億円)。翌年の同時代の取材では、純利益約1300万ドル(約20億円)、生産年3000万足という規模も紹介された。[35][12]
ナイトは1980年12月、株主7500人の名簿を机の後ろへ置いた。毎朝座る前に見るようにした。自分と仲間だけでなく、貯蓄を託した人々へも結果を返す。2007年には株主が30万人へ増えても、最初の名簿を見た時のことを話していた。[36]
靴が売れて次の金を探していた会社は、今度は世界の投資家へ利益を報告する会社になった。売上が大きくなった分だけ、待っている相手も増えた。
12コートを走る靴が通りへ出る
大学の指導者を味方にする
1980年8月、ジョージタウン大学のコーチ、ジョン・トンプソンが会社へ来た。ナイトと会い、その後も大学チームとの関係が育った。選手の足に何が必要かを知るコーチは、製品の注文にも遠慮がなかった。[37]
会社側の担当者の回想では、トンプソンが強く求めれば、ナイトは用意するよう指示した。チームを支えることは、注目される試合で自分たちの靴を履いてもらうことでもあった。ジョージタウンは1982、1984、1985年に全米大会のファイナルフォーへ進み、1984年には優勝する。[37]
1982年度、Nikeの売上は6億9400万ドル(約1093億円)になった。154の基本モデルを11か国で作り、40か国以上へ売る。研究、開発、評価に使った額は570万ドル(約8億円)。1種類の輸入靴を競技会へ運ぶ仕事から、競技ごとに作り、在庫を持ち、世界へ届ける仕事へ変わった。[38]
店が終わった靴を連れ戻す
同年に発売したAir Force 1では、ブルース・キルゴアがAirをバスケットボールへ持ち込んだ。走るだけでなく、止まり、向きを変え、踏ん張る足を支える靴だった。[39]
会社が最初の生産を終えても、欲しがる顧客は残った。アメリカ東部・メリーランド州の港町ボルティモアの3つの販売店が会社へ働きかけ、1985年に再び色違いを入れた。3000足はすぐに売れた。[40]
次の色を求めて客が店へ来る。会社が新商品へ進もうとしても、街が古い靴を手放さない。コートの道具だったものが、服や音楽と合わせて自分で選ぶ品物へ変わった。ナイトの会社には、自分たちの予定より長く売れ続ける商品もできていた。[40][39]
13350人の仕事を閉じる
最初の社員も工場を離れる
1983年4月、Nikeはエクセター工場の閉鎖を発表した。350人には、7月に仕事がなくなると伝えた。ナイトは、生産能力を売上に合わせ、原価を減らすため、国内製造をメーン州へ集約すると説明した。[31]
日本の靴を輸入するだけでなく、地元の職人と作ろうとした場所だった。工場を買い、研究開発も進めた会社が、今度は同じ地域の仕事を閉じる。売り上げを広げてきた会社の判断で、現場の職人たちは次の仕事を探すことになった。[31]
ジョンソンは東海岸の研究開発から外れる配置を打診され、早期退職を選んだ。自分の部屋で靴を売り、店を作り、Nikeという名を出した最初の社員だった。会社が大きくなった後の再編は、その仲間の続けたい仕事まで変えた。[31]
14得意な客だけを見てつまずく
Reebokが別の足をつかむ
Nikeには走る人が集まっていた。自分の足で試し、競技場で売る。その近さで勝ってきた会社が、1980年代に増えた別の顧客を見逃した。音楽に合わせて体を動かすエアロビクスだった。[41]
ReebokのFreestyleは、柔らかな革と軽い見た目でその客をつかんだ。長い練習に耐える競技靴を重く見るNikeは対応が遅れた。自分たちが欲しい靴を作るだけでは、新しい客の足元へ届かなかった。[41]
ナイトは日々の運営から距離を置いた時期に問題が重なり、1984年に経営へ戻った。在庫と人員を減らし、選手との契約費用や経費にも手を入れた。売れなかった靴を現金へ戻さなければ、次の商品へ金を使えない。[42]
成長した会社を売る話もする
1985年の年次報告では、四半期の赤字と前年からの減益を報告した。会社が大きくなれば不安が消えるどころか、売れない商品の量も、減らす人の数も大きくなる。ナイトは株主へ、悪かったことと直すことを説明した。[43]
後に、会社を売る話もしたと明かしている。ただし本人は、実際に売却の近くまで行ったとは考えていないと話した。会社を手放して重荷を下ろす道も話題にはしたが、自分たちで続ける方へ残った。[6]
15新人の名で事業を作る
ジョーダンへまとめて賭ける
1984年、NikeはChicago Bullsへ入るマイケル・ジョーダンと契約した。NBAで何度も優勝した後のスターを買ったのではない。大学での実績と跳躍力を持つ新人へ、その名前の靴と衣料品を用意した。[44]
翌1985年にAir Jordanが一般へ発売された。デザインはピーター・ムーアらが担った。選手が跳び、得点する。その足元の色と名前を、客も自分で選んで履ける。競技をするための道具に、あの人へ近づく楽しさが重なった。[45][44]

写真:Smithsonian Institute/出典/CC0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
Nikeは、リーグからの禁止を商品の広告へ使った。だが1984年に問題となった黒と赤の靴は、厳密にはAir Jordan 1ではなく、その前のAir Shipだった。Nikeはこの出来事をAir Jordanの広告へ結びつけた。リーグが認めない色を履くという物語が、売る靴の個性になった。[46]
スターを失わない次の1足
ジョーダンはNikeを離れかけていた。次のAir Jordan 3を見せるため、ナイトたちはカリフォルニア州南部のホテルで会うことになった。デザイナーのティンカー・ハットフィールド、Nikeの担当者、ジョーダンの両親も来た。肝心の本人が現れない。ナイトは4時間待った。[47]
ハットフィールドが用意した試作品には、低めの履き口、外から見えるAir、象の皮を思わせる模様があった。1988年のAir Jordan 3である。本人が来ると、ナイトは説明をハットフィールドに任せた。次の靴を作った男が前へ出た。[47][48]
ジョーダンは靴を気に入り、Nikeに残った。後にハットフィールドが本人から聞いた話では、会合の後、父ジェームズも息子に話した。遅刻を叱ったうえで、Nikeと続ける商売の安定性を指摘したのだった。新しいデザインに加え、両親との話し合いもあった。ナイトが待った4時間は、選手の家族にも見られていた。[49]
2026年度、Jordan Brand製品の売上は70億3400万ドル(約1兆1085億円)だった。Nikeの売上に含まれるブランドの数字だ。新人へ賭けた契約から40年以上たち、その1人の名前が、さらに次の世代の商品を動かしている。[50]
16靴の空気を見せ音楽を借りる
建築家の目で窓を開ける
1987年のAir Max 1は、クッションを外から見えるようにした。ハットフィールドは建築を学び、Nikeでも建物の仕事をしていた。発想につながったのは、フランスの首都パリにある、配管や構造を外へ見せた文化施設ポンピドゥー・センターだった。[51]

写真:Footshop/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
中身を隠さず見せれば、靴でも機能を目で確かめられる。小さな窓ができると、Airは言葉で説明される仕組みから、客が見る製品の一部になった。大学のコーチが靴を削った頃とは違う経験を持つ人が、次の靴の姿を作っていた。[51]
50万ドル(約7880万円)の曲に1500万ドル(約23億円)の訴え
その年、NikeはThe Beatlesのオリジナル録音Revolutionを広告へ使った。曲と録音の権利を持つ相手へ、合わせて50万ドル(約7880万円)を払って手配した。[52]
ところがバンド側の会社が反発し、1500万ドル(約23億円)を求めて訴えた。自分たちは靴の宣伝のために歌ったのではない。権利を持つ相手から許可を買っても、音楽を生んだ人々まで歓迎したわけではなかった。[52]
1988年、Nikeは使用期間を延ばさず広告をやめた。スポーツの会社へ世界的な音楽の力を借りた判断が、その作り手との争いにもなった。欲しい商品へ意味を重ねる仕事は、借りてくる相手の名声まで扱う仕事になっていた。
17世界へ短い言葉を出す
80歳のランナーを映す
1988年、Just Do Itが始まった。初期のCMで走るのは、80歳のウォルト・スタック。カリフォルニア州の港町サンフランシスコだった。世界王者だけでなく、今日も走る人を広告の中心へ置いた。[53]
言葉を作ったのは、広告会社Wieden+Kennedyのダン・ワイデンだった。Nikeを履く1人の姿と短い言葉を組み合わせ、世界王者でなくても、自分から動けるという広告にした。競技者へ直接靴を売っていたナイトの会社が、走り始める前の人へも声を掛けるようになった。[53]
競技会で1足ずつ説明していた会社は、名前を読まずに分かるマークを持つようになった。靴の履き心地と、選手の記憶と、見た広告が重なる。買う人は、その全てを足元へ選べるようになった。
自分の成績表へDとFを書く
同じ1988年の年次報告で、ナイトは会社へ成績を付けた。米国の主要競技で地位を守ったことにはA。女性の欲しい商品を作ることにはD。年齢の高い客への市場づくりにはFだった。息子がこの成績表を持って帰れば、長く話をするところだと書いた。[54]
売上が3億ドル(約472億円)以上増えた年度に、靴の売上構成で女性向けは22%から15%へ落ちていた。売上全体が伸びたという数字の中へ、置き去りにした顧客の数字も入れた。Reebokの客を見逃した会社は、まだその課題を終えていなかった。[54]
18隣で勝った仲間がadidasへ行く
会社を知る弁護士とデザイナー
ロブ・ストラッサーは、オニツカとの訴訟でナイトを助けた弁護士から、Nikeのマーケティングを担う人物になった。ジョーダンとの契約にも力を発揮した。しかし1987年、ムーアとともに会社を去り、自分たちの事務所を作った。[55]
次に加わった大きな相手はadidasだった。競技者の道具へ戻り、機能を絞ったEquipmentという構想を進めた。製品と選手と広告を結びつけてNikeで勝った人々が、競争相手の再建へ回った。[56]
1993年、adidasは2人の事業を買い取った。遠いドイツの古い会社というだけではない。ナイトのやり方を知る、かつて近くで働いた相手が、そちらにいた。ブランドの競争は、共に勝ってきた仲間との競争にもなった。[55]
19金メダルの服にも契約がある
国旗の下に競争相手の印
1992年のバルセロナ五輪では、米国男子バスケットボール代表へNBAのスターが集まった。強さを見せるDream Teamの仕事には、表彰台で着る服の問題も付いてきた。米国代表側の衣料スポンサーはReebokだった。[57]
ジョーダン、スコッティ・ピッペン、チャールズ・バークリーらは、個人ではNikeと契約していた。国の支給する服を着れば、自分を支えている会社の競争相手の印が世界へ映る。代表と選手の契約が、同じ1着の上でぶつかった。[57]
ジョーダンは金メダルの表彰台で、上着のReebokのマークへ国旗を掛けた。ハットフィールドも後にその対応を振り返っている。国を代表する試合が終わっても、選手の名前と体に結びつく会社の競争は終わらなかった。[58]
20ゴルフの父子へ3年かけて近づく
4000万ドル(約63億円)の契約より前に会う
1996年、Nikeはプロになるタイガー・ウッズと契約した。報じられた額は5年間で4000万ドル(約63億円)規模。ナイトは、その3年ほど前から、ウッズがオレゴン周辺の大会へ来れば、父親と食事へ招いていたと話している。[59]
バスケットボールのジョーダンのように、ゴルフで人を引きつける選手になると見た。大きな契約書へ名前をもらう前に、父子との時間を作った。走る人へ競技場で靴を勧めた会社が、別の競技へ入る時にも、まず人へ近づいた。
ウッズは勝ち、Nikeはその姿とともにゴルフで知られるようになった。けがで試合が減った時も、2009年に私生活の問題で批判された時も、会社は契約を続けた。スターが勝つ場面だけを買う関係ではなくなっていた。[60]
20年赤字の道具はやめる
それでもゴルフ用具の事業は、人気選手と組めば利益が出るという結果にはならなかった。Nikeは2016年、クラブやボールから退いた。翌年、ナイトは用具とボールが20年赤字で、次の年も変わらないと判断したと説明した。[61]
選手との関係を続けることと、全ての商品を続けることを分けた。2024年には、ウッズとNikeの27年以上の契約関係も終わる。ブランドを大きくした長い関係にも、次へ進む日が来た。[60]
21勝利の印の向こうに工場が見える
作っている人は自社の社員ではない
Nikeは早くから外部の工場へ製造を委ねた。日本、韓国、台湾、さらに別の国々へ作る場所が広がる。自分たちは製品の企画と販売に力を注ぐ一方、靴へ印を付ける工場で働く人々は、直接の社員ではなかった。[62]
1990年代、委託先の低賃金や労働条件、児童労働への批判が強くなった。パキスタンで作るサッカーボールも問題になり、1996年には会社の広報担当者も、14歳未満の子どもが縫っている可能性を認めた。[63]
パキスタン北東部のスポーツ用品の産地シアルコット周辺では、工場の外へも仕事が出た。大人が持ち帰った縫製に子どもが加われば、大きな工場を見ただけでは手元まで追えない。米労働省の報告には、監視しやすい拠点へ作業を移す対応も記されている。[64]
社長が改善を約束する
1998年5月12日、ナイトはワシントンのNational Press Clubで改善策を発表した。新規採用の最低年齢は靴工場で18歳、衣料品などで16歳。工場の空気へ米国並みの基準を設け、外部の監視も広げる。[65][66]
同時代の報道では、その年2月までの四半期利益は、前年の2億3710万ドル(約373億円)から7310万ドル(約115億円)へ落ちていた。世界で1600人の削減も発表していた。商品を売る数字が弱り、作る側への批判にも答えなければならなかった。[67]
ただし、発表した基準がそのまま全工場で実現したわけではない。労働団体は、賃金や監視の独立性を問い続けた。2001年の調査でも約束がどこまで現場に届いたかを検証している。広告で約束する会社の姿と、その靴を作る人の日常を近づける仕事は残った。[68]
22母校への3000万ドル(約47億円)を止める
好きな大学とも正面から争う
2000年、オレゴン大学が工場労働を監視するWorker Rights Consortiumへ入ると、ナイトは寄付を止めると表明した。3000万ドル(約47億円)の約束が失われたと報じられた。自分が走り、コーチと出会い、支援も続けてきた大学だった。[69]
ナイトは、その監視の方法をNikeへの偏った攻撃と捉えた。就労年齢や賃金などの改善をしてきた側として、問題を放置する会社という扱いに反論した。大学は外部監視へ参加し、大きな寄付者は資金を引いた。[69]
後に大学への寄付は再び進む。しかしこの時、ナイトは、支援する相手の判断へ賛成できなければ、金を出さないという力を使った。競技者として育てられた場所との関係にも、好きだという気持ちだけでは終わらない対立があった。
批判へ答える説明も訴えられる
Nikeは新聞への投書や大学への書簡で労働条件を説明した。今度はその説明が虚偽で、買う人を誤解させるとして、マーク・カスキーがカリフォルニア州で訴えた。会社の意見なのか、商品を売るための表示なのかも争点になった。[70]
2003年、連邦最高裁は実体判断をせず審理を打ち切り、事件はその後和解した。製品の性能だけでなく、会社が自分自身について外へ出す言葉にも責任が問われた。[70]
2005年、Nikeは700以上の工場の名前と所在地を公開した。公開を求めてきたMaquila Solidarity Networkは前進と評価したが、Converseなど子会社の工場は一覧の対象外だった。何をどこで作っているかを示すことにも、まだ範囲と続きがあった。[71]
2334歳の息子を失う
家族が花の代わりに願ったこと
2004年5月23日、長男マシューが、中央アメリカのエルサルバドルでダイビング中に亡くなった。34歳。孤児院の資金集めを支える映像の撮影のため、現地へ来ていた。[72]
追悼文には、子どもを動物園や航空博物館へ連れ、床へ下りて遊ぶ父親の姿が残る。ナイトとペニーは息子を失い、幼い子どもたちは父を失った。家族が公表した言葉は、会社の成功よりも、一緒にいられる時間へ向いていた。[72]
花や寄付の代わりに、愛する子どもと少し長く過ごしてほしい。子どもを助ける活動へ時間や金を使ってほしい。家族はそう呼びかけた。買えるものを増やしてきたナイトにも、戻せない家族の時間があった。[72]
初めて外からCEOを迎える
同年11月、ナイトはCEO交代を発表した。12月28日、家庭用品メーカーで経営をしてきたウィリアム・ペレスが後を継ぐ。ナイトは会長に残った。コーチと500ドル(約7万8800円)ずつ出して40年たつ会社を、外の経験を持つ経営者へ任せる人事だった。[73]
ところが13か月後、ペレスは去った。2006年1月、社内出身のマーク・パーカーがCEOになる。ナイトは、ペレスが日用品とスポーツ用品の文化の違いを越えられなかったと説明した。[74]
ペレスの説明は違った。ナイトが退くという理解で入ったのに、実際には退かなかった。会社にCEOは2人もいらないと話した。後継者へ席を渡す発表をしても、創業者が仕事から手を離せるとは限らなかった。[74]
パーカーは長くNikeで働き、製品と会社の文化を知る相手だった。2007年の年次報告で、ナイトは自分に部下はおらず、社内を歩いて開発やマーケティングの部屋を訪ねる役割だと説明した。自分の会社で何を続け、何を後の人へ渡すかを、退いた後にも探していた。[36]
24靴と違うものを家族で作る
人形を1コマずつ動かす会社
靴で稼いだ金を、映画へ入れた。1998年、ナイトが500万ドル(約7億円)を出資したのは、オレゴン州のアニメーション会社Vinton Studiosだった。ところが4年たっても長編映画は完成せず、会社は破綻寸前になった。ナイトはさらに45万ドル(約7092万円)を入れる条件として支配権を求め、2003年に会社を掌握した。[75]
次男トラヴィスは、父の紹介を経てこのスタジオで働いていた。父が資金を入れ、息子は人形を少しずつ動かして撮影する。家族の仕事が、映画の現場でつながった。[75]
2005年7月、スタジオは新しい映画・メディア事業LAIKAのもとへ入る。The Nightmare Before Christmasで知られる監督ヘンリー・セリックも参加し、最初の作品としてCGの短編Moongirlを送り出した。長編制作も進め、5000万〜7000万ドル(約78億円〜110億円)規模の映画を作る構想を掲げた。長編1本へ、多くの人と年月と金を先に投じる仕事だった。[76]
新しい社名には、社員から何百もの案が集まった。ナイトはLAIKAが自分たちに合う響きだと判断した。かつてのNikeと同じく、社員の案から選んだ名前だった。制作を進めていたCoralineは後に公開され、ParaNormanなどへ続く。トラヴィスも経営や監督を担うようになった。人形のわずかな動きを積み重ねるスタジオが、靴売り場の外へ家族の仕事を広げた。[76][77]
2015年、トラヴィスはNikeの取締役にも入った。フィルは持ち株をSwooshという会社へ集め、長期の所有と経営の体制を整えた。毎日の経営を専門家へ渡しても、家族として事業をどう持つかは残る。創業者が席を離れる準備には、次のCEOを決める以外の仕事もあった。[77]
25捨てた焼き器が帰ってくる
ごみの中から会社の原点が出る
2010年、バウアーマンの息子トムが家を改修していると、裏庭にごみを埋めた場所から古いワッフル焼き器が出てきた。初期の靴や型もあった。靴底の材料を固め、開かなくなって捨てた器具だった。Nikeの資料室が引き取った。[78]
台所で失敗した物が、会社の歴史になった。
2019年には、残っていた別の原点へ大きな値が付いた。履かれていない1972年のMoon ShoeがSotheby'sで43万7500ドル(約6895万円)で落札された。当時のスニーカー競売の最高額だった。安くて良い競技靴を届けようとした会社の試作品が、収集家の持つ歴史の品になっていた。[79]
26次の学生へ4億ドル(約630億円)を渡す
計画を書いた大学に場所を作る
2006年、ナイトはStanfordの経営大学院へ1億500万ドル(約165億円)を寄付すると発表した。1億ドル(約157億円)で校舎群を作り、500万ドル(約7億円)は教員の基金へ。授業へ靴の輸入計画を持ち込んだ学生が、今度は次の学生の集まる場所へ金を出した。[80]
8棟の建物を広場の周りへ置き、分野の違う人々が出会うキャンパスを作る。後のKnight Management Centerになる。建物を1棟だけ寄贈するのではなく、講義室から広場へ、さらに別の研究室へと人が移る学びの場にした。[80]

写真:Steve Castillo/出典/CC BY 3.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
オレゴン大学の法学部には、父ウィリアムの名を付けた法学センターもある。夫妻の1000万ドル(約15億円)の支援を受け1999年に完成した。父が学んだ場所へ、息子の稼いだ金が戻った。[3]
金だけでなく運営する相手も選ぶ
Stanfordの学長ジョン・ヘネシーが、世界の大学院生を集め、分野を越えて課題に向き合う構想を考えていた。必要なのは4億ドル(約630億円)。相談を受けたナイトは支援を引き受けたが、自分の名前だけを付けることにはしなかった。[81]
ヘネシーとの共同の名前とし、本人に初代の責任者になってもらう。2016年に公表されたKnight-Hennessy Scholarsには、金額に加え、誰が教育を率いるかという条件もあった。靴の事業で相手と組んできたナイトは、寄付でも、一緒に動かす人を選んだ。[81][82]
275億ドル(約788億円)の約束で別の金も集める
同額を集めたら出す
医療への寄付ではペニーとともに、相手を動かす目標を置いた。2013年、Oregon Health & Science University、OHSUへ、2年で同額を集められれば5億ドル(約788億円)を出すと約束した。[83]
大学はほかの支援者へ呼びかけ、州の支援も加わった。Columbia Sportswearを育てたガート・ボイルの1億ドル(約157億円)も入り、1万人を超える支援者とともに2015年6月に目標を達成した。ナイト夫妻の5億ドル(約788億円)と合わせ、10億ドル(約1576億円)が研究へ向かった。[84]
自分で大きな金を出すだけでなく、別の人も動く条件を作った。最初に500ドル(約7万8800円)ずつ出した会社のように、相手が何を持ち寄るかを決め、進める規模を変えた。
2025年には、がん研究所へ20億ドル(約3152億円)の新たな拠出を約束した。遺伝子や心理の相談、栄養、治療後の暮らしまで患者を支える取り組みも含む。資産の一部を渡す場面の後には、長く続ける研究と患者の時間があった。[85]
28地元の政治にも金を使う
選んだ候補へ資金を送る
2022年のオレゴン州知事選で、ナイトは無所属のベッツィ・ジョンソンを支援し、その後共和党のクリスティン・ドレイザンへも資金を出した。公共放送OPBが当時確認したのは、ジョンソンへ375万ドル(約5億円)、10月にドレイザンへ100万ドル(約1億円)だった。[86]
医療や教育へ渡す時と同じように、地元の進路へも個人の金で関わった。候補を選び、その候補が届く範囲を資金で広げる。病院への寄付とは違い、別の候補を望む市民もいる。巨額の資産を持つ人が何を選ぶかは、会社の株主だけの問題ではなくなっていた。
29会長を辞めても会社は走る
次の経営者が売り方を変える
2016年、ナイトはNikeの取締役会長を退き、名誉会長になった。後を継いだパーカーとは約40年一緒に働いていた。いまさら何を助言するかと聞かれ、すでに自分の知恵は渡してあると答えた。[6][87]

写真:Coolcaesar/出典/CC BY-SA 4.0。表示サイズ調整・圧縮。肖像は表示枠で切り抜き。
同年に回想録『SHOE DOG』を出版した。世界的なロゴの完成形より、次の支払いまで会社をつなぐ日々を中心にした本だった。銀行に断られ、日本の取引先を待ち、仲間の家の金まで預かる。富豪になった後からは見えにくい会社の内側を、自分の言葉でたどった。[18]
2026年度のNikeの売上は463億9800万ドル(約7兆3123億円)。ナイトが500ドル(約7万8800円)を出した会社は、本人の会長退任後も、世界の工場と選手と店をつないでいる。同年度、直販の売上は減り、卸売は増えた。大きな名前を持っていても、売り方は直し続けなければならない。[50]
ナイトが最初に学んだのは、靴を履いて走れば違いが分かることだった。次に、良い靴でも、代金を払い、届ける相手がいなければ会社にはならないと知った。仲間、工場、選手、銀行、商社。誰と組むかを選び、時にはその相手と争いながら、荷台の先を広げた。
靴の外側へ意味を集めたSwooshは、作る側の問題まで世界へ見せる印にもなった。勝つ選手を映し、自分たちの失敗を認め、次の商品を作る。会社を始めた男が席を離れても、足元の1足を選んでもらう仕事は、また次の店と競技場で続いている。
参考文献・出典 87件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- ナイキと日商岩井の出会い ↩ 本文
- Nike Cofounder to Deliver 2014 Graduation Address ↩ 本文
- Welcome to Knight Law Center ↩ 本文
- The Handshake That Started It All ↩ 本文
- Bill Bowerman: Nike's Original Innovator ↩ 本文
- Phil Knight interview, 2016 ↩ 本文
- Nike founder Phil Knight on the story and culture behind a sports apparel juggernaut ↩ 本文
- Phil Knight本人対談 How to sell without selling ↩ 本文
- Onitsuka Tiger Brand History ↩ 本文
- Philip Knight: For an Entrepreneur Every Day Is a Crisis ↩ 本文
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- Nike Blue Ribbon Store Embraces Running Roots ↩ 本文
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- Knight Cancer Challenge: a Decade of Impact ↩ 本文
- OHSU Receives $2 Billion Commitment ↩ 本文
- Knight Gives $1 Million to Drazan ↩ 本文
- Nike and Phil Knight Complete Planned Chairman Succession ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



