THE STORY
藤田晋の物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01歌う代わりに会社を作る
将棋では父に勝てない
1973年5月16日、藤田晋は福井県に生まれ、眼鏡づくりで知られる鯖江市で育った。小学生のころ、父に教わった将棋で県大会を制した。それでも父には勝てなかった。ほかの子に勝てるようになっても、家へ帰れば、まだ上にいる相手がいた。[1][2]
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。 湖の補助データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。使用データ。現代の地理と都市の代表位置。出生宅・移動経路ではありません。編集部作図。
親は進路を強く押し付ける方ではなかった。本人が反発したのは、納得できない校則などだ。高校へ行くふりをして、友人の家で麻雀をすることもあった。[3]
音楽にも夢中になり、バンドで歌った。文化祭の運営へ関わるため、生徒会の仕事もした。しかし歌い手としての才能に限界を感じると、音楽のそばへ別の方法で残ろうとする。仲間を世に送り出すレコード会社を作る。その夢が、経営者を目指す入口になった。[4]
高校3年の夏に歌手の道を諦め、大学進学へ向けて5か月間、集中的に勉強した。堅い仕事をする父とは違う、華やかな世界へ行きたい。東京の青山学院大学へ進んだ青年は、まず、その夢から大きく外れる。[3]
38単位で立ち止まる
大学へ入ると雀荘へ入り浸った。授業の代わりに麻雀をし、金がなくなればアルバイトを増やす。それでも足りず、親に追加の仕送りを頼んだ。華やかな東京へ出たはずが、麻雀と金策で日々が過ぎる。その後ろめたさから生活を変えようと、雀荘のない街へ引っ越した。[5]
取った単位は1年目18、2年目20。合わせて38しかなかった。3年生から東京のキャンパスへ行くつもりで引っ越したのに進級できず、神奈川のキャンパスへ通い直す。東京へ出たことだけで、思い描いた人生が始まるわけではなかった。[6]
働く場所を探すとき、藤田は先にスーツを買った。求人誌『フロム・エー』で、学生でもその服を着て働ける会社を探した。目に留まったのは、設立4年ほどの広告代理店オックスプランニングセンター。31歳の社長の周りで、20代の社員が働いていた。社長という仕事が、目の前にいる若い人の仕事になった。[7]
02営業へ行ってから大学へ戻る
客と話す仕事に入る
バーで働いていた時期、先輩に将来を問われたことも転機になった。オックスでは約2年半、営業を経験する。客に会い、話を聞き、仕事を持ち帰る。面談の合間に大学へ行き、またスーツで仕事へ戻った。卒業のための単位も取り直さなければならなかった。[2][6]
読んだ『ビジョナリー・カンパニー』は、目標を変えた。青年実業家として華やかに見られることから、長く続く会社そのものを作ることへ。商品も事業も決まっていないうちに、会社の残し方へ関心が向いた。[8]
1997年3月に大学を卒業し、4月に人材会社インテリジェンスへ入った。宇野康秀の構想へ共感していた。学生時代に営業をしてきた新入社員は、入社後も実績を作った。だが、同じ会社でずっと働く選択にはならない。[1][2]
資金を出すから社長をやれ
最初は、以前のオックスの専務と起業する案だった。そこへ宇野が、資金を出して社長を任せる提案をした。資金も仲間も実績も、すべて1人でそろえて独立したのではない。先に経営していた人が出資し、藤田を社長の席へ押し出した。[8]
共に始める相手には、日高裕介がいた。インテリジェンスの内定者研修で同じチームだった友人だ。東京で成績を上げる藤田に対し、日高は大阪で営業に苦戦していた。そこへ、一緒にやらないかという電話が来た。日高は応じた。細かな事業計画より先に、友人と現状を変える機会があった。[9]
創業時は、社長と常務とアルバイトの3人。日高は昼に4、5件の営業へ行き、夜に資料を作り、深夜に打ち合わせた。2人は週110時間働くと決めていた。日高自身が、後に今なら許されない働き方だと明言する日々だった。売る側の専門家の顔で客に会っても、実際には23歳と24歳の駆け出しだった。[9]
03売る商品がない
1998年3月18日の会社
1998年3月18日、サイバーエージェントを設立した。資本金は1000万円。藤田が集めた200万円、仲間の100万円に、インテリジェンスの出資を合わせた。ネット事業へ進むとは決めていたが、最初から独自商品はそろっていない。営業を代行する仕事から始めた。[10][6][2]
売れる物を持つ会社へ変わるために、サイバークリックを始める。広告のクリック実績に応じて料金を受け取るサービスだ。広告を置く場所だけでなく、それに反応した利用者の動きを商品にした。[2]
ところが、客へ提供する1週間前に、肝心のシステムを作れなくなった。売る約束をしても、それを動く物へ変えられなければ渡せない。営業で始めた会社に、開発の力が必要になった。[11]
バイクで来る堀江貴文
頼ったのは、オン・ザ・エッヂを率いる堀江貴文だった。初対面より前から、仕事にはつながりがあった。インテリジェンス時代に藤田が売っていた、就職希望者をネットで管理するIEシステム。その作り手が堀江だった。[12]
開発の見積もりには、納品して代金を受け取る方法と、その後の収益を分ける方法があった。藤田は後者を選び、堀江自身へ頼んだ。サービスが広がってサーバーが止まると、堀江はバイクでオフィスへ駆けつけた。作る人と売る人の関係は、1度の納品では終わらなかった。[12]
1999年の売上は4億5000万円。初年度2000万円から伸びたが、まだ2000万円の赤字だった。その会社へ、インターネット企業の未来に賭ける資金が集まろうとしていた。[2][10]
04225億円が入ってくる
26歳の上場
2000年3月24日、藤田は26歳でマザーズへ会社を上場させた。本人が後に説明した調達額は225億円。会社を作ってから約2年だった。直前の売上4億5000万円の会社が、その50倍の資金を手にした。[2][10]
藤田が重圧として挙げたのは、もし投資家が10%の利益を期待すれば22億5000万円になるという計算だった。それまでの年間売上の5倍の利益だ。会社の口座へ資金が入ることと、その期待へ応えられることの間には、大きな距離があった。[2]
2000年、テレビCMへ7億円を投じた。会社の売上が十数億円だった頃だ。広告を売る仕事で伸びてきても、自社の広告に払った金が同じように戻るわけではなかった。2002〜2003年には秋元康とテレビ番組のスポンサーにもなり、合計3億円ほどを投じたが、事業に目立った効果は出なかったと本人は振り返る。[13]
テレビの仕事でできた、芸能事務所や制作者との付き合いは残った。数年後にはAmebaへ芸能人を招く関係になる。失敗した出資が最初から次の成功を狙った布石だったのではなく、払った金の後に人との関係が残った。[13]
株価が10分の1になる
ネットバブルが崩れ、株価は初期の10分の1へ下がった。藤田は会社を売り、自分が社長を辞めることまで考えたという。上場して若い成功者になった日から、そう遠くない時期のことだった。[2]
宇野にも、会社を買ってもらえないかと相談した。だが、資金を出して起業を支えた宇野は買わなかった。後のテレビ取材では、藤田の話の奥に、なお会社を大きくしたい気持ちを感じたからだと説明した。社長へ送り出した人は、社長をやめるための出口にはならなかった。[11]
05自分の会社から押し出されるかもしれない
三木谷が株主になる
株を渡せば、社員がさらに頑張ってくれる。藤田はそんな効果を期待して、自分の保有株を全社員へ配った。だが、その後に起きたのは退職者の続出だった。十分な報酬で人を引きつけられるという自分の見方が崩れた。本人が後に語った、この時期の苦い失敗だった。[14]
株を配った後の藤田の持分は22.6%。GMOが21.4%、有線が13.2%、M&Aコンサルティングが約10%という構成になった。筆頭株主でも、ほかの株主が組めば自分の経営を続けられなくなる。そこで楽天の三木谷浩史が支えた。楽天が10%を約10億円で取得し、藤田が残って立て直す足場になった。ネット広告を売ってきた若い社長は、社員の給料と売上だけでなく、誰が株を持つかにも向き合わなければならなかった。[15]
周囲からは、会社を立ち上げる力はあっても、大きくするのは別の経営者の役割だと交代を求める声も来た。ところが、その仕事を代わりに任せられる人を探しても見つからない。IT業界そのものが若く、ここから何が起きるかを熟知したプロ経営者など、そういる時代ではなかった。自分が変わって経営を続けるほかないと、藤田は考えた。社長を辞めるという選択肢を口にした青年は、会社の作り方を学び直す方へ向かった。[16]
社員の流出や役員の不和も起きた。藤田は役員を温泉宿へ集め、1泊2日の合宿をした。短期の報酬を強くするだけでなく、長く働き、人を育てる会社へ変える。学生時代に読んだ、長く続く企業の話が、目の前の経営課題になった。[8]
同期も会社では社長と呼ぶ
日高には、会社では自分を社長と呼ぶよう求めた。仲の良い同期の延長にいるだけでは、最後に誰が決めるかを曖昧にしてしまう。親しい人と会社を作っても、役割は同じではなかった。[17]
日高から見た藤田は、穏やかな印象だけでは説明できない人だった。やると決めた事業には深く入り、簡単には曲げない。すべての部署を同じように見るのではなく、自分が重要だと決めた場所へ集中する。その仕事ぶりが、次のAmebaでは画面の細部へ向かう。[9]
06画面の線まで直す
2004年のAmeba
2004年9月、ブログサービスAmebaを始めた。広告を売る代理店から、自分たちの側に人が集まる場所を持つ会社へ進む。客の広告を仲介する仕事だけでは、手数料や粗利益に限界がある。利用者が書き、読み、戻ってくる場所を自分たちで作ろうとした。[10][18]
技術だけで他社を圧倒できるわけではなかった。藤田たちは芸能事務所へ営業に行く。相手にされなかったり、高い金額を求められたりした。提案したのは、出演料を積む代わりに、ブログの広告収入を分ける仕組みだった。書く人の側にも続ける理由を用意した。[19]
それでも赤字が続く。2007年ごろの月間ページ閲覧は5億程度で、本人が商売の目安にしていた30億には遠い。重要な事業と言いながら人へ任せていた場所に、自分が入る。責任者を交代させ、総合プロデューサーとなった。[19][20]
背景色と線の幅まで指示するようになった。営業の社長が、利用者の触る画面へ入り込む。2年で黒字化できなければ辞任すると表明した。株価急落のときは社長を辞めることまで考えた男が、今度はその肩書きを賭けてサービスの中身を作り直した。[20]
小さな分身に人が集まる
Amebaが黒字を目指していた2008年、藤田は新しいサービスを入社2年目の山崎ひとみへ任せた。後のAmeba Piggだ。画面の中に自分の分身を作り、ほかの人と同じ場所で話せる仕組みである。開発にはエンジニアの名村卓も加わった。若い担当者に任せたからといって、社長がいつまでも待つつもりはなかった。企画が固まらず、藤田からは次も駄目なら終了すると告げられた。[21]
山崎は各方面へ相談するのを止め、会議室で1日かけて企画書を書いた。着せ替えそのものより、人と話すための分身にする。翌朝メンバーへ見せ、了承を得ると、今度は1人で藤田の前へ出た。そこでようやく開発が進むことになった。期限は2009年2月。遅れたら、それまでどれだけ作っていても出さないという条件だった。[21]
2009年2月19日、サービスは間に合った。ところが、最初に用意した6つのエリアはすぐ満員になり、その日のうちに50エリアを追加した。終了を告げられかけた企画に、今度は人を受け入れる場所が足りなくなった。[21]
難しかったのは、画面を作ることだけではない。自分の分身を作っても、知らない人が集まる場所で何をしたらよいか分からなければ帰ってしまう。そこで、相手の分身をクリックするだけで好意を伝えられる「グッピグ」を用意した。仮想空間で撮った写真はブログにも載せられた。記事を書いていた人が、そのまま分身を連れて別の人に会いに行く。サービス開始から10か月で会員は180万人になった。[22]
この時期、AmebaではAmebaなうという短文投稿のサービスも始めた。だが、そこでは事前に把握していた安全上の弱点を先に突かれ、不正な投稿が起きた。担当側は年明けの修正を予定していたが、問題が起きた翌日に対応した。人を集める開発と、集まった人を守る運営は同時に進めなければならなかった。2009年7〜9月期、Ameba事業は初めて黒字になった。ブログの広告に加え、Piggの服や小物を買う課金も収入へ育っていた。[22]
役員8人の席も動かす
2008年当時、役員8人は32〜36歳だった。若い経営陣でも、下の社員から見れば上の席が長く空かない会社になる。藤田は役員を増やすのでなく、入れ替えるCA8を始めた。2年ごとに2人を交代させ、退いた人も別の持ち場へ行き、戻る道を残す。[23]
退任した役員にも、別の事業を任せる道を残した。交代を会社からの追放にしてしまえば、席を譲る側も抵抗する。経営陣の人数を増やさず、次の人が入れる入口を開く方式だった。[23]
07社内へ次の起業家を置く
合宿で決めたら動かす
2006年から続ける「あした会議」では、役員と社員がチームを組んだ。約1か月前から準備し、現場の課題や事業案を集める。合宿へ持ち込むのは30案前後で、15〜20案ほどをその場で決議する。事業だけでなく、人の配置や働き方の制度も議題になる。[24]
2021年9月までの会社集計では、会議から32社が生まれ、累計売上は約3259億円、営業利益は約455億円となった。1年間の実績でなく、そこで始めた事業が積み上げた数字だった。[24]
採用した案を、いつまで待つかも決める。2004年に始めたCAJJは、事業をJ1、J2、J3のように分け、昇格と降格、撤退の基準を置いた。2016年のJJJでは、初期事業を現在の利益だけで切らず、経営陣が評価する価値を使い、30億円へ届けば次の管理へ移す方式を取った。[25]
失敗も多い。2014年の登壇で藤田が挙げた設立会社は94社、残っていたのは59社だった。社員が案を出せる仕組みは、すべての案が成功する仕組みではなかった。[13]
88本の開発ライン
スマートフォンへ人が移ると、会社も作る場所を移した。2010年にアプリボット、2011年にCygamesを設立。2012年末には、新しいAmebaの宣伝へ1か月で30億円を投じると発表した。[10][26]
その前に1年半かけてサービスを作っていた。開発ラインは88本、平均10人。直近1年に増やした社員は1266人で、その大半がエンジニアだった。GIRL’S TALKは女性の匿名の会話、ペコリは料理写真、パシャっとmyペットはペット写真。違う関心を持つ人へ、いくつもの入口を並べた。CMでは鈴木おさむが社員12人へ取材し、作り手自身も表へ出た。[26]
30億円の宣伝を始める前に、藤田は2つの条件を待った。スマートフォンが十分に普及していること。そして、初めて来た利用者が翌日以降も使う割合が40%を超えることだった。広告を打って大量の人が来ても、最初の画面で帰られたら金を捨てるだけになる。利用者が残る手応えを確かめてから、一気にCMを流した。[27]
その裏で、パソコン向けの新規開発はすべて止めていた。従来型の携帯電話も藤田自身は見なくなり、仕事の95%をスマートフォンのサービス作りに割いた。新規サービスは6か月以内、既存の仕組みを使うなら4か月以内に出す。だが期限が来れば何でも公開するのではない。幹部が品質を審査する「K点チェック」を通らなければ開発へ戻した。大量の開発ラインを走らせながら、社長自身が画面を確かめる体制だった。[27]
2014年7月には、そのAmeba事業を1600人ほどから800人ほどへ減らし、新しい成長分野へ人を移す構造改革案を発表する。集めた人を、同じ場所へ置き続ける判断にはならなかった。[28]
帰宅してからも仕事が終わらない
会社を育て直す間、私生活も変わっていた。2004年に結婚した女優の奥菜恵とは、2005年7月に離婚した。藤田はその事実を自分のブログで公表した。芸能人にブログを書いてもらうサービスを営む自分自身も、私生活をめぐる知らせをブログから発信する人になっていた。[29]
2009年9月に再婚する前には、帰宅後に大量の酒を飲み、眠る直前まで葉巻を吸ってストレスを解消していた時期もあった。本人は後に、家族と休日を過ごすようになったことが、気分の安定にも仕事にも良い影響を与えたと記している。会社を出てからも緊張を引きずっていた暮らしから、家族と過ごす休日へ。仕事の外の生活を立て直す時期でもあった。[30]
三木谷へ仕事の相談をしたときも、返ってきたのは事業の助言だけではなかった。趣味を持つことを勧められ、ゴルフを本格的に始め、ワインにも興味を持った。野尻佳孝を通じて知り合ったヒロミには、東京湾のシーバス釣りへ連れていってもらった。やがて船の免許を取り、船まで買った。以前は週110時間の仕事を決めていた経営者が、仕事から離れる方法にも手をかけるようになる。[30]
08音楽の夢とテレビの入口
役員にも見せなかったロゴ
2015年4月、会社とAmebaのロゴを変えた。半年かけた直轄の計画で、社員総会の発表まで役員にも見せなかった。長く使い、知られていたアメーバの図柄を、自分の判断で変える。発表したとき、社員も驚いたという。[31]
5月にはavexと定額制音楽アプリAWAを始めた。操作の細かな動きにも手を入れ、デザインを重視した。歌うことを諦め、レコード会社を作りたいと思った青年が、今度は音楽を聴く場所を会社の事業にした。[31][4]
2016年4月11日に開局する
2014年10月、藤田は食事の席で、テレビ朝日の早河洋会長へ共同事業を持ちかけた。早河はその場で応じた。2人が初めて会ったのは2010年。Piggの中へテレビ朝日の空間を作り、深夜番組や人材でも交流し、2013年からは藤田が番組審議委員を務めていた。突然来たネット企業へ放送局が門を開いたのではなく、先に小さな仕事と人の行き来が積み重なっていた。[32]
初めに考えたのは定額で見るサービスだったが、より多くの人が使う広告型へ変えた。早河は社内の幅広い合議にかけず、話を進めた。[32]
2015年4月、テレビ朝日と共同出資でAbemaTVの会社を作った。ニュースや番組を編成し、スマートフォンで無料で見られるメディアを目指す。投稿された映像を並べるだけでなく、自分たちで番組の時間を作る事業だった。[10]
2015年7月には両社の社員40人が箱根で合宿した。ネット側ができること、テレビ側が作れるものを持ち寄り、同じ事業を動かす相手として関係を作る。社長2人の合意を、実際に番組とサービスを作る現場へ下ろす時間だった。[32]
2016年4月11日、放送を始めた。後のABEMAである。開局から半年でダウンロードは1000万を超えたが、藤田が見たかったのは入れた人数だけではない。毎日、毎週戻ってきて、見る人がいるか。その規模を作るため、長い赤字を引き受けることになる。[33][34]
テレビ朝日のアナウンサー小松靖にも参加を求めた。地上波の報道番組で実績を持つ人がいることは、新しい画面の信用にもなる。小松は試作番組と宣伝から関わった。[35]
藤田は当初、映像の権利を買い、制作を外へ頼めばよいと考えていた。だが、一緒に作るとテレビ局の制作力への見方を変えた。毎日のニュースやバラエティを作り続ける人々と組む。ネットがテレビを奪うという説明では見えない協力が、画面の裏で始まった。[36]
09開局3日後に地震が来る
会見を最後まで流す
2016年4月14日、熊本地震が起きた。開局から3日後のABEMA NEWSは速報を流し、会見も長く中継した。決まった時刻で次の番組へ切り替える地上波と違い、その先も流せる。制作陣は、災害や会見への反応を見て、この使われ方を育てた。[37]
2020年には、テレビ朝日の首相会見中継にQRコードを出し、続きをABEMAへ案内する連携も行った。同じカメラの映像が、地上波の番組が終わった後もネットへ流れる。作る側にも、別の放送先があるという意識が広がった。[37]
アニメも想定より幅広く見られ、5チャンネルへ増えた。『ユーリ!!! on ICE』の特番ではコメント欄が壊れるほどの反響があった。始める前から、すべての使われ方を読み切っていたわけではなかった。[34]
近づけた名前を離す
同じグループには、利用者が自分で映像を配信するFRESH!もあった。ABEMAへ人を誘導しようと名称や導線を近づけると、FRESH!の配信に出た人まで、AbemaTVへ出演したと説明するようになった。編成する番組と、自由に使う配信の場所が混ざって伝わった。[34]
2016年のうちに名称からAbemaを外し、運営も分けた。藤田は、複雑にしたのは自分の判断だったと認めた。人を集めるために近づけた2つの場所を、誤解させないために離し直した。[34]
10年という言葉
藤田は後年、10年で黒字化するという言葉が、当初から精密な計算で出した計画ではなかったとも記した。広告やゲームが稼ぐ会社の中で、新しいメディアへ金を出し続ける。いつ回収できるかを完全に見通した事業ではなかった。[38]
最初は日本代表の試合を買わない
2016年秋、藤田は翌期に200億円ほどの赤字を受け入れて投資する考えを投資家へ示した。番組を自分たちで作る費用、アニメなどの権利を買う費用、宣伝。その配分まで説明した上で、いきなり日本代表の試合へ大金を払うことはしないと話している。巨大な話題を買う前に、普段から番組を見る習慣を作りたかった。[39]
当時の週間利用者は300万人ほど。藤田が事業成立の目安にしたのは、その3倍以上の1000万人だった。テレビの電源をつける代わりに、アプリを開く人を増やす。2〜3年は目先の損益より、その土台を優先する。ゲームが稼いでいる時期にメディアを育てたいと、投資家に資金の使い道を示した。まだ収益の柱ではないABEMAへ、会社の利益を注ぐ判断だった。[39]
1072時間を社長の別荘から流す
試合が始まった瞬間に止まる
2017年5月7日、元世界王者の亀田興毅へ一般視聴者4人が挑む番組を流した。勝てば1000万円。題名だけで何が起きるか伝わる企画だった。放送は午後6時、試合は8時開始。その肝心の試合が始まるころ、アクセスが集中してサーバーが止まった。[40]
人を呼べない苦しさとは反対に、呼び込んだ人へ映像を届けられない。復旧は9時前ごろとなり、試合は午後11時まで配信された。番組はYouTube Liveなどでも流し、YouTubeの同時接続は73万人。ABEMA側の再生は1420万回に達した。同じ人の再アクセスも含む回数だったが、それまでの最多番組を大きく上回った。その夜、試合映像は特設サイトでも無料公開された。[40]
藤田はヒットの次を求められる立場になった。格闘技に関心がない人、まだアプリを入れていない女性へも届ける企画が必要だった。そこへ、以前の事務所を離れる3人の情報が来た。[41]
元SMAPの3人を口説く
藤田は番組の審査に「とんがリスト会議」を設けていた。他では見られない企画か、ニュースのように繰り返し見る習慣を作るものか。無名のアプリを開いてもらう理由を、企画の段階から選んだ。[25]
2017年11月、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾が『72時間ホンネテレビ』へ出演した。テレビでよく知られた3人が、ネットでSNSを始める。番組を見る人が反応し、その外でも話題が続く構想だった。[41]
以前の事務所を離れてすぐ、藤田が自ら交渉へ行った。その段階ではテレビ朝日にも伝えていなかった。開幕の場所には、自分の別荘を使った。そこで初めて挨拶した制作会社の社長から、もう72時間番組はやめようと切り出されたほど、準備は大変だったという。[41]
始まる当日にも、全員の出演が確定していたわけではない。放送を見て出たいという人が現れ、途中で決まる出演もあった。2日から5日まで、制作陣が番組をつなぎ、藤田も長く見続けた。男性へ届く格闘技の企画に比べ、弱かった女性の利用を広げる機会にもなった。[41]
自分の起業をドラマにする
その春、藤田は大きな投資をさらにもう1年続けると話していた。社員の3分の1がテレビを持たないという身近な変化もある。テレビへの関心がすべて消えるのでなく、見る場所が動く先へ会社を持っていこうとした。[42]
2018年には、著書『渋谷ではたらく社長の告白』を土台に、鈴木おさむが脚本を書く『会社は学校じゃねぇんだよ』を企画した。先行作品の3億円とほぼ同水準の制作費を、短い話数と尺へ投入する。藤田が細かく求めたのは、AK-69の主題歌を流す位置だった。ほかは制作側へ大きく任せた。[43]
リアルタイムだけでなく、後から見る配信やYouTubeへも広がった。かつてテレビへ金を出し、事業に効果を出せなかった人が、今度は自分のメディアで作品を作る側へ入った。
11麻雀の席を画面の向こうへ広げる
2014年に最強位を取る
2014年、藤田は麻雀最強戦へ出た。会社の皆と勝つのとは違う、自分の力で結果が決まる場所でもあった。後の武豊との対談でも、経営には短時間で勝敗が決まる区切りがないことを語っている。[44]
決勝卓には森下剛任、小林剛、時岡史明。藤田は著名人代表として座り、6400点、12000点、12000点と序盤に連続であがった。そのリードを守って優勝した。参加者2700人の大会の頂点へ、会社の肩書きとは別に立った。表彰式では翌年のスポンサーになるとも宣言した。[45]
選手と打ち、関係が続き、仕事や生活の話を聞くようになる。やがて、チームで競い、観客が応援する麻雀リーグの構想へ進んだ。だが、スポンサー候補のIT企業などには断られた。自分が好きな競技でも、他社が資金を出す理由を作らなければならなかった。[46]
ゴルフの誘いがつなぐ
最高顧問へ迎えたかったのは、Jリーグ初代チェアマン川淵三郎だった。引き受けてもらえると思えずに準備していた頃、知人から、川淵と回るゴルフの組に空きがあると誘われた。そこで話すと、川淵も週1回の健康麻雀を楽しむ人だった。就任を頼むと快諾された。[47]
難しかった人選が、知人の誘いから動く。藤田は最後の牌で勝つ役になぞらえ、海底ツモと呼んだ。広告の仕事で経営者や企業と会ってきた関係が、麻雀のリーグを作る場でもつながった。[47]
2018年6月に運営団体を設立し、7月に発足を発表、10月に開幕した。KONAMI麻雀格闘倶楽部、セガサミーフェニックス、EX風林火山、TEAM RAIDEN/雷電、赤坂ドリブンズ、U-NEXT Pirates、渋谷ABEMASの7チーム。競合するメディアやゲーム会社も、それぞれのチームを持って参加した。藤田は代表理事、川淵は最高顧問となった。[48]
応援したかった俳優も選手になる
開幕前、俳優の萩原聖人は専用スタジオとロッカールームを見て、メジャーリーグの選手になったようだと喜んだ。もともとは応援する側で考えていたが、発足会見を見て自分も出たくなり、プロ資格を取った。俳優の仕事と並行して練習する人が、観客を連れてくる選手にもなる。藤田は参加したいと聞いたとき、ガッツポーズをしたと語った。[49]
2019年には、各チームへ最低1人の女性選手が入るルールを設けた。2年目は8チーム29人。セガサミーフェニックスは4人のうち3人を女性にした。男女が同じ卓で競えるゲームで、出場する席も変えようとした。[50]
藤田自身も視聴者になった。帰りが遅い日はSNSで結果を見ないようにして、帰宅後に映像を再生した。会社の配信の数字だけでなく、その日の勝負の続きを楽しみに待っていた。[50]
優勝したら監督を渡す
リーグを始めた藤田は、渋谷ABEMASの監督も務めた。だが自分のチームが毎年優勝する展開にはならなかった。初年度から4年続けて決勝へ進みながら、いずれも3位。リーグ全体を率いる立場で、毎年ほかのチームが頂点へ上がるところを見届けた。[51]
2023年5月19日、5シーズン目の最終戦を多井隆晴が打った。今度こそ渋谷ABEMASが初優勝した。藤田から優勝のシャーレと賞金5000万円の目録を受け取った多井は、プロを辞めかけるたび藤田に救われたと語り、涙を流した。経営者が好きで始めた配信の事業には、職業として麻雀を続けてきた人の人生も重なっていた。[51]
優勝を機に、藤田は監督を後任へ渡すと決めた。塚本泰隆が引き継ぎ、藤田はリーグ全体のチェアマンへ専念する。自分のチームでつかんだ勝利を区切りに、特定のチームを勝たせる仕事から離れた。[52]
12クラブの名前は誰のものか
11億円の投資と反発
2018年10月、町田ゼルビアがグループへ入った。藤田が引かれたのは、完成したJ1クラブを買うより、共に成長する過程を持てることだった。会社から11億円を投資し、東京全体を市場にしてスポンサーを増やす構想を描いた。[10][53]
翌年、クラブ名をFC町田トウキョウへ変える案が出ると、サポーターが反発した。経営参画直後、ホームのゴール裏には歓迎の横断幕があった。その歓迎に甘え、限られた関係者だけで進め、説明を後回しにしたと本人は認めた。[53]
2019年10月18日、翌年も名称などを続ける方針が示された。藤田の名称変更案は、実現しなかった。[53]
2022年12月1日、藤田はクラブの代表取締役社長兼CEOへ就いた。資金を出す会社の社長から、自分でクラブを率いる立場にも入った。[1]
高校の監督をプロへ迎える
町田を率いるために迎えたのは、青森山田高校で全国大会を制してきた黒田剛だった。2023年、チームはJ2を26勝9分7敗で終え、初優勝と初のJ1昇格を果たす。翌年、初めて立ったJ1でも3位に入った。クラブ名をめぐる反発を受けた時期から、ピッチで成績を積む年月へ進んだ。[54]
名称変更を取りやめたFC町田ゼルビアの名前が、今度は上位争いをするチームとして知られるようになった。2025年には天皇杯を制し、クラブ初の主要タイトルも手にした。資金を入れた会社の説明だけでなく、選手と監督が出す結果、地元の人が応援する試合が、クラブの名前へ新しい記憶を加えていった。[54]
135億円の上限を超えていた
2021年に馬主になる
2021年、藤田は馬主になった。以前、起業時に世話になった先輩経営者から、馬とFerrariだけは買うなと言われていた。2020年の新年会でその縛りを解いてもらい、年末には武豊にも勧められた。[55]
2021年3月、資格申請中でも買えると森秀行調教師から聞き、アメリカの競りへ電話で参加した。血統は専門家へ任せ、ジャングロを26万5000ドル(約4176万4000円)で買った。翌年には重賞を勝つ馬になる。[55]
ドーブネでは、上限5億円のつもりで落札した。税抜価格は4億7010万円。しかし税込にすると5億1711万円だった。競りの数字は5億円の内側でも、支払額は外へ出ていた。[55]
同年のセレクトセールでは、18頭を23億円超の規模で購入した。『ウマ娘 プリティーダービー』の好調と重なり、外からは事業と馬主参入がつながって見えた。本人は直接の因果を否定しながら、ゲームの業績が予算を増やしたことは説明している。[56][55]
馬主の前に専門家がいる
2024年10月2日、所有馬フォーエバーヤングが大井競馬場のジャパンダートクラシックを制した。坂井瑠星騎手が乗り、矢作芳人厩舎が送り出した馬だった。翌年には、さらに大きな舞台の勝利が待っていた。[57]

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2025年11月1日、アメリカ西部・カリフォルニア州のデルマー競馬場で、所有馬フォーエバーヤングがブリーダーズカップクラシックを制した。日本で調教された馬として初めてだった。騎手は坂井瑠星、調教師は矢作芳人。馬主になって数年で、日本の馬が届かなかった舞台へ所有馬が走った。[58]
同馬は2025年度JRA賞の年度代表馬にもなった。本人が感謝を向けたのは、厩舎、騎手、牧場などの仕事だった。馬を買う判断の後には、自分で代われない専門家の日々が続いていた。[59]

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14全64試合を無料で流す
日本が出るか決まる前に
2021年末ごろ、テレビ朝日から打診が来た。2022年カタールW杯を、ABEMAで全64試合無料生中継する。日本代表の出場も、まだ決まっていない時期だった。藤田は、日本が出られない場合や時差のリスクも説明を受けた上で話を進めた。[60][61]
開局前から目安にしていたのは、週に1000万人が使う規模だった。一時の大イベントだけで来てもらっても、ほかに見る物がなければ戻らない。6年かけて普段の視聴が育ち、1000万WAUを超えたところで、その大きな大会を受け入れると判断した。[60]
藤田は本田圭佑を直接口説いた。本田は当初、日程が分からず断ろうとしていたが、できるだけ多くの人に、どこからでも全試合を見てほしいという藤田の考えを聞き、引き受けた。[62]
実況席の不安も準備で埋める
本田と組むテレビ朝日の寺川俊平には、不安もあった。選手としての本田は知っていても、解説者としてどう話すかは十分に見えていなかった。制作陣は大会前の強化試合へ寺川を同行させ、話す機会を作った。出演交渉を、中継の仕事へ仕上げる人たちがいた。[63]
ドイツ戦の本田の解説が話題になると、Twitterとも急きょ連携し、特定のハッシュタグへ本田の絵文字が出る仕組みを用意した。試合を流すだけでなく、それを見た人が、その場で反応を共有する入口も足した。[63]
大会中の週間利用者は3409万人へ達した。一方、大会を含む2022年10〜12月のメディア事業は96億6300万円の営業損失で、会社全体でも17億3800万円の営業損失だった。大きな視聴の流れが来た四半期にも、支出は重い。この96億6300万円は部門全体の損失で、放映権料そのものの金額ではない。[64][65]
15ヒットにも次の問題が来る
稼ぎ頭のゲームで起きたこと
ABEMAへ金を入れ続ける前から、ゲームの現場では、藤田が1人で作れるものではない作品が育っていた。Cygamesを率いる渡邊耕一と、デザインを手がける皆葉英夫が、浮かぶ大陸と空を行く船の世界を描く。そこから始まったのが『グランブルーファンタジー』だった。2013年1月に開発を始め、12月の予定を延期して、2014年3月10日に配信した。『FINAL FANTASY』シリーズでも知られる植松伸夫が音楽で参加した。[66]
藤田が投資するゲーム事業の中で、作り手たちは文章、音楽、キャラクターをそろえた世界へ利用者を招いていた。だが、その世界に人がのめり込むほど、運営する側がお金をどう受け取るかも問われた。
2015年末から2016年初めにかけてのイベントで、キャラクター「アンチラ」がなかなか手に入らないことなどから、利用者の不満が噴き出した。欲しい装備などを抽選で得るガチャに、何度お金を払えば届くのか。その個別の確率は明示されていなかった。返金を求めたり、消費者庁へ通報したりする人も出た。2016年3月、個別の出現確率が表示されるようになると、最も低いものでは0.007%という数字が現れた。[67]
運営側は、対象期間に使った金額に相当するゲーム内の宝晶石などを配ると発表した。現金で一律に返金する対応とは異なる。また、1つのイベント期間中に利用回数が300回へ達すると、運営が定める対象装備から好きなものを1つ獲得できる仕組みを設けた。抽選で出るまで続ける以外の到達点が、ようやく用意された。[68]
同年4月の決算説明会で、藤田は前年末のゲーム需要が予想できないほど伸びたと話した。3月の自主規制は減収要因として示しながら、業績への影響は大きくないとも説明した。ABEMAへは下期に90億円を投じて育てる考えを示していた。その新しいメディアを支えるゲームの利益のそばには、課金の仕組みに怒り、変更を求めた利用者がいた。[69]
ウマ娘の反動と特許訴訟
2021年2月、Cygamesが『ウマ娘 プリティーダービー』を配信した。実在の競走馬をモデルにしたキャラクターを育て、レースを走らせるゲームだ。開始から7か月で1000万ダウンロードを超えた。藤田は長く育てたい大きな作品だと話す一方、熱狂がいつ落ち着くのかは経営陣にも分からないと認めた。ヒットの勢いをそのまま翌年の予想へ置くことはせず、業績見通しの発表を見合わせた。[70]
その2021年9月期、連結売上は6661億4900万円、営業利益は1040億7000万円へ伸びた。後年訂正された決算でも、会社の利益が1000億円を超えた年として残る。広告の営業から始まった会社に、1つの作品が巨大な利益を運んだ。[71]
しかし、ゲームの周年イベントなどで一気に伸びた数字には反動が来る。2023年9月期の最初の9か月、ゲーム事業の売上は1368億800万円、営業利益は202億5300万円となった。前年の同じ期間から、売上は21.2%、営業利益は58.2%落ちた。新しいメディアへ投資を続ける会社で、その財源となるゲームも、一定のペースで稼ぎ続ける事業ではなかった。[72]
Cygamesは『ウマ娘』に関する特許をめぐり、コナミから訴えられた。同社は侵害を否定し、2025年11月7日、和解を発表した。条件は原則非公表。早期解決と長期のサービスを理由にした合意で、公開された勝訴判決が出たわけではない。[73][74]
社外取締役にも面白い仕事を
藤田はNestlé日本の元トップ、高岡浩三を社外取締役へ誘った。仕事がつまらないという理由で断られかけたが、海外経験とマーケティングの力を借りたくて、面白くすると約束し説得した。[17]
宇野や三木谷が社外取締役だった頃、実際の議論は別の会議で終わり、月1回の取締役会は形式的になっていた。新しい社外取締役には、常勤役員が事業を話す会議にも参加してもらう。名前を並べるだけでなく、判断の場へ入ってもらう形へ変えた。[17]
任せる仕組みの死角
多くの子会社を作り、若手へ責任を渡してきた組織で、2025年には過去の決算を書き直す問題が起きた。子会社CyberOwlのアフィリエイト広告事業で、成果報酬の売上を計算する根拠が改ざんされていた。広告から生まれた成果の確定分に加え、予測した成果を見込む概算部分があり、そこに使う係数などを担当取締役1人が2020年から操作していたと、会社は4月16日に公表した。[75]
その取締役は、事業を動かす役目と経営管理の役目を兼ねていた。売上を作る側と、その数字を確かめる側の牽制が十分に働かなかった。会社は、本人の改ざんだけでなく、管理と監査の体制にも原因があったと認めた。ほかの子会社などにも同種の調査を行い、同様の不正は認められなかったとした。[75]
5月15日、2020年9月期から2024年9月期までの有価証券報告書などが訂正された。2023年9月期の連結営業利益は、訂正前の245億5700万円から223億5100万円へ変わった。今回の処理では、これまで重要性がないとして未修正だった項目も合わせて直している。新しい会社を作る会議や役員交代の制度があっても、発表してきた数字を守る仕組みには修正が必要だった。[71]
16次の社長へ判断を渡す
16人の候補者
2021年の取材で藤田は、後継者育成はまだしていないと話していた。子会社の社長は育っていても、研修で自分の後を担う人が育つか疑問もあった。それが2022年春、16人を選び、交代への準備を始める。[17][76]
過去の決断を追体験してもらい、なぜそう判断したかを引き継ぎ書へまとめた。創業者の頭の中に積もった経験を、その人がいない場所でも使える言葉へ変える。3年半の準備は、次の社長だけでなく、それを支える経営陣も育てる時間になった。[76]
社長をやりたいと言った社員
山内隆裕は2006年に新卒で入社した。最初に子会社の仕事を任せる際、藤田が想定したのは営業担当役員だったが、山内は社長をやりたいと申し出た。すぐにはかなわず、まずCyberXで実績を作った。11か月ほどで黒字にすると、藤田はもう1度呼び、以前の希望を覚えていた。2009年、CyberZの社長を任せた。[77][76]
携帯電話広告へ後から参入したCyberZは、黒字と赤字を繰り返した。スマートフォンへ切り替えて成長した後も、稼げるうちに次の手を打つ考えが山内に残る。大きな会社の社長候補になる前に、小さな会社で投資へ動けない苦しさを知っていた。[77]
2025年12月、山内が社長に就き、藤田は代表取締役会長へ移った。山内は、研修で責任を知るほど、会社を成長させ続けられるか不安になったと語る。候補者同士は誰が選ばれても支えると話した。2027年に新社長独自の構想を示し、2029年に社長業の8割を渡す目標を置く。肩書きを替えた日に、すべてを任せ終える計画ではなかった。[78][76]
17長い赤字の後にも仕事は残る
設立以来初めての四半期黒字
メディア&IP事業は2025年度に通期黒字になった。AbemaTVという会社自体が設立以来初めて四半期の営業黒字になったのは、2025年10〜12月、2026年9月期の第1四半期だった。ほかの事業を含む部門全体と、動画の会社の成績には、それぞれ違う節目がある。[78][79]
2018年には電通もAbemaTVへ出資していた。広告では強い競合の会社が、メディアでは株主になる。当時電通の現場にいた佐野傑は驚いたと語る。出資後には幹部会議へ人が入り、広告だけでなく、コンテンツの調達や交渉も助ける関係になった。[80]
2026年春の対談で、藤田はW杯を大きな転機に挙げた。出演者や広告主が新たに加わり、使ってもらいやすくなった。若い頃に顧客を回って広告を売っていた会社が、自分で作った画面を舞台に、業界の大きな会社とも番組や広告の仕事をするようになった。[80]
新社長は作品そのものへ進む
山内は2017年からABEMAの派生事業を担当していた。広告と視聴課金だけでなく、番組や作品の人気をゲームやイベントなどへ広げる。社長になってからも、作品の権利を自分たちで持つ方針を強めた。[81]
アニメを放送する中で制作会社との関係ができ、別の形で人気を広げる仕事が社内に増えた。一方、DVDなどの物理的な商品を扱う経験は不足しているとも認めた。全部を自社で抱えるのではなく、外と組む。藤田が作った見る場所から、次の社長は、その場所で見られる作品の権利へ進む。[81]
売る商品を探した会社の現在
2025年度、広告事業の売上は4612億円、ゲームは2167億円、メディア&IPは2315億円だった。広告には大型顧客の離脱があり、ゲームは7本の新作とヒットが利益を押し上げた。メディアはDAZN、WOWOW、Disney+などとの連携も進める。3つの柱が、同じ条件で稼ぐわけではなかった。[82]
同年度の連結売上は8740億3000万円、営業利益は717億200万円。設立時に売る商品を探していた営業代行の会社は、広告、ゲーム、メディアを持つ企業へ育った。[83]
父に将棋で勝てなかった少年は、麻雀の大会で勝ち、自分でリーグを作った。歌う道を諦めた後には、音楽を聴くアプリと番組を流す画面を作った。好きなものを仕事へ持ち込みながら、株主、社員、視聴者、サポーターと、簡単には自分の考えどおりに動かない相手に出会ってきた。
「21世紀を代表する会社を創る」。創業以来の理念は残る。社長を渡した今、その会社で次に何を始めるかは、藤田だけが決め続ける仕事ではなくなった。自分が判断を重ねて育てた会社へ、今度は別の人が判断する余地を渡している。[78]
参考文献・出典 83件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- 株式会社ゼルビア代表取締役社長交代のお知らせ ↩ 本文
- 第18回 藤田晋 ↩ 本文
- 気になるあの人の才能の磨き方 藤田晋 / 長谷川敦弥 ↩ 本文
- 東京大学プレミアムサロン 藤田晋講演報告 ↩ 本文
- ニッポン放送出演時の本人回想:大学時代と転機(2025年6月14日) ↩ 本文
- 青山学院大学寄付講座 第4回 藤田晋(2011年5月18日) ↩ 本文
- 藤田晋『渋谷ではたらく社長の告白』公開抜粋(2018年5月28日) ↩ 本文
- CA藤田晋氏が明かす会社が社員を大事にする理由 ↩ 本文
- 日高裕介が語る藤田晋と創業・役割分担(2019年7月21日講演、10月10日掲載) ↩ 本文
- CyberAgent沿革 ↩ 本文
- TBS がっちりマンデー!!サイバーエージェント(2005年6月19日放送) ↩ 本文
- 藤田晋・堀江貴文『心を鍛える』公開抜粋/新R25 2022年2月19日 ↩ 本文
- 失敗力カンファレンス 藤田晋・兼元謙任・石渡美奈 組織編(2015年1月6日) ↩ 本文
- PRESIDENT・藤田晋本人が語る保有株の配布と退職 ↩ 本文
- 低迷期を奮い立たせた楽天三木谷社長の言葉 / 心を鍛える抜粋 ↩ 本文
- DeNA公式・藤田晋と南場智子の対談 ↩ 本文
- 朝日新聞GLOBE+ 藤田晋 ガバナンス改革(2021年3月23日) ↩ 本文
- 藤田晋 経営者は黒字に逃げてはいけない(2018年4月号、公開部分のみ) ↩ 本文
- 藤田晋・田原総一朗対談/PRESIDENT 2014年2月6日 ↩ 本文
- 2度の経営戦略転換 / 24時間365日100%経営に集中 ↩ 本文
- 山崎ひとみ本人・Ameba Pigg開発回想(全3頁) ↩ 本文
- ITmedia・長瀬慶重当時インタビュー ↩ 本文
- 週刊ダイヤモンド CA8役員交代制度(2008年10月1日) ↩ 本文
- 持続的成長を支えるあした会議 ↩ 本文
- インターネットに新たなマスメディアを AbemaTVの挑戦 ↩ 本文
- ケータイWatch Amebaスマホ発表会(2012年11月15日) ↩ 本文
- ITmedia・藤田晋本人がスマートフォン転換を語る ↩ 本文
- Tech通信 Vol.1 藤田晋 構造改革(2014年9月号、公開部分) ↩ 本文
- ITmedia・2005年7月22日藤田本人ブログ発表の離婚 ↩ 本文
- 藤田本人著書公開抜粋・家族と趣味による休息 ↩ 本文
- ベンチャー通信60号 藤田晋 ロゴ刷新とAWA(2015年8月号) ↩ 本文
- 東洋経済・早河洋本人の2016年インタビュー ↩ 本文
- AbemaTVが大赤字でも冷静な理由 ↩ 本文
- AV Watch 西田宗千佳による藤田晋単独取材 2016年12月16日 ↩ 本文
- ビデオリサーチ 徳永有美×小松靖 AbemaPrimeの出発点(2018年6月19日) ↩ 本文
- 週刊ダイヤモンド 藤田晋 ネット放送とテレビ制作(2016年6月3日、公開部分のみ) ↩ 本文
- Screens 山本剛史・山中勇成・森山顕矩 ABEMA NEWS現場取材(2020年7月20日) ↩ 本文
- AbemaTVをどう黒字化させたか ↩ 本文
- 2016年度決算説明会・藤田本人のABEMA投資説明 ↩ 本文
- ITmedia・配信当時CyberAgent取材のサーバ停止報道 ↩ 本文
- Business Insider Japan 藤田晋インタビュー 2017年11月13日 ↩ 本文
- ITmedia 新経済サミットでの藤田晋発言 2017年4月7日 ↩ 本文
- ORICON 鈴木おさむ×藤田晋 ドラマ制作対談(2018年6月8日) ↩ 本文
- 武豊×藤田晋 特別対談(2021年) ↩ 本文
- 麻雀最強戦2014 主催者による決勝結果 ↩ 本文
- 人生で一番世のためになった Mリーグ / 勝負眼抜粋 ↩ 本文
- 政経電論 藤田晋本人取材・Mリーグ発足の奇跡(2018年9月18日) ↩ 本文
- Mリーグ 発足のお知らせ(2018年7月17日) ↩ 本文
- GOETHE 藤田晋×萩原聖人 Mリーグ開幕対談(2018年9月30日) ↩ 本文
- 朝日新聞広告特集 REACH! 藤田晋本人インタビュー(2019年9月30日) ↩ 本文
- 日刊スポーツ・2023年5月19日最終戦と多井本人取材 ↩ 本文
- CyberAgent公式・渋谷ABEMAS監督交代 ↩ 本文
- ゼルビアとJクラブ経営思いの丈 ↩ 本文
- FC町田ゼルビア公式沿革 ↩ 本文
- セレクトセール2022 藤田晋インタビュー ↩ 本文
- 今年も大盛況だったセレクトセール ↩ 本文
- 地方競馬全国協会 第26回ジャパンダートクラシック(2024年10月2日)結果・レーティング ↩ 本文
- JRA フォーエバーヤング・ブリーダーズカップクラシック優勝記念イベント 2026年1月4日 ↩ 本文
- 2025年度JRA賞決定 年度代表馬フォーエバーヤング ↩ 本文
- W杯全64試合無料生中継する理由 ↩ 本文
- 最初から全試合無料と考えた ABEMA責任者に聞く ↩ 本文
- ABEMA 本田圭佑GM就任コメント(2022年3月22日) ↩ 本文
- マイナビ 塚本泰隆・長畑洋太 W杯制作総括取材(2023年2月19日) ↩ 本文
- FY2023 Q1決算説明会資料 ↩ 本文
- サイバーエージェント 2025年5月15日訂正 2024年9月期第1四半期決算短信(前年比較の2023年9月期第1四半期連結営業損失1738百万円、メディア損失9663百万円) ↩ 本文
- gamebiz・2014年開発当事者の直接インタビュー ↩ 本文
- ねとらぼ・2016年3月11日の確率表示実装と利用者反応 ↩ 本文
- Cygames公式・2016年グランブルーファンタジー今後の方針 ↩ 本文
- gamebiz・2016年4月21日藤田本人決算説明会 ↩ 本文
- ITmedia・2021年10月27日藤田本人決算説明 ↩ 本文
- CyberAgent公式・2025年5月15日過年度訂正と影響額 ↩ 本文
- CyberAgent公式・2023年9月期第3四半期訂正短信 ↩ 本文
- 当社に対する訴訟の提起について ↩ 本文
- Notice on Settlement of Patent Infringement Lawsuit against Subsidiary ↩ 本文
- CyberAgent公式・CyberOwl調査結果公表 ↩ 本文
- 創業社長から2代目への社長交代 ↩ 本文
- 経済界 山内隆裕 二代目が挑む承継(2026年8月6日) ↩ 本文
- トップメッセージ 藤田晋会長・山内隆裕社長 ↩ 本文
- 2026年9月期第1四半期決算短信 ↩ 本文
- ABEMA10周年 藤田晋×佐野傑(2026年3月対談、4月6日掲載) ↩ 本文
- JBpress 山内隆裕インタビュー IP戦略(2026年掲載) ↩ 本文
- Impress Watch 2025年通期決算と社長交代(2025年11月14日) ↩ 本文
- 2025年9月期決算短信 ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月2日確認のWise表示値(1米ドル=157.6円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD
本文更新:2026-11-02



