THE STORY
モリス・チャンの物語
選んだ道。その先で、起きたこと。
01世界の工場をつくった55歳
名前のない主役
スマートフォンを開く。地図を読み込み、写真を撮り、AIに質問する。その画面の奥には、持ち主が名前を知らない工場で生まれた半導体が働いている。TSMCは、AppleやNVIDIAが設計したチップを実際につくる会社だ。店頭で自社ブランドのスマートフォンを売らない。それでも世界の有力企業が、新製品の心臓部をこの会社に預ける。[1]
創業者はモリス・チャン。中国語では張忠謀という。1931年に中国で生まれ、戦争から逃れ、アメリカの大学へ渡った。学者を目指して試験に落ち、大企業の幹部まで上り詰めながら、その会社も去った。台湾へ渡ったのは54歳。TSMCをつくったのは55歳だった。大学の寮から飛び出した若い天才とは違う。半導体をつくる難しさも、大企業で席を失う苦さも知る男が、ようやく自分の会社を始める。[2][3]
しかも選んだのは、誰もが欲しがる華やかな商品ではなかった。他人の注文を受けてつくる工場。後に産業全体を変える仕事は、当初、魅力が伝わりにくい商売でもあった。チャン自身が後年のStanfordで振り返ったように、世の中がまだはっきり求めていない役割を、先につくろうとしていた。[4]
02戦争のたびに住む場所が変わった
港町から香港へ
地理データ:Natural Earth(パブリックドメイン)。現代の行政区分と都市の代表位置を表示。都市の代表座標。歴史上の国境や出生宅・実際の避難経路を示さない。編集部作図。
チャンは1931年7月10日、中国東部・浙江省の港湾都市である寧波に生まれた。父は銀行の仕事をしていた。家族は南京、広州へと移り、日中戦争が始まると母子は香港へ避難した。学校へ通い、将来の仕事を考える時間のすぐ外側で、都市そのものの安全が崩れていった。[5][6]
香港も最後の避難先にはならなかった。1941年12月、日本軍が攻撃を始める。銃撃のある日々と占領を経て、家族は中国内陸の重慶へ移った。戦争が終わって上海へ戻っても、今度は国共内戦が近づいた。暮らしの立て直しは、別の戦争によってまた中断された。チャンの18歳までの生活には、同じ場所で安心して将来を待つという前提がなかった。[6]
ただし一家は、食べるものもない家ではなかった。本人は中流家庭の出身で、飢えを経験したわけではないと述べている。教育を受ける道も、後に海外へ渡る道も残っていた。その家庭の支えと、戦争に何度も生活を動かされた経験は、同じ少年の中にあった。豊かさだけでも貧しさだけでも、彼の出発点は説明できない。[6]
文学を捨てて工学へ
少年が憧れたのは作家だった。ところが1949年、アメリカ北東部・マサチューセッツ州の学術都市ケンブリッジにあるHarvard Universityへ進んだチャンは、職業の選び方を変えていく。文章を書く夢と、移住先で生活の土台を築く必要がぶつかった。専門技術を身につければ、手に職を持って働ける。1年後、彼は近隣のMITへ移った。[4][5]
戦争を抜けてきた18歳にとって、当時のアメリカは機会の多い場所だった。大学、研究、企業。自分の勉強を仕事へつなぐ入口が見える。チャンは機械工学を選び、1952年に学士、1953年に修士を取得した。成績を積み上げれば、そのまま研究者への道が開く。そこまでは順調に見えた。[2]
英語だけの1年
Harvardの1年は、専門を変える準備期間だけではなかった。チャンはアメリカ人の友人と過ごし、英語で読み、話し、学ぶ生活へ入った。文学から歴史へ、関心を広げる読書も続けた。後年に本人が挙げた読書には、Hemingway、Shakespeare、Jane Austenの作品や、歴史、経済の本が並ぶ。仕事を得るために工学へ進んだ青年の中で、言葉への関心は残っていた。[7]
海を渡るまでとは違う言語で考え、専門の授業を受け、将来の生活を組み立てる。故郷で落ち着いて暮らす道が閉じた後、チャンはアメリカで自分の能力を使える場所を探した。父の仕事で移った都市、戦争から逃れた都市、留学して選んだ都市。次第に、自分で進む場所を決める人生へ変わっていった。[8]
03博士への道が閉じた
学位の手前で止まる
MITで博士号へ進もうとしたチャンは、資格試験を突破できなかった。名門大学へ渡り、学士と修士を取った青年が、その先へ進めない。研究を一生の仕事にするはずだった予定はここで途切れ、企業への就職を探し始めた。欲しかった資格を取れず、大学で続けるはずだった研究を仕事の外へ置くことになった。[6]
就職先の候補には自動車会社Fordもあった。月給は479ドル(約7万5844円)。電機会社Sylvaniaの小さな半導体部門は480ドル(約7万6003円)を提示した。チャンはFordへ上積みを求めたが、受け入れられなかった。そこでSylvaniaを選ぶ。月1ドル(約158円)の差で決めた就職先が、彼を半導体の世界へ入れた。1955年のことだった。[5]
機械工学を学んだ青年は、急成長する新しい電子部品の製造現場へ配置された。博士試験でつまずかなければ会わなかった機械と人が、ここから彼の仕事を変えていく。[6]
04壊れる部品を減らす仕事
工場の数字から覚えた
Sylvaniaで向き合ったのは、ゲルマニウムのトランジスターだった。電流を制御する小さな電子部品で、当時の電子機器を変えつつあった。ただし設計どおりにつくれば全部が使えるわけではない。製造したうち何個が良品になるかという歩留まりが、工場の採算を左右した。[5]
チャンは配線を接続する工程の改善に取り組んだ。熱で部品を傷める問題を、機械工学の知識で解こうとした。材料を扱い、装置を調整し、同じ品質でつくり続ける。その積み重ねが、売れる製品を増やす。大学で学んだ専門が、そのままではなく別の形で役立った。[5]
一方で、工場だけ改善しても会社全体が強くなるとは限らなかった。3年後、チャンはSylvaniaを離れる。半導体事業が勢いを増していたTexas Instrumentsへ向かった。移った先はアメリカ南部・テキサス州の商業都市ダラス。ここでの25年が、彼の次の長い修業になる。[6][2]
05会社が博士号を取り直させた
給料も学費も出す

写真:Crazyblocks/出典/CC0 1.0。表示用サイズ・圧縮調整。
Texas Instrumentsでは、小さな技術チームと生産ラインを任された。仕事で評価を受け、担当範囲が広がる。入社から3年ほどたった1961年、会社はチャンをStanford Universityへ送り出した。博士号を取るためだった。以前は越えられなかった学位の壁へ、今度は勤務先の支援を受けて戻る。[6]
条件は手厚かった。在学中も給与を払い、学費や学校の費用を負担する。技術会議へ参加する機会まであった。働き盛りの社員を会社から離し、その勉強へ投資する。チャンはアメリカ西部・カリフォルニア州の大学街パロアルトで学び、1964年に電気工学の博士号を取得した。かつての失敗が消えたわけではないが、学び直す入口は仕事の実績から開いた。[6][9]
戻ったチャンを待っていたのは、研究室にこもる人生ではなかった。技術だけでなく、人、費用、価格、販売量を扱う管理の仕事へ進む。ゲルマニウム、シリコン、集積回路。責任を持つ事業は次々に変わり、1966年には集積回路の責任者、1972年には世界の半導体事業を率いるグループ副社長になった。工場の一工程から、世界中の事業を見る席まで上がった。[3]
06安くしてから儲ける
まだ下がっていない費用を先に読む
半導体は、たくさんつくるほど製造の経験がたまり、良品を増やしやすくなる。チャンはTexas Instrumentsで、この学習による費用低下を価格に先取りする戦略を進めた。目先の利益を薄くしても注文を取り、製造量を増やし、後から費用を下げる。工場の効率と営業の値札を、別々の話にしないやり方だった。[9]
良品を増やし、費用を下げ、注文を伸ばす。値下げした分を工場の改善で取り戻すまで、資金を使って先の注文を取りにいく戦略だった。この判断には、製造の細部と商売の両方を見る経験が必要だった。チャンは学生時代に目指した研究者から離れ、技術をどう大量の売上へ変えるかを考える経営者になっていた。[9]
Texas Instrumentsは半導体だけの会社でもなかった。消費者向けの製品へ事業を広げ、チャンも1978年から1980年にかけて、その事業を担当した。その後は品質、教育、生産性などを見る役割へ移った。大企業の幹部として責任は重い。それでも、自分が進みたかった半導体の中心から、仕事の軸が離れていく。[3]
07頂上の手前で会社を去る
25年の続きが見えない
1983年、チャンはTexas Instrumentsを退社した。博士号の費用を出してくれた会社であり、世界の事業を任せてくれた会社でもある。四半世紀の蓄積を持っていても、会社の進む方向と自分の仕事が重ならなくなれば、そのまま続けるだけでは次が開けない。彼は50代で、長くいた組織の外へ出た。[2][3]
次に選んだGeneral Instrumentは、半導体も扱う大きな電機会社だった。チャンは社長兼COOとして入った。ところが新しい肩書きだけでは、望んだ仕事にならなかった。本人の口述記録では、Texas Instrumentsで経験した社内からの成長と、買収を重ねるGeneral Instrumentの経営に大きな違いがあった。移籍は落ち着く先にならず、再び次を探すことになる。[10]
社内で技術を育て、製造を改善して事業を大きくする。Texas Instrumentsで身についたそのやり方を、新しい勤務先では同じように使えなかった。地位は高くても、チャンの仕事は落ち着かなかった。[10]
Trump Towerに暮らした日々
ニューヨークでの暮らしには、チャンが若いころ思い描いた願いをかなえた部分もあった。よいアパートに住み、数ブロック先のオフィスまで歩いて仕事へ行く。General Instrumentへ移った彼は、アメリカ東部・ニューヨーク市のマンハッタンにあるTrump Towerに住んだ。ドナルド・トランプがつくった高層ビルだ。半導体の経営者は、その看板の下で生活していた。[11]
2022年の対話でチャンは、この時期を、都会で暮らす若いころの夢を一部実現した経験として語った。それでも住まいと会社の肩書きが望みどおりになれば、仕事の方向まで揃うわけではなかった。彼はニューヨークに留まらず、台湾の研究所へ移る道を選ぶ。生活の完成形に近づいたように見える時期から、再び場所を変える決断だった。[11]
0854歳で台湾へ
研究所の外に工場をつくる
1985年、チャンは台湾の工業技術研究院、ITRIの院長に就いた。台湾では、政府が半導体産業を育てる取り組みを進めていた。すでにアメリカのRCAから技術を導入し、研究所の人材と技術を民間事業へ移す動きもあった。1980年にはUMCが生まれている。チャンは何もない島へたった1人で半導体を持ち込んだのではなく、先行する計画と技術者のいる場所へ来た。[12]
台湾北西部の研究機関と工場が集まる新竹で、彼は研究を産業へつなぐ仕事に入った。優れた実験ができても、客から継続して注文を受ける企業にならなければ、産業の厚みは増えない。研究所の技術を外へ出し、工場を回し、海外へ売り込む。その橋渡しに、アメリカ企業で25年を過ごした経験が使われる。[12]
台湾には、世界の大手と同じように設計、製造、販売の全部で勝負するための条件が揃っていたわけではない。チャンはその弱さから事業の形を絞った。自分の商品を考えて売る仕事より、他社の設計した半導体をつくる仕事へ集中する。足りないものを全部そろえるより、勝負する範囲を変えた。[4]
09自分の商品を持たない会社
客の秘密を預かる

写真:DrHughManning/出典/CC BY-SA 4.0。表示用サイズ・圧縮調整。
当時の半導体大手は、設計した製品を自分たちの工場でつくるのが一般的だった。工場を持たない設計会社が別の企業へ製造を頼むこともできたが、受け手が自社製品を優先したり、将来の競争相手になったりする心配がある。肝心の設計図を、簡単に渡せる相手ではなかった。[1]
チャンが考えたTSMCは、製造サービスに専念する会社だった。顧客自身が設計し、TSMCがつくる。工場を持たない会社は、自社の巨大な設備投資を抱えずに製品を世に出せる。TSMCは複数の顧客から注文を集め、工場と技術へ投資する。客と競わないことが、工場を選ぶ理由になる。[1]
この仕組みは後にファブレス企業を育てる土台になった。ファブレスとは、自社の半導体工場を持たず設計に力を注ぐ会社のことだ。ただし1987年に、その大きな未来がすでに注文として並んでいたわけではない。創業後の会社には、工場を必要とする相手を探し、品質を認めてもらう現実の仕事が残っていた。[4]
10創業者だけでは建たない工場
政府とPhilipsの資金
1987年2月、TSMCが設立された。出資したのは台湾政府、オランダの電機大手Philips、民間の投資家たちだった。研究所から生まれた技術や人材に、資金と海外企業の協力が加わる。チャンの発想を事業にするためには、その組み合わせが必要だった。[13][14]
そもそも台湾の行政院長だった兪国華は、半導体の専門知識を持つ海外企業を計画へ入れるよう求めていた。チャンはIntelや、長年勤めたTexas Instrumentsにも働きかけた。その役割を担ったのがPhilipsだった。台湾側の資金だけで会社をつくるのではなく、海外の半導体企業を共同の出資者にする。構想を通す段階から、チャンには国をまたぐ交渉が必要だった。[15]
Philipsとの取り決めには製造技術や知的財産に関する協力も含まれた。出資金を受け取れば工場が完成するわけではない。顧客から預かった設計を製品へ変えるための技術も、会社の外から組み込んだ。[16]
研究所の製造技術者と、チャンがアメリカ企業で得た経営経験。それぞれの蓄積が、新しい会社へ合流した。台湾で製造し、海外で注文を得るための土台があった。[12][3]
最初の黒字と次の工場
会社の初期の年表には、1988年のアメリカ子会社設立と、同年12月に利益を出したことが記されている。海外の客へ近づき、台湾の工場で注文を形にする。その往復が始まった。1989年には欧州にも拠点を設け、1990年には新しい6インチ工場Fab 2を開いた。[13]
初期の顧客にはIBM、Intel、Texas Instruments、Motorolaがいた。チャンは、大手各社との仕事で品質管理を学んだと振り返っている。注文を得ながら、世界の客が要求する製品をつくる力も磨いた。[17]
ただし大手が外へ出す注文だけで、安定して工場が埋まるわけではなかった。1987年から1990年にかけては、余った仕事の受け皿として使われる不安定さが残った。大きな変化が現れるのは1990年代に入ってからだ。工場を持たずに設計へ特化した会社が育ち、自分の製品を量産するためにTSMCを必要とするようになった。[6]
11競争しない約束を会社に刻む
工場の客はライバル同士

写真:曾成訓/出典/CC BY 2.0。表示用サイズ・圧縮調整。
1994年の年次報告書は、TSMCの特徴をはっきり記している。会社の定款によって、自社ブランドの半導体最終製品を設計・製造することを禁じる。顧客の競争相手ではなく、協力者であるためだ。経営者が口頭で約束するだけでなく、会社の役割そのものに制限を置いた。[18]
この方針は、工場を客自身の設備のように使ってもらう「Virtual Fab」という考え方へつながった。1998年のインタビューでチャンは、自社工場を重視するIntelでさえ、いずれマイクロプロセッサーの製造を外へ頼むようになるだろうと語っている。その時点でIntelが製造を明け渡したのではない。世界最大級の競争力を持つ会社の仕事まで、将来は受けられると考えていた。[19]
その年末、社員は2681人、稼働顧客は130社を超えていた。平均年齢は28歳。60代の創業者が率いる会社の現場には、若い技術者たちが集まっていた。1994年9月には台湾で上場する。工場に回す資本と、顧客へ示す継続性。その両方を強くする段階へ入った。[18][14]
12小さな会社から届いた手紙
NVIDIAを無視しない
1990年代後半、チャンのもとへジェンスン・フアンから手紙が届いた。NVIDIAという小さな会社が製造を頼みたいのに、TSMCのアメリカ拠点から返事が来ない、という内容だった。チャンは渡米の際に本人へ電話し、面会へつなげた。後に2025年のインタビューで明かした、2人の関係の始まりだ。[20]
フアンが率いるNVIDIAは、画像処理の半導体をつくる会社だった。自社の大きな工場を持たない。優れた設計をしても、それを大量に製造できなければ、製品を売って資金を得るところまで進めない。TSMC側から見れば、今は小さな注文でも、その先に伸びる顧客かもしれなかった。[21]
量産での協力は1998年に始まった。2002年、両社は累計2億個の画像処理半導体の出荷を祝い、2006年には5億個へ達した。小さな設計会社へ返した電話の先で、工場には次々と仕事が来るようになった。2011年にはGeForceの出荷が10億個へ届く。自分の商品を持たない工場は、顧客の商品が広がるほど大きくなった。[22][21][23]
新婚旅行にも黒い手帳
ある金曜の午後、チャンはフアンへ電話してNVIDIAを訪ねた。営業担当者たちの同行を予想したフアンの前に現れたのは、チャン1人。事業の調子と必要なウエハーの枚数を尋ね、黒い手帳へ書き留めた。[17]
フアンが何年も後に知ったところでは、訪問は新婚旅行の途中だった。2007年の公開対談で、フアンはチャンの妻ソフィーにも話を向けてこの思い出を明かした。休暇中にも客を訪ね、将来の注文を自分の手で書く会長だった。[17]
13アメリカでも工場は簡単ではなかった
WaferTechという苦戦
1996年、TSMCはアメリカ北西部・ワシントン州のコロンビア川沿いにあるカマスで、WaferTechの建設を始めた。Altera、Analog Devicesなどと組んだ12億ドル(約1900億円)の合弁事業だった。台湾の工場で育てた事業を、顧客に近いアメリカでも広げる。後のアリゾナ進出よりずっと前から、TSMCは海外の生産拠点を持とうとしていた。[24]
ところが1998年の決算は、拡大の代償も示した。TSMCの売上は増えたが、利益は前年を下回る。工場の稼働率低下に加え、WaferTechとVanguard International Semiconductorへの投資損失が重なった。注文を集める商売では、設備を増やす速さと客の需要が噛み合わないと、成長していても利益が削られる。[25]
同年には設備投資計画も13億ドル(約2058億円)から9億2000万ドル(約1456億円)へ引き下げた。増設を全部止めたのではなく、需要の弱さに合わせて時期を調整した。先に工場をつくる勇気と、金の使い方を変える判断は、両方必要だった。後に海外工場の費用や人材確保へ慎重な発言をするチャンには、こうした経験もあった。[26]
14台湾が揺れた朝
工場へ電気が戻らない

写真:최광모 / Kwangmo/出典/CC BY-SA 4.0。表示用サイズ・圧縮調整。
1999年9月21日、台湾を大地震が襲った。TSMCは午前11時の時点で、建物や空調、水と電力の設備に初期調査上の大きな損傷はないと発表した。しかし新竹科学園区には通常の電気が戻っていなかった。建物が立っていても、精密な製造設備をそのまま動かすことはできない。[27]
9月23日、会社は限られた電力を機械から機械へ回し、設備と製造途中のウエハーを調べていた。空調、排気、純水。半導体の工場を支える設備を順に立ち上げる必要がある。顧客が待つのは、復旧できそうだという印象ではなく、自分たちの製品がいつ出荷できるかという具体的な知らせだった。[28]
9月25日の発表では、生産に使える状態へ戻った製造設備は20%だった。海外の装置メーカーからも技術者が来た。工場の社員、電力会社、設備の供給元が一緒に復旧を進める。TSMCの信用は創業者の発想だけでなく、こうした日々に約束を取り戻せるかにもかかっていた。[29]
復旧の後に残る仕事
震災後、TSMCと社員は被災者へ2億ニュー台湾ドル(約9億円)を寄付した。教育文化財団は音楽公演や子どもの本の支援にも動いた。工場の納期を戻す仕事と、そこで働く人が暮らす社会を立て直す仕事が重なった。技術だけを見ていては完結しない企業の役割を、震災は目の前へ押し出した。[30]
一方で会社は、需要が伸びる次の時代へも手を伸ばしていた。2000年には、TSMC-Acer ManufacturingとWorldwide Semiconductor Manufacturingを統合。3000人以上の人材が加わり、顧客へ渡せる製造能力が広がった。小さな会社を次々に生む製造専門という事業も、その受け皿になるためには、自分自身が大きな組織へ変わり続ける必要があった。[31]
15成功した会社を他人に渡す
初めてCEOを降りる
2005年、チャンは日々の経営を蔡力行、リック・ツァイへ引き継いだ。7月1日からツァイが社長兼CEOとなり、チャンは会長へ専念する。自分がつくった会社が十分に強くなり、経営陣がより大きな責任を担う準備もできた。その判断をもとに、段階的な承継を進めた。[32]
後継者は外から突然現れた人ではなかった。TSMCで長く仕事をし、工場、営業、経営の責任を担ってきた幹部だった。チャンが残り、ツァイが日常の事業と戦略を動かす。創業者がすべてを直接決める会社から、その経験を引き継ぐ組織へ変わろうとした。[32][33]
チャンは半導体業界で最高水準の表彰を受ける人物になっていた。2008年には、アメリカの半導体業界団体SIAのRobert N. Noyce Awardも授与された。顧客が工場を持たずに挑戦できる仕組みをつくった功績だった。ところが賞を受けるころ、工場の外では金融危機が広がり、顧客の注文が急激にしぼみ始めていた。[34]
16注文が半分になった
2009年の数字
2009年1〜3月、TSMCの売上は395億ニュー台湾ドル(約1903億円)だった。前年同期から54.8%の減少。純利益は94.5%減った。製造を受け持つ会社は、注文が止まっても工場を簡単に小さくできない。高価な設備と人を抱えたまま、入ってくる売上だけが細る。世界の半導体企業を支える会社も、その世界が一斉に注文を減らせば直撃を受ける。[35]
会社は費用を削り、従業員の雇用にも手を付けた。業績評価を根拠に職を失った社員たちから反発が起こる。4月6日の公式発表では、200人を超える元従業員へ、経営環境の悪化による雇用終了を証明する書類を出したこと、法定分に加えて年功に応じた補償をすることを公表した。会社はこれを最終的な決定だと説明していた。[36]
それでも問題は終わらなかった。会社の都合で人を減らしたのか、能力が足りないとして職を失わせたのか。失職した側にとって、その違いは仕事を探す時の尊厳にもかかわる。評価制度を使った削減への怒りは、経営陣と社員の間の信用を傷つけた。[37][38]
17謝る相手は工場の外にいた
解雇された人を迎え直す
チャンの自宅周辺でも抗議が起きた。職を失った社員たちが集まり、夜を越す人もいた。妻のソフィーは、翌朝、抗議している人たちへ朝食を届けた。会社を批判している相手を、排除すべき敵としてだけ扱わない。家庭のそばへ来た対立の中で、その行動があった。[39]
5月、チャンは社員へ、雇用を失った人たちに十分な敬意を払えず、不況の中で次の仕事を探す難しさへの配慮も足りなかったことを認めた。会社は6月1日から復帰できるよう呼びかけた。4月には最終決定としていた対応を変え、謝罪と再雇用へ動いた。[37][38]
1度は能力の問題を突きつけられて職を失った人に、働く場所をもう1度提示する。復帰を受け入れるかは相手が決める。チャンは解雇の方法が誤っていたと認め、会社が1度下した決定を覆した。[37]
77歳のCEO復帰
6月11日、取締役会はチャンを再びCEOへ指名した。翌日から会長とCEOを兼務する。ツァイは新規事業の社長へ移った。公式発表でチャンはツァイの貢献を評価し、長期的な成長機会を開く仕事を任せると説明した。経営の主導権を戻しながら、相手を会社から追い出す形は選ばなかった。[40]
77歳の復帰だった。多くの経営者が引退後の生活に入る年齢で、チャンは注文が急減した会社の先をもう1度決める立場になる。守りに入る理由はいくらでもあった。それでも次に彼が進めたのは、費用を絞ることだけではない。次の半導体へ、より大きな金を使う準備だった。[40][41]
18不況の先へ59億ドル(約9342億円)を置く
工場に戻した成長の速度
2010年、TSMCは設備投資に59億4000万ドル(約9405億円)を使った。当時の会社にとって過去最高だった。研究開発の通常予算も40%ほど増やし、研究用設備への投資も拡大した。前年に注文の崩壊を経験した会社が、次の需要へ向けて先に資金を出した。[41]
狙いの中心にあったのは28nmの製造技術だった。nmはナノメートルの略で、半導体の技術世代を示す呼び名として使われる。より小さな面積で性能や消費電力を改善できれば、携帯端末をつくる客に大きな価値がある。TSMCが賭けた先には、スマートフォンが一部の人の新しい道具から、日常の標準へ変わる市場があった。[41][42]
ただし研究室で動くことと、顧客の商品を大量につくることは違う。注文する側も、その技術で自分の設計が本当に動くかを確かめなければならない。TSMCは設計ソフトの会社や、回路の部品を提供する企業とも協力した。工場だけを立派にして待つのでなく、そこへ顧客の設計を運び込める道まで整える。製造専門の会社は、設計する人の仕事にも深く入っていった。[43]
Qualcommとつくる次の世代
2010年1月、通信向け半導体のQualcommは、TSMCと28nm技術で協力していると発表した。同社のSnapdragonはスマートフォンの処理や通信を担う半導体だ。端末を小さくし、電池を長く持たせ、できることを増やす。その競争を、設計する会社と製造する会社が分担して進める。[42]
TSMCは2011年10月、28nmの量産と顧客への出荷を発表した。すでに80を超える顧客製品の設計が製造へ向かっていた。翌2012年の第2四半期には、28nmがウエハー売上の7%を占める。会社は第3四半期の出荷が倍になる見通しを示した。数年前に使った巨額の金が、新しい世代の注文として返ってき始めた。[44][45]
19Appleが夕食へ来た
工場に欲しかった大きな客
2010年11月、チャンの家で開かれた夕食にAppleのジェフ・ウィリアムズが来た。間をつないだのはFoxconn創業者の郭台銘だった。FoxconnはiPhoneなどの製品の組み立てを担う大手企業で、郭はチャンの妻の親族でもあった。食卓で始まった話は、AppleのチップをTSMCでつくるという商談だった。[20]
Appleのような客を迎えるには、いまある設備へ少し注文を足すだけでは済まない。新しい世代の技術を準備し、大量に生産し、新製品の発売に間に合わせる必要がある。Appleにとっては端末の中心部を外へ預ける選択であり、TSMCにとっては金と人を先に集める選択だった。[46]
Apple側も、製品を設計する会社から別の製品で競争を仕掛けられる心配のない相手を求めていた。TSMCはスマートフォンを売らない。顧客の成功を見て同じ商品を出さないという創業時の方針が、大きな注文を受ける信用として働いた。チャンが長く維持した事業の境界が、ここで力を持つ。[18][4]
90億ドル(約1兆4250億円)と6000人
2017年のTSMC創立30周年の場で、ウィリアムズは協業の規模を語った。最初の大きな取り組みでTSMCは90億ドル(約1兆4250億円)を投資し、6000人が交代で働き、台南の工場を11か月で立ち上げたという。両社は新しいiPhoneとiPadのプロセッサーをTSMCから調達する賭けへ踏み出していた。[46]
チャンが用意しなければならなかったのは、交渉でのうまい言葉ではなかった。建設、装置の導入、工程の調整、設計の確認、良品の積み上げ。いくつもの仕事を、客の製品計画へつなぐ。TSMCの看板が売場に出なくても、店頭に並ぶ新しい端末の数が、その仕事の大きさを示すようになった。[46]
世界の消費者が目にするのはAppleの製品だった。その裏で、工場をつくるために先に金を払い、製造上の問題を解き続ける会社がある。チャンが55歳で始めた目立たない役割は、世界で最も注目される商品の予定を支える仕事へ変わっていた。[1][46]
20技術の勝負は止まらない
平面から立体へ
28nmで注文が増えても、その技術だけで次の世代を待つことはできなかった。TSMCは20nm、その先の16nmへ進んだ。16nmではFinFETという立体的なトランジスター構造を採用する。小さくするだけでは制御しにくくなる電流を、形を変えて扱おうとする技術だ。[47]
2014年11月、TSMCは16FinFET Plusの試験的な生産段階への到達を発表した。顧客の設計を受け入れ、品質や信頼性を確かめ、量産へ移す準備が続く。技術ができたという発表と、安定して大量につくれる状態の間には仕事が残る。創業以来の歩留まりの問題は、部品が小さくなっても消えていなかった。[47]
競争相手には、自分の製品もつくるSamsungがいた。客から見れば、性能、費用、供給できる数、発売時期がすべて関係する。チャンが持つ信用だけで、注文が自動的に残る市場ではない。TSMCは客と競わない方針を守りながら、客が欲しい技術の競争では前へ進み続ける必要があった。[48][44]
チップをつなぐ新しい仕事
工夫する場所は、チップそのものの細かさだけでもなかった。TSMCはCoWoSと呼ばれる、複数の半導体を高密度につなぐ実装技術を育てた。大きな計算をするチップと、データを出し入れするメモリーを近くで結べば、システム全体の働きを改善できる。[49]
2012年の発表では、設計関連の企業と一緒に、CoWoSを使った試験用の回路を進めていた。完成したチップを箱に入れるだけの最後の工程ではなく、どのようにつなぐかが製品の能力を左右する。TSMCが客へ提供する仕事の範囲は、工場で薄い円盤へ回路を刻む段階から、その先へも伸びていった。[49]
この蓄積は、後のAI向け半導体でも重要になる。NVIDIAは2022年の協業発表で、複数世代の高性能GPUにTSMCのCoWoSを使ってきたと説明した。設計を預ける関係は、1回の注文で終わらない。次の世代のつくり方を、一緒に準備する長い関係になっていた。[50]
21秘密を守るための法廷
SMICとの長い争い
TSMCの工場には顧客の設計が入り、自社の製造技術も積み重なる。その情報が外へ出れば、何年もかけた競争力が失われかねない。チャンの会社は、中国の半導体受託製造企業SMICとの間で、特許と営業秘密をめぐる訴訟を争った。[51]
2005年1月、両社は和解した。SMICが6年にわたって合計1億7500万ドル(約277億円)を支払うこと、特許の相互利用などが公表された。ただし、営業秘密を利用する権利が与えられたわけではなかった。競争する会社同士が取引条件を決めても、守らなければならない情報の境界は残る。[51]
その後、和解合意違反と営業秘密の不正利用をめぐって再び争いになり、2009年11月には新たな和解へ至った。発表された現金支払いは2億ドル(約316億円)で、従来の合意によってすでに支払われていた1億3500万ドル(約213億円)とは別だった。製造専門という事業は、世界の会社へ工場を開く一方、技術の秘密を守るためには法廷へ出る仕事でもあった。[52]
こうした紛争を、工場の技術だけの話として切り離すことはできない。TSMCが顧客から選ばれる理由には、預かったものを守り、他社へ流さず、次の製品も任せられるという期待がある。新しい回路の製造と、情報を扱う統制。その両方が、同じ会社の信用をつくる。[53]
22つくる力でも勝てなかった事業
太陽電池の6年間
チャンが率いたTSMCにも、本業の成功をそのまま持ち込めなかった分野がある。太陽電池だ。半導体で身につけた製造の知識と研究開発を使い、新しい収益源を育てようとした。ところが高い変換効率を実現しても、後から市場へ入った不利と、生産規模の差による費用の問題を崩せなかった。[54]
2015年8月、TSMCは太陽電池の製造を終えると発表した。6年間取り組んでも、継続して利益を出す方法を見つけられなかった。世界水準の技術を持つことと、商売として残ることが分かれた。チャンが若いころSylvaniaで見た製造と経営の距離を、TSMC自身も別の市場で突きつけられた。[54]
会社は台湾の工場で働いていた約365人へ、TSMCでの雇用を申し出た。事業は閉じても、社員をそのまま切り離さない。同年の第3四半期決算には、太陽電池事業の終了に伴う28億ニュー台湾ドル(約134億円)の損失が計上された。新規事業を育てる夢と、諦める費用。その両方が、成功した半導体企業の決算に残った。[55][48]
23後継者に誘った男は断った
フアンへの打診
チャンは、次に会社を任せる相手も考え続けていた。2024年に公になった自伝の中では、2013年にジェンスン・フアンへTSMCのCEOを引き受ける気があるか打診したことを明かした。フアンは約10分で断った。チャンはしばらくしてもう1度持ちかけたが、答えは変わらなかった。[56]
かつて製造を頼む小さな会社の創業者だったフアンは、自分の会社を率いる仕事を選んだ。TSMCの工場が顧客の成長を支え、その顧客の経営者が、今度は後継候補として声をかけられる。2人の関係の変化は、製造専門という仕組みが生んだ企業の大きさも示していた。[56][21]
最終的に2013年11月、会社は劉徳音、マーク・リューと魏哲家、C.C.ウェイの共同CEO体制へ移った。チャンは会長として残る。誰か1人を見つけて全部渡すのでなく、社内で経験を積んだ2人へ役割を持たせる。2005年の承継と2009年の復帰を経た会社は、次の移行を別の形で進めた。[57]
2486歳で会長室を離れる
今度は経営へ戻らない

写真:中華民国総統府 / Office of the President, Taiwan/出典/CC BY 2.0。表示用サイズ・圧縮調整。
2017年10月、チャンは翌年6月の株主総会後に引退すると発表した。取締役にも残らず、経営活動にも参加しない。劉徳音が会長、魏哲家がCEOとなる。長く会社の中心にいた人が、後継者の上へ別の椅子を残さない方針だった。[58]
2018年6月5日、31年余り率いたTSMCを離れた。86歳だった。台湾へ来た時に54歳。会社をつくってから、さらに30年以上を働いたことになる。残りの時間を自分と家族のために使いたいという理由も、本人の引退発表に明記された。遅く始めた起業は、短い第2の仕事ではなく、人生の後半そのものになっていた。[59][58]
TSMCはその後も技術と設備を伸ばしていった。劉徳音と魏哲家が経営を担い、現場の技術者たちが次の世代を育てる。チャンが長く守った、顧客と競わずに製造で勝つという方針も引き継がれた。[59]
25会社を動かす人たちの生活
夜中にも現場へ向かう強さ
2023年、MITへ戻ったチャンは、台湾でTSMCが育った理由を技術だけでなく働く人の条件から説明した。訓練を受けた技術者や作業員、離職の少なさ、生産拠点が集まる地域、経験の積み上げ。製造の強さは、優れた装置を買えばそのまま手に入るものではなかった。[60]
同じ講演で彼は、台湾では夜中に装置の問題が起これば、担当技術者が自宅から現場へ向かうことにも触れた。TSMCにとっては復旧を早める力になる。働く側と家族から見れば、工場の都合が生活へ入り込む仕組みでもある。世界の新製品を間に合わせる能力の下には、そうした人の働き方があった。[60]
解雇への抗議から再雇用へ動いた会社で、技術者たちは夜中にも装置の問題へ駆けつける。会社が守ろうとする雇用と、客の発売日を守るために現場へ求める働き方。その両方が、チャンの率いた製造業を支えていた。[38][60]
26水がなければ最先端も止まる
台湾へ集めた工場の弱さ
チャンが引退した後も、工場は土地の条件から自由にはならなかった。2021年、台湾は深刻な干ばつに直面した。半導体製造には、大量の水を処理してつくる非常に純度の高い水が必要になる。チップの性能を細かくする競争の横で、工場へ水を運び続けられるかという問題が起きた。[61]
TSMCは用水の回収や再利用、調達先の確保などを組み合わせて対応し、生産を中断せずに乗り切ったと報告した。給水車の準備も、将来の技術を開発する仕事と同じ会社の中にある。人、電気、水、設備会社。台湾の一地域に集めた強さは、そこで起きる災害への備えと切り離せなかった。[62]
1999年の地震で、チャンの会社は電力の復旧を待った。20年以上たつと、さらに多くの世界の製品が、台湾の工場が動き続けることを前提にするようになった。集約するほど経験と効率は高まる。その工場に何かあれば、影響も遠くまで届く。彼が育てた事業の重要性には、こうした緊張が伴うようになった。[61][53]
27世界をつないだ工場が国境に挟まれる
グローバル化の終わりを語る

写真:Adam Schultz / The White House/出典/Public domain (US federal government)。表示用サイズ・圧縮調整。
チャンは会社を離れても、公の場で半導体について語り続けた。2023年3月、台湾の経済誌CommonWealthが開いたフォーラムでは、半導体の世界ではグローバル化が終わったという厳しい見方を示した。自由に設計を集め、最適な場所でつくり、世界へ売る。その仕組みの上に立つ企業を育てた本人が、前提の変化を口にした。[63]
背景には、アメリカと中国の対立がある。先端半導体はスマートフォンの部品であると同時に、AIや軍事技術にもかかわる。誰へ売り、どの装置を使わせ、どこでつくるかが、企業だけで決められる問題ではなくなった。2023年の対話でチャンは、中国の技術進歩を遅らせるアメリカの政策を支持する一方、供給網が分かれれば費用が上がるとも述べた。[63]
安く、高性能に、大量につくる。そのために国境を越えて企業をつないできた人物が、安全保障を理由とした分断も支持する。世界の工場になった会社を、単にどの国にも同じ距離の中立な存在として置いておくことは難しくなった。彼の発言には、製造の合理性だけでは答えが出ない時代への認識があった。[63][64]
利益より先に国の条件が来る
同年7月、チャンは改めて、国の安全保障や技術上の優位が、国境を越えた商売に優先するようになったと語った。外国で利益を得ることも、外国企業を国内へ入れることも、自国の地位を損なわない範囲で認める。政府がそうした条件を強めれば、企業は費用だけを見て工場の場所を決められない。[64]
TSMCが台湾で高い効率を築いたからこそ、世界の国々が、その能力を自国にも置きたくなる。台湾に集めれば効率はよくても、顧客や政府は供給が途切れる危険を減らしたい。工場を分散すれば、建設費や人材確保の難しさが増える。チャンが長く追った製造の学習と規模の効果に、別の物差しが重なった。[60][64]
アメリカは、若いチャンが技術者として育った国でもある。そこで生まれた設計を台湾でつくることで、彼は大きな会社を築いた。その往復を支えた世界が変わる時、彼は単に昔を懐かしむのではなく、何が費用を押し上げ、何が今後の判断を縛るのかを語る立場になっていた。[64][2]
28日本で見えた次の工場
92歳で熊本の開所式へ
2024年2月24日、チャンは日本南西部・九州の半導体産業が集まる熊本県で、JASMの開所式に出席した。JASMはTSMCが多数の株式を持つ日本の製造会社だ。会場にはTSMCの後継経営陣、日本政府や熊本県の関係者、Sony、DENSO、Toyotaなどの代表者が集まった。[65]
チャンは92歳。現役の会長として工場を指揮するのではなく、創業者としてその場にいた。台湾の新竹で始めた会社の仕事が、日本の自動車や電子機器の産業にも直接つながっていく。自社の製品を売らないという事業は、商品をつくる別の会社と深く結び付くほど、進出先の産業全体にも入り込むようになった。[65]
JASMの出発点では、Sonyの半導体事業会社が少数株主として参加し、次にDENSOが加わった。TSMCが製造を担い、日本の顧客側も資本を出す。単に外国の工場を誘致して終わるのでなく、そこでつくるものを必要とする会社が関係へ入った。創業時に政府、Philips、民間投資家を組み合わせたTSMCとは時代も規模も違うが、技術と資金と客を結ぶ仕事は続いていた。[66][67]
200億ドル(約3兆1668億円)を超える計画
開所式に先立つ2024年2月6日、JASMは第2工場の建設計画と、Toyotaの出資参加を発表していた。2つの工場を合わせた投資は200億ドル(約3兆1668億円)を超える計画で、日本政府の強い支援も伴う。発表時には車載、産業機器、消費者向け製品、高性能計算に使う製造技術を揃える構想が示された。[68]
最先端という言葉だけでは、工場の役割は決まらない。自動車、画像センサー、通信機器など、必要とする製品ごとに費用と性能と供給の条件が異なる。TSMCは、顧客がいる場所で必要な製造能力を組み合わせる企業へ広がっていた。台湾の会社が日本に来るニュースの中には、チャンが始めた分業の仕組みが入っている。[68][66]
資金を用意する経営陣、工場を建てる企業、装置のメーカー、働く技術者。台湾から来た社員と、日本で集まった人たちが新しい生産拠点を動かす。引退した創業者の前で、客の設計を受けて製品へ変える仕事が、別の国でも始まっていた。[53][65]
29AIの時代へ残った仕事
自分のいない会社がさらに大きくなる
2025年のTSMCの連結売上は3兆8090億5427万2000ニュー台湾ドル(約18兆3558億円)だった。製造した製品は1万2682種類、顧客は534社。顧客が別々に設計した多数の製品を、共通の技術と巨大な工場群でつくる。創業時には理解されにくかった役割が、世界の技術産業を支える規模へ届いていた。[53]
成長の先にはAI向けの需要がある。高性能な計算用半導体を設計する企業が伸びれば、その製品をつくる工場と、チップをつなぐ先端実装の能力も必要になる。チャンが顧客の製品を自社で真似して売る道を選ばなかったことで、TSMCは異なる企業の成長を引き受ける側にいられた。[53][50]
2025年3月、TSMCはアメリカでの投資を追加し、総額1650億ドル(約26兆1261億円)へ拡大する意向を公表した。これは実際の支出がその日までに終わったという数字ではなく、工場や先端実装、研究開発を含む投資構想だった。さらに現在のアリゾナ拠点の公式案内では、2026年7月の追加方針を含めて2650億ドル(約41兆9601億円)規模へ広がった計画が示されている。[69][70]
チャンがSylvaniaを選んだ時の月給は480ドル(約7万6003円)。そこから70年ほどたつと、彼のつくった会社は、国家規模の投資計画を語る存在になっていた。その間をつないだのは、1回の発明ではない。良品を増やし、客へ返事をし、費用を読み、次の設備へ金を置き、失敗した事業からは引く。長い製造業の判断が積み重なった。[5][69]
30作家になる夢も戻ってきた
自分の人生を自分で書く

写真:Simon Liu / Office of the President, Taiwan/出典/CC BY 2.0。表示用サイズ・圧縮調整。
引退後のチャンは、自伝の続きに取り組んだ。最初の巻は1998年に出版していたが、第2巻が出たのは2024年だった。26年の間に、TSMCは拡大し、金融危機をくぐり、Appleの製品をつくり、創業者の引退まで進んだ。本人はその時間を、他人へ語って書いてもらうのでなく、自分の文章にした。[8][71]
少年時代には、父から生活の難しさを指摘されて作家の夢を引っ込めた。工学を学び、英語で仕事をし、中国語の長い文章から離れていた時期もあった。それでも自伝の序文に、かつて書く仕事を望んだことを残した。何十年も製造業の数字を扱った後に、少年の関心が再び自分の時間へ戻ってきた。[8]
2024年12月の出版記念の場で、執筆は楽しかったかと聞かれたチャンは、苦しかったと率直に答えた。半導体が自分の専門であり、文章を書くことには気分が乗る時間も乗らない時間もあった。企業を大きくした後も、新しい仕事の前では手間がかかる。93歳の著者は、うまくできた部分だけを並べる受賞式のように、自分の執筆を語らなかった。[71]
感情を隠さない
彼はHemingwayの作品を愛読していた。出版記念の対話で、自伝にも表面に見えない感情があるのではないかと問われると、自分は感情をすでに全部書いたと答えた。会社の表舞台では、設備投資や技術や次の製造世代を語る。その本人が、人生の記録には感情も書き込んだと言う。
学位を取れなかった時、長くいた会社を去った時、故郷と違う場所へ移った時。経歴の短い欄には年と役職だけが残るが、本人が書きたかった時間は、その間にもあった。チャンは、半導体をつくる会社の創業者として知られるようになった後で、書くことを望んだ少年の仕事にも戻った。[71]
31取れなかった博士号の先で
世界が変わる場所へ動いた
チャンの人生には、思いどおりにならなかった入口が何度もある。博士試験。長く働いた大企業。肩書きを上げて移った会社。そこで止まった後に、別の仕事と場所へ動いた。台湾へ来た時には、若い創業者のような勢いだけでなく、工場をつくり、研究費を求め、価格と費用を調整してきた長い経験を持っていた。[6][3]
TSMCで新しくしたのは、半導体の設計と製造を必ず同じ会社で抱えるという前提だった。自分が何をつくりたいかではなく、他人がつくりたいものを、確実につくれる場所にする。事業の野心は小さくならなかった。かえって、世界中の設計会社が挑む市場を工場の向こう側へ集めた。[1][4]
学者になれなかった青年が、研究開発のために巨額の金を動かす。経営の頂上へ届かなかった大企業の幹部が、55歳で新しい会社をつくる。名前のついた商品を売らない会社が、その名前を知らない人の日常まで支える。チャンの仕事の大きさは、工場の外で生まれた無数の製品にも残っている。[2][53]
参考文献・出典 71件
本文の番号に対応する資料です。本人・関係者のインタビュー、当時の取材、企業の発表を参照しています。
- TSMC:専業ファウンドリーの仕組みと役割 ↩ 本文
- Computer History Museum:Morris Chang 2007 Fellow ↩ 本文
- TSMC:Morris Chang receives IEEE Robert N. Noyce Medal(2000年) ↩ 本文
- Stanford Engineering Hero Morris Chang honored for revolutionizing chip making ↩ 本文
- IEEE Spectrum:Morris Chang — Foundry Father(2011年) ↩ 本文
- SEMI・Computer History Museum:Morris Chang口述史(2007年8月24日) ↩ 本文
- 天下文化:Morris Chang自伝抜粋・読書と英語の学習 ↩ 本文
- 天下文化:張忠謀自傳上冊・本人序文と書籍案内 ↩ 本文
- Stanford:2012 Engineering Heroes — Morris Chang ↩ 本文
- Computer History Museum:Morris Chang oral history全記録(2007年) ↩ 本文
- Brookings・CSIS:Vying for Talent/Morris Chang本人対話(2022年4月14日) ↩ 本文
- ITRI創立50周年:Taiwan’s Semiconductor Industry Hall of Fame ↩ 本文
- TSMC 1996 Annual Report:創業後10年間の年表 ↩ 本文
- TSMC Form 20-F:設立・上場・海外拠点の沿革(2006年度) ↩ 本文
- Global Views / TVBS:Morris Chang on his legacy, TSMC journey and semiconductors(2024年本人インタビュー) ↩ 本文
- TSMC・Philips間の技術・協業契約(SEC提出資料) ↩ 本文
- Computer History Museum:Morris ChangとJensen Huangの対話(2007年10月17日) ↩ 本文
- TSMC 1994 Annual Report:顧客と競争しない定款・顧客数・従業員数 ↩ 本文
- EE Times:One-on-One with TSMC chairman Morris Chang(1998年本人インタビュー) ↩ 本文
- Acquired:TSMC Founder Morris Chang/本人インタビューと公式文字起こし(2025年1月27日) ↩ 本文
- NVIDIA・TSMC:半導体出荷5億個の共同発表(2006年10月24日) ↩ 本文
- NVIDIA・TSMC:0.13μm量産とGPU累計2億個(2002年12月16日) ↩ 本文
- NVIDIA・TSMC:GeForce累計10億個(2011年1月13日) ↩ 本文
- TSMC:台湾企業初のNYSE上場(1997年10月8日) ↩ 本文
- TSMC:1998年監査済み決算(1999年1月26日) ↩ 本文
- TSMC:1998年設備投資計画の改定 ↩ 本文
- TSMC:921地震発生当日の設備状況(1999年9月21日) ↩ 本文
- TSMC:921地震後の電力・製造復旧状況(1999年9月23日) ↩ 本文
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- TSMC:28nm設計基盤とOpen Innovation Platform(2011年5月26日) ↩ 本文
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- TSMC:3DFabric Alliance発足/NVIDIAのCoWoS利用(2022年10月26日) ↩ 本文
- TSMC:SMICとの特許・営業秘密訴訟の和解(2005年1月30日) ↩ 本文
- TSMC:SMICとの営業秘密訴訟の新たな和解(2009年11月10日) ↩ 本文
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- Reuters:Morris ChangがJensen HuangへCEOを打診した自伝の記録(2024年11月29日) ↩ 本文
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- TSMC 2021 TCFD Report:干ばつ対応と水の再利用 ↩ 本文
- TSMC 2021 Sustainability Report:給水車・用水リスク管理 ↩ 本文
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- TSMC:JASM熊本開所式(2024年2月24日) ↩ 本文
- TSMC・Sony Semiconductor Solutions:日本工場の設立(2021年11月9日) ↩ 本文
- TSMC:DENSOによるJASMへの出資(2022年2月15日) ↩ 本文
- TSMC:JASM第2工場計画とToyota出資(2024年2月6日) ↩ 本文
- TSMC:アメリカ投資を1650億ドルへ拡大する意向(2025年3月4日) ↩ 本文
- TSMC Arizona公式案内:2650億ドル規模の投資計画と2026年7月追加方針 ↩ 本文
- 遠見:自伝出版記念の本人発言・作家の夢と執筆(2024年12月9日) ↩ 本文
写真の作者・利用条件・撮影年は各画像の下に記載。取材資料と写真の出典は別々に確認できます。
※ 円換算は2026年11月5日確認のWise表示値(1米ドル=158.34円、1ニュー台湾ドル=4.819円)を使用。取引当時の為替や物価・購買力を再現するものではありません。 為替出典:USD / TWD
本文更新:2026-11-05



